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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、ピザ窯の火入れ式

 高橋直子部長との、あの奇妙な「レンガ積み」という名の共同作業から、季節は初夏へと移ろっていた。


 庭の空気は密度を増し、陽光は強く、生命の息吹に満ちている。

 咲が丹精込めて手入れしたハーブたちは、その精油成分を太陽の下で凝縮させ、一歩足を踏み入れるだけで清涼な香りが全身を包み込む。


 そして、庭の中央には、数ヶ月にわたる陽介の週末の汗と、家族の知恵が結実した、「ピザ窯」がその威容を現していた。


 耐火レンガの赤茶色は、土と火によって生まれた力強い色だ。

 その一つ一つが、陽介がモルタルを練り、水平器を覗き込み、丁寧に積み上げた記憶を宿している。


 窯のドーム型の曲線は、翔が緻密な計算と放物線の知識を駆使して導き出した完璧な構造であり、その上に咲が選んだカラフルなモザイクタイルが、陽光を浴びて宝石のようにきらめいている。

 青、緑、黄色の小さな破片たちは、硬質なレンガの構造体に、遊び心と芸術的な魂を吹き込んでいた。


 美和の要望通りの高さに設計された焼き床は、大人が腰をかがめることなく、楽にピザを出し入れできる位置にある。


 それは、機能性への配慮であると同時に、美和がこの窯を日常の道具として愛用するための、陽介からの無言のメッセージだった。


 陽介は、完成したピザ窯を前に、まるで古代の王が自分の築いた城を眺めるように、感慨に浸っていた。


 これは、単なる調理器具ではない。インターネットの設計図と、ホームセンターの材料から生まれた無機質な塊ではない。


 これは、家族の議論、時には意見の衝突、共に流した汗、そして全ての作業を乗り越えた後の達成感と笑い声が、レンガの隙間にまで凝縮された、「佐藤家の歴史そのもの」だった。


 一つのプロジェクトが、家族の絆をこれほどまでに目に見える形で結晶化させるものなのかと、陽介は改めて感動した。

 仕事では、どれほど大きな契約を成功させても、残るのはデータと数字、そして書類の山だけだ。


 だが、ここには、触れることができ、熱を発し、香りを放ち、そして家族の未来を約束する、確固たるレガシーがある。


 今日は、そのピザ窯に初めて火を入れる、記念すべき「火入れ式」の日だ。

 それは、この窯に命を吹き込む儀式であり、同時に、この庭で始まる新たな生活のフェーズへの祝福でもあった。


 招待客は、陽介の庭活動の理解者である同僚の佐々木、そして、あのたった一つだが決定的なレンガを積んだ「名誉メンバー」である高橋部長の二人。

 彼らは、陽介の会社での生活を知る者であり、この「非効率」な趣味が持つ真の価値を、最も深く理解する可能性を秘めた証人たちだった。


「陽介さん、準備できた?」


 キッチンから、エプロン姿の美和が顔を出した。その声は、料理を前にした期待と、この日の主役を務める誇りに満ちていた。


 彼女の手には、自家製のピザ生地と、庭で採れたばかりの鮮やかな緑のバジル、真っ赤なトマト、そして純白のモッツァレラチーズが載った大きなトレイがある。


「ああ、完璧だ。薪も十分に乾燥している」


 陽介は、翔が計算通りに割って積み重ねてくれた薪の中から、特に火付きの良さそうな、乾燥した広葉樹を選び出していた。

 木材の繊維の奥に閉じ込められた太陽のエネルギーを、今日、解き放つ番だ。



---



 正午過ぎ。静かな庭の空気を破り、最初に現れたのは、佐々木だった。


「佐藤さーん!お邪魔しまーす!うわ、マジでできてる!すっげえ!」


 佐々木は、いつものオフィスでのスーツ姿とは違い、動きやすいカジュアルな服装で、手には地ビールと珍しいチーズを持って現れた。

 彼の興奮は隠しようがなく、その目は、まるで子供がおもちゃの城を見つけたかのように輝いていた。


「佐々木、ようこそ。すごいだろ、俺たちの集大成だ」

「集大成ってレベルじゃないですよ!これ、プロに頼んだら数百万円コースですよ。佐藤さん、本当になんでサラリーマンやってるんですか?」


 佐々木はすぐにピザ窯に近づき、屈んで中の構造を覗き込んだり、レンガの表面を触ったりしている。


 彼は、陽介の庭活動に最も早く共感を示した同僚であり、陽介の「余白の哲学」の最初の弟子のような存在だった。

 彼の心からの賞賛は、陽介の努力が報われたことを再確認させてくれた。


 佐々木がひとしきり興奮した後に、高橋部長が到着した。

 高橋は、手土産のイタリア製ワインを片手に、庭の門をくぐった。彼女の服装は、あの日レンガを積んだ時と同じ、整えられたチノパンとポロシャツだが、彼女の全身から放たれるオーラは、以前とは決定的に異なっていた。


 以前の高橋は、「効率」という名の剣を常に携えた、張り詰めた弓のような緊張感があった。

 だが、今日の彼女は、その剣を鞘に納め、弦を緩めたかのように穏やかだ。目元には、以前陽介が見た「笑い皺」が再び刻まれており、その表情には、バードウォッチングで見つけた「静寂」の安堵が滲んでいた。


「高橋部長、お越しいただきありがとうございます」


 陽介が恭しく頭を下げる。


「ああ。招待されたからには、来ないわけにはいかないだろう」


 高橋は、佐々木の興奮を横目に、ピザ窯に近づいた。

 彼女は言葉を発する前に、窯全体をゆっくりと、まるで建築のプロが構造を査定するかのように、下から上へと視線を巡らせた。彼女の視線は、翔の計算が詰まったアーチの曲線、咲の感性が光るタイルの模様を通り過ぎ、そして、窯の土台部分にある、あのレンガに吸い込まれた。


「佐藤、完成したな。見事だ」


 高橋は、自分が積んだ、たった一つのレンガにそっと指で触れた。その指先には、レンガのざらつきと、モルタルの冷たい感触が伝わる。


「このレンガも、ちゃんと役目を果たしているようだな。私の手元を離れた後も、揺るぎなく、この構造を支えている」


「はい、部長のおかげで、最高の強度が保たれています」


 陽介は、この言葉に一切の皮肉を込めず、真実として答えた。あのレンガは、この窯が持つ「物語性」の決定的なピースだったからだ。


 高橋は、満足そうに深く頷いた。彼女の承認は、陽介にとって、仕事の成果を認められるよりも深く、個人的な価値観を肯定される喜びを伴っていた。



---



 ゲストが揃い、いよいよ、火入れの儀式が始まった。

 陽介は、庭のベンチに腰掛けている高橋と佐々木、そして家族全員に静かに呼びかけた。


「皆、窯に火を入れる瞬間を見ていてくれ。この炎が、この窯の命になる」


 陽介は、翔が組んだ薪の山に、着火剤を少量だけ垂らし、長く細いライターで火をつけた。


 最初は小さな、頼りない炎だった。それは、まるで生まれたばかりの命のように、弱々しく揺らめいていた。


 しかし、翔が計算した通りの完璧な排煙構造のおかげで、すぐにドラフトが生まれ、炎はみるみるうちに力強さを増していった。


 パチパチという薪の爆ぜる音。ゴーッという、窯の中で空気が勢いよく燃焼する低い唸り。


 炎は、窯の天井を舐めるように、オレンジ色から黄金色へと輝きを増しながら広がっていった。


 高橋は、腕組みをして、その炎を見つめていた。彼女の目は、まるで複雑な市場の動きを読むかのように、炎の揺らぎを分析している。

 佐々木は、スマホを構え、そのダイナミックな光景を写真に収めようとしている。


 窯の温度計が、ぐんぐんと針を上げていく。

 摂氏200度、300度、そして理想的な400度を超えた。レンガの表面は、熱を吸収し、真っ赤に白熱し始めている。


「よし、いけるぞ。窯が、ピザを焼く準備ができたと告げている」


 陽介は、ピザピールに、美和がトッピングした最初のマルゲリータを乗せた。生地は、陽介が前夜から仕込んだ、自家製の天然酵母ピザだ。


 家族全員と、ゲストである二人の同僚の視線が、熱気を放つ窯の口に集中する。その瞬間、庭の静寂は、極限まで高まった緊張感によって満たされていた。


 陽介は、一息ついてから、ピザを滑るように窯の中へと送り込んだ。

 瞬間、「ジュッ!」という、生地が熱い焼き床に触れて水分が蒸発する、短い、しかし決定的な音が弾けた。


 灼熱の窯の中、奇跡のような変化が始まった。

 数分もしないうちに、生地の縁は、窯の天井からの輻射熱と床からの伝導熱によって、瞬く間に膨らみ、カリッと焦げ色に変わっていく。チーズは、まるで生き物のように沸騰し、トマトソースとバジルから、香ばしい匂いが庭中に渦巻く。


「……出すぞ!」


 陽介がピールを引き抜くと、そこには、完璧な焼き上がりのマルゲリータが乗っていた。


 縁は豹柄の焦げ目が美しく入り、カリッと香ばしく焼き上がっている。中央は、真っ赤なトマトソースと、とろりと溶けた白いモッツァレラチーズ、そして焼かれて香りを増した緑のバジルが、イタリアの国旗のように鮮やかな色彩を放っていた。


 「わあ!」という家族の歓声と、佐々木の「すげえ!」という感嘆の言葉、そして高橋の静かな拍手が沸き起こった。



---



 焼きたてのピザは、陽介の手によってすぐにテーブルに運ばれ、美和が切り分けた。


 最初の一切れは、この窯の製作に貢献した「名誉メンバー」である高橋に勧められた。


 高橋は、熱々のピザを手に取った。その三角形の生地の重み、立ち上る香ばしい湯気。彼女は、まるで美術品を扱うように慎重に、そして敬意をもって、一口食べた。


 カリッ、モチッ、フワッ。


 生地の三層の食感が、口の中で複雑なハーモニーを奏でる。

 そして、口いっぱいに広がるトマトの濃厚な酸味と、モッツァレラの豊潤なコク。その全てを包み込むのは、薪の燃焼によって生まれた、深く、野性的な薫香だった。


「……美味い」


 高橋は、目を見開き、静かに、しかし深い確信をもって呟いた。その「美味い」は、単なる味覚の評価ではない。

 それは、彼女がそれまで信じてきた「効率の論理」とは対極にある、「非効率が生み出した圧倒的な価値」への降参の言葉だった。


「これは……店で食べるものとは、次元が違うな。熱だけではない。この窯には、何か、別のエネルギーが詰まっているようだ」


 高橋は、陽介を見た。その目に宿るのは、上司としての査定の視線ではなく、一人の人間が、他人の創造性に対して抱く、純粋な驚きと敬意だった。

 美和も、一口食べて目を潤ませた。


「本当……。お店のピザより美味しいわ! 私たちが選んだレンガと、翔くんの計算と、咲のデザインと、そして陽介さんの汗と愛情が、全部味になってるのね」


 佐々木は、二切れ目を頬張りながら、感動に打ち震えていた。


「佐藤さん、これ、本当にすごいですよ。こんなの、会社の研修よりも、よっぽどチームビルディングになりますよ!このピザを食べてる間、僕、高橋さんが部長だってこと、完全に忘れてましたもん!」


 その言葉に、高橋は珍しく声を上げて笑った。その笑い声は、会社のフロアでは絶対に聞けない、腹の底からの、解放された笑いだった。


 陽介は、次々と焼かれるピザを窯から取り出しながら、その光景を眺めていた。


 高橋と佐々木が、オフィスでの立場を忘れ、ただの「ピザ好きの隣人」として語り合っている。

 翔が、高橋部長からの窯の構造に関する鋭い質問に、専門家のように答えている。

 咲が、ピザのトッピングのデザインについて、佐々木と熱く議論している。


 かつては、陽介一人の孤独な場所であり、家族の理解も得られなかった庭が、今は、家族だけでなく、同僚たちをも巻き込んだ、温かい「コミュニティの中心」となっていた。


(俺が作りたかったのは、ピザ窯という「物」だけじゃなかったんだ。この、人々が鎧を脱ぎ、本音で笑い合える「時間」と「空間」を作りたかったんだ)


 陽介は、額の汗を拭いながら、その場で立ち尽くし、心からの充足感を味わった。

 それは、契約を勝ち取った達成感でも、昇進した優越感でもない。自分の手で、人々の心を繋ぐ「場」を創造した、クリエイターとしての根源的な喜びだった。



---



 夕暮れが迫り、佐々木と高橋部長が帰路についた後の庭。

 庭は再び静寂を取り戻した。


 ピザ窯は、まだレンガの奥深くに熱を抱き、微かに温かい。家族四人は、その残り火のそばに座り、何も言わずに空を見上げていた。


「楽しかったね」咲が静かに言った。「私のデザインしたタイル、みんなすごく褒めてくれたよ。特に部長が、色のバランスが素晴らしいって」

「窯の温度、最後の最後まで安定してたな。断熱材、ケチらなくて正解だったよ。翔の計算は完璧だった」翔は、少し誇らしげに言った。

「みんなで食べると、本当に美味しいわね。あの部長の笑顔を見たら、陽介さんが頑張った甲斐があったって、心から思うわ」美和が、陽介の肩にそっと手を置いた。


 陽介は、家族の顔を見渡し、その温かさに深く頷いた。


 ピザ窯の完成と火入れ式の成功は、単なるDIYの終了ではない。

 それは、家族が「共同で何かを成し遂げる力」を持っていることを証明し、その力を外部へと、つまり社会へと広げていく、新たなフェーズの始まりを告げる狼煙だった。


 陽介は、高橋部長との会話を反芻していた。

 「別のエネルギーが詰まっている」。

 そのエネルギーとは、愛であり、時間であり、共有の喜びだ。それは、会社の数字や市場の効率では決して計測できない、人生の真の価値だった。


 そして、高橋部長もまた、そのエネルギーに触れ、硬く閉ざされていた心の扉を少しだけ開いたのだ。


 陽介の胸には、熱いレンガのように、消えることのない確かな「自信」と、家族と仲間への「愛」が残っていた。


 彼の42年の人生は、今、庭という名の聖域から、新たな光を放ち始めていた。


 このピザ窯は、これからも多くの人をこの庭に招き、多くの笑顔を生み出し、陽介の「余白の哲学」を社会へと広げていく、そのための揺るぎない拠点となるだろう。


 残り火は、静かに、しかし力強く燃え続けていた。

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― 新着の感想 ―
最後まで読ませて頂きました。 始まりから、家族が徐々に近づいていき、仕事にも自信がついていくまでの流れがとても良かったです。
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