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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、上司との共同作業

 翌日、日曜日の朝。陽介は、早朝から庭に出ていた。

 前日の高橋部長との予期せぬ遭遇は、まるで白昼夢のような出来事だったが、庭に残された作業途中のピザ窯の土台は、それが紛れもない現実であったことを物語っていた。


 陽介は、新しいモルタルを練りながら、昨日の高橋の背中を思い出していた。

 蛍光色のウェアで走り去ったあの上司の背中に、これまで感じたことのない人間的な「重み」と、微かな「寂しさ」を見たような気がしたのだ。


(部長も、何かを探しているのかもしれないな……)


 陽介は、コテを使ってレンガの上にモルタルを均一に伸ばした。


 今日は、窯の燃焼室となる壁部分の積み上げ作業だ。

 基礎とは違い、見た目に直結する部分であり、かつ熱効率を左右する重要な工程である。集中力が必要だった。


 午前10時を過ぎた頃だった。

 再び、庭の入口付近で砂利を踏む音がした。

 陽介が顔を上げると、そこには昨日と同じように、しかし服装を変えた高橋直子が立っていた。


 昨日の派手なランニングウェアではなく、今日はベージュのチノパンに、襟付きの紺色のポロシャツ。足元はウォーキングシューズ。

 いわゆる「休日のゴルフに行く」ようなスタイルだが、高橋が着ると、それすらもどこか制服のように隙がなく見えた。


「……佐藤。昨日の続きかね」


 高橋は、ウッドフェンス越しに声をかけてきた。

 その口調は、昨日の動揺を隠すように、いつもの冷静さを取り繕っているようだったが、どこか居心地が悪そうに視線を彷徨わせていた。


「あ、おはようございます、部長!」


 陽介は立ち上がり、軍手を外した。昨日のようなパニックはもうない。むしろ、来てくれたことに対する不思議な安堵感があった。


「はい。今日は窯の壁部分に入ります。ここからが、窯の熱効率を決める重要な作業なんです」


 陽介は、自分のテリトリーである庭の中から、穏やかに答えた。


 太陽の光が、積み上げられたレンガの赤茶色を鮮やかに照らしている。


 高橋は、柵の向こう側から、じっと作業現場を見つめていた。

 その視線は、監査役のように鋭くはなく、どこか迷子のような、所在なげなものだった。


 陽介は、バケツの水でモルタルで汚れた手を洗いながら、ある決断をした。


 このまま柵越しに会話をするのは、あまりに他人行儀だ。

 それに、高橋の瞳の奥にある、抑えきれない好奇心のような光を、陽介は見逃さなかった。


「部長。そんなところに立っていないで、せっかくですから中へどうぞ」


 陽介は、ウッドデッキの方を手で示した。


「少し休憩しませんか? ちょうどコーヒーを淹れようと思っていたところなんです。それに、娘が焼いたクッキーもあります。

 昨日、部長が『レンガが綺麗だ』とおっしゃってくださったので、妻たちが気を利かせて用意してくれたんです」


 高橋は一瞬、躊躇した。

 部下の家の敷地内、それもプライベートな庭に足を踏み入れることは、彼女の「公私混同を避ける」というポリシーに反するかもしれなかった。


 しかし、漂ってくるコーヒーの香りと、陽介の屈託のない笑顔、そして何よりも目の前にある「未完成のレンガの塔」への興味が勝ったようだった。


「……そうか。では、少しだけ邪魔をするよ」


 高橋は、ゆっくりと門を開け、庭へと足を踏み入れた。

 スニーカーで踏みしめる芝生の感触。土と緑の匂い。


 彼女が普段身を置く、空調の効いたオフィスや、無機質なマンションの廊下とは全く異なる、生命の気配が満ちた空間だった。


 陽介は、アウトドア用の椅子を勧め、マグカップに注いだコーヒーと、咲が焼いた不揃いな形のクッキーを載せた皿を差し出した。


「どうぞ。深煎りの豆を、朝挽いたばかりです」

「……すまないな」


 高橋は椅子に腰を下ろし、カップを両手で包み込んだ。温かさが掌から伝わってくる。一口飲むと、香ばしい苦味が口の中に広がった。


 彼女は、無言で庭を見渡した。

 整えられた道具たち。使い込まれた焚き火台。風に揺れるハーブ。


 ここには、会社での報告書も、緊急のメールも、常に彼を追い立てる「効率」という名のプレッシャーも存在しない。


 あるのは、鳥のさえずりと、時折通り過ぎる風の音、そして陽介が再びモルタルを攪拌し始めた、ザクッ、ザクッという静かな音だけだった。


 高橋の肩から、少しずつ力が抜けていくのが分かった。



---



 コーヒーを飲み終えた高橋は、再び立ち上がり、陽介の作業のそばへと歩み寄った。


 陽介は、耐火レンガの裏面に丁寧にモルタルを塗り、それを一段下のレンガの上に置き、ゴムハンマーでコンコンと叩いて微調整をしていた。その横顔は真剣そのもので、職人のようだった。


 彼は、高橋の視線を感じて手を止めた。そして、予備の軍手と、まだ積まれていないレンガを手に取り、高橋の方へ差し出した。


「部長。もしよろしければ、このレンガを一つ、積んでみませんか?」


 高橋は目を丸くした。


「私が、かね……?」

「はい。面白いですよ。ただのブロック遊びに見えるかもしれませんが、水平器を使って、完璧な水平を出す瞬間が、なんとも言えず気持ちいいんです」


 高橋は、陽介の手にあるレンガと、黄色い液体が入った水平器を見つめた。

 彼女の人生は、常に「思考」と「指示」と「決断」で満たされていた。自分の手を使って何かを作る、という「手作業」とは、学生時代以来、無縁の生活を送っていた。


「……私は、こういう作業は、本当に苦手でね。手先も不器用だし、君のように根気強い完璧主義でもない。……仕事の適性で言えば、私よりも佐々木君の方が向いているだろう」


 高橋は、苦笑いを浮かべて断ろうとした。

 それは謙遜というよりも、自分の「不得手」な部分を部下に見せることへの、本能的な拒否反応だったかもしれない。失敗して不格好なところを見せたくない、というプライド。


 しかし、陽介は引かなかった。彼は、優しく、しかし力強く言った。


「仕事のスキルは関係ありません、部長。これは、デジタルな効率とは違う世界の話です」


 陽介は、レンガを高橋の手に持たせた。ずしりとした、焼き固められた土の重みが高橋の手に伝わる。


「ただ、この水平器の気泡を、この二本の線の間に持ってくるだけです。誰かと競争するわけでも、納期があるわけでもありません。これは、重力と、物質と、自分の感覚だけが頼りの、『物理的な真実』を追求する時間です」


「物理的な真実……」


 高橋はその言葉を反芻した。


 陽介は、そっと高橋の手を誘導し、軍手をはめさせた。


 高橋は、観念したように、しかしどこか期待を含んだ目で、レンガを握りしめた。


「……一つだけだぞ」

「はい。最高の一つをお願いします」


 高橋は、陽介がコテで均したモルタルの上に、慎重にレンガを置いた。

 「ムニュッ」という感触と共に、レンガがモルタルに沈む。


 彼女は、おそるおそる水平器をレンガの上に置いた。

 気泡は、大きく右に偏っていた。水平ではない。


「ああ、やはり……」


 高橋はため息をつき、すぐに手を引っ込めようとした。失敗だ、と判断したのだ。


「大丈夫です、部長。モルタルが乾く前なら、何度でもやり直せます」


 陽介の声が、横から優しく響いた。


「焦る必要はありません。少し、レンガの左側を強く押してみてください。そう、そこです。じわっと体重をかける感じで」


 その声には、会社で部下に冷たく指示を出す時の張り詰めた空気は微塵もなかった。そこにあるのは、同じ目的に向かう「共同作業者」としての、温かい親愛の念だけだった。


 高橋は、言われた通りに、左手に力を込めた。

 グッ、とレンガが沈む。

 水平器の中の緑色の液体の中で、気泡がゆらりと動いた。


 行き過ぎた。今度は左に偏る。

 高橋は、微かに右側を叩く。

 コン。コン。

 気泡が戻る。

 あと少し。ミリ単位の調整。


 高橋の視界から、庭の景色も、陽介の顔も、会社での悩みも消えた。

 ただ、この小さな気泡を、二本の黒い線のど真ん中に収めること。

 世界が、その一点だけに収束していく。


 コン。

 気泡が、ピタリと中心で止まった。


「……そこだ!」


 高橋の口から、思わず声が漏れた。

 陽介も同時に「完璧です!」と声を上げた。


 その瞬間、高橋の顔に、ごくわずかだが、しかし確かな安堵と満足の表情が浮かんだ。

 口元が緩み、目尻のしわが深くなる。


 それは、彼女が会社のプロジェクトで競合他社に競り勝った時の「戦略的勝利」の冷たい笑みとは異なり、純粋な「身体的達成感」による、少年のような笑顔だった。


 高橋は、水平器を外し、自分が積んだレンガをまじまじと見つめた。

 たった一つのレンガ。

 しかし、それは地球の重力に対して、完璧に水平に、そこに存在していた。


(なぜだ? このレンガ一つを積むのに、私は数分間も、完全に無心になっていた)


 高橋は、自分の内面を見つめた。

 仕事のメールの通知音も、明日の会議の議題も、株主への説明責任も、すべて頭から消えていた。


 ただ、手を動かし、目の前の物質と対話していた。

 その数分間、彼女の脳は、長年彼を縛り付けていた「思考のノイズ」から解放され、深い静寂に包まれていたのだ。


(これこそが……佐藤が言っていた、『余白』というものなのか)


 効率を追求するあまり、切り捨ててきた「無駄な時間」。

 しかし、その無駄の中にこそ、人間が人間らしくあるための「呼吸」ができる場所があったのだ。


「ありがとうございます、部長。完璧です。これで、この窯には部長の『集中力』が注入されました。最高のピザが焼けるはずです」


 陽介は、心から感謝の意を伝えた。

 お世辞ではなかった。陽介は、高橋が不器用ながらも真摯にレンガに向き合い、額に汗を浮かべて作業する姿を見て、胸が熱くなっていた。


 あの「鉄仮面」と呼ばれた上司が、今、自分の庭で、人間らしい顔を見せている。陽介は、高橋が抱える孤独やプレッシャーを、この共同作業を通じて一瞬でも解放できたことに、静かな誇りを感じた。


 高橋直子が積んだ一つのレンガ。

 それは、陽介が積んだ他のどのレンガとも変わらない赤茶色の塊だったが、陽介にとっては、この庭で起きた最も信じがたい「奇跡」の象徴としてそこに在った。


 高橋は、軍手を外し、陽介に手渡した。

 その手は、不慣れな作業による緊張と、レンガのざらついた感触を記憶するように、わずかに震えているように見えた。


「……ふう」


 高橋は、大きく息を吐いた。それは、会社で難局を乗り切った後の安堵のため息とも、長距離走を終えた後の疲労のため息とも違う、どこか憑き物が落ちたような、深く、静かな呼吸だった。


「水道はあちらです」


 陽介が庭の立水栓を指差すと、高橋は無言で頷き、そちらへ向かった。


 蛇口をひねり、冷たい水が出る。高橋は、モルタルで白く汚れた手を洗い始めた。

 水流が、指の指紋に入り込んだ砂やセメントの粉を洗い流していく。冷たさが、火照った体に心地よい刺激を与える。


 高橋は、手を洗いながら、水面に映る自分の顔を見たわけではないが、自分の内面を見つめていた。


 たった数十分。レンガを一つ、水平に置くために集中しただけの時間。

 しかし、その時間は、彼女がこの数十年間、追い求め続けてきた「効率」という名の高速道路から、ふと降りて立ち止まった「パーキングエリア」のような時間だった。


 そこには、数字も、評価も、競争もない。あるのは、重力と、物質と、自分の指先の感覚だけ。

 単純で、原始的で、しかし圧倒的な「現実感」があった。


(私は、何をそんなに急いでいたのだろうか……)


 高橋は、タオルで手を拭きながら、庭のベンチに座る陽介の背中を見た。

 陽介は、まだ作業の余韻に浸るように、積み上がったレンガの壁を愛おしそうに眺めている。その背中は、会社でのデスクに向かう背中よりも、ずっと大きく、頼もしく見えた。



---



 高橋は、陽介の隣に戻ってきた。

 陽介は、淹れ直した温かいコーヒーを勧めた。


「どうぞ、部長。少し冷えてきましたから」

「ああ、すまない」


 二人は並んで庭を見渡した。咲が手入れしたハーブの緑、翔が整備した自転車の輝き、そして美和が整えた居心地の良い椅子。

 高橋の目には、この庭が、単なる「ガーデニング」や「日曜大工」の場には見えなくなっていた。


「佐藤」


 高橋が静かに口を開いた。その声は、会議室で響く冷徹なトーンではなく、一人の人間としての体温を帯びていた。


「以前、私は君のこの週末の活動を、『効率の悪い家族サービス』だと皮肉ったことがあったな」


 陽介は苦笑した。


「ええ、よく覚えています。『無駄な時間はコストだ』と」

「……訂正しよう。あれは、私の認識不足だった」


 高橋は、ピザ窯の土台に視線をやった。


「今日、君と一緒にレンガを積んでみて、わかったことがある。この作業は、単にピザを焼くための設備を作っているのではない。君は、ここで『時間』を作っているのだな」


「時間、ですか?」


「ああ。家族と共に悩み、汗を流し、一つのものを作り上げる時間。そして、完成した後に、その火を囲んで語り合う未来の時間。……君は、週末のこの労力を、消費しているのではなく、未来の幸福のために『投資』しているのだ」


 高橋の口から「投資」という言葉が出たことに、陽介は驚かなかった。

 それは高橋らしい表現だったが、その意味合いは、金銭的なリターンを求めるものではなく、人生の豊かさを求めるものへと、180度転換していた。


「君の言う『余白』の意味が、ようやく腑に落ちたよ。余白とは、何もしない空白のことではない。『効率』という物差しでは測れない、人生の重要な要素を書き込むためのスペースのことだったんだな」


 陽介は、胸が熱くなるのを感じた。

 ずっと否定され、隠してきた自分の価値観が、最も理解され難いと思っていた人物によって、最も的確な言葉で肯定されたのだ。


「ありがとうございます、部長。……そう言っていただけて、本当に嬉しいです」


 高橋は、コーヒーを飲み干すと、少し自嘲気味に笑った。


「佐藤。少しだけ、独り言を聞いてくれ」


 陽介はそれに黙って答える。


「私の子供の頃の家は、いわゆる愛がなかった。

 父は家族をかえりみず、母は私や兄弟に手を焼き、時には疎ましがっていた。父も母も、子供さえも精神をすり減らし、なんら生産性がない。

 私は思ったのだ。家族ほど、『非効率』なものはないと」


 高橋は、過去の自分を頭に思い浮かべながら、目を閉じる。ふうっ、と小さく息を吐き、自分が逃し続けた何かを掴むように拳を握る。


「私は、効率を追求することで、人生を最適化できると信じてきた。無駄を省けば、その分だけ成功に近づくと。配偶者も子供も持たず、懸命に仕事に向き合うことで、誰よりも成績を上げた。それについてきた社員たちも、みな目を見張るほどの実績を携えてきた。


 だが、ふと気づくと、私の周りには『成果』という名の書類の山はあるが、心から笑い合える人間も、無心になれる時間も残っていなかった」


 それは、完璧主義者である高橋が、部下である陽介に初めて見せた「弱音」であり、同時に「再生への希求」でもあった。


「佐藤。君のこの庭は、私に忘れかけていたものを思い出させてくれた。……土の匂い、風の音、そして、何かを作る喜びだ」


 高橋は立ち上がり、背筋を伸ばした。その姿には、いつもの威厳が戻っていたが、以前のような張り詰めた緊張感は消え、どこか清々しい空気を纏っていた。


「私も、探してみることにするよ。自分なりの『余白』を」

「部長なら、きっと素敵な趣味が見つかりますよ」


 陽介は心からそう言った。


「フン、どうかな。……とりあえず、来週の週末は、仕事を持ち帰らずに、近くの森林公園へバードウォッチングにでも行ってみようかと思っている。双眼鏡だけは、昔買った良いやつがあるんだ」


「バードウォッチングですか! いいですね。静寂と観察。部長の性格にぴったりだと思います」


「静かにしろ。……まあ、鳥が私の性分に合って、逃げなければいいがな」


 高橋は、珍しく冗談めかして言った。その目尻には、確かに笑い皺が刻まれていた。



---



 帰り際、高橋は門のところで振り返った。


「佐藤。このピザ窯、完成予定はいつだ?」


「あと一ヶ月……いや、天候次第ですが、再来月には火入れができると思います」


「そうか。……完成したら、約束通り、私が積んだレンガの隣で焼いたピザを、一番に食べさせてくれ。味の評価は、仕事と同じくらい厳しくするからな」


「望むところです! 覚悟しておいてください!」


 陽介は、力強く答えた。


 高橋は片手を上げて応え、軽やかな足取りで走り去っていった。その蛍光イエローの背中は、もはや「異物」ではなく、陽介の庭の風景の一部として、鮮やかに焼き付いた。


 陽介は、高橋が見えなくなるまで見送った後、美和に声をかけた。


「美和。聞いたか? 部長が、バードウォッチングを始めるって」


 美和は、洗濯物を取り込みながら、穏やかに微笑んだ。


「ええ、聞こえたわ。陽介さん、あなた、すごいわね。あんなに厳格な上司の方を、庭仕事一つで変えちゃうなんて」

「俺が変えたんじゃないよ。この庭と、レンガが変えたんだ」


 陽介は、積みかけのピザ窯の土台を愛おしそうに撫でた。

 この庭は、家族の絆を深めるだけでなく、社会で戦う男たちの鎧をも脱がせ、素顔に戻らせる力を持っている。陽介は、自分の趣味が持つ「社会的な力」と「癒やしの力」を、改めて確信した。



---



 週明けの会社。

 高橋部長の様子は、劇的に変わったわけではなかった。相変わらず厳しい口調で指示を出し、数字には妥協を許さなかった。しかし、陽介には分かっていた。

 その厳しさの裏に、以前のような「焦り」や「人間性の否定」がなくなっていることを。


 会議の休憩中、高橋は陽介の席の横を通る際、小声で「……カワセミを見たぞ。意外と、速いもんだな」とだけ呟いて通り過ぎた。


 陽介は、パソコンの画面に向かったまま、口元だけでニヤリと笑った。

 隣の席の佐々木が、「え、今、部長なんて言ったんですか? カワセミ?」と不思議そうな顔をした。


「さあな。きっと、新しい市場の隠語だろう」


 陽介はそうごまかしたが、心の中ではガッツポーズをしていた。


 高橋が変わった。そして、陽介自身も変わった。

 二人の間には、「仕事」という縦の関係だけでなく、「余白を知る者同士」という横の繋がりが生まれていた。この信頼関係は、どんなチームビルディング研修よりも強固な基盤となり、仕事のパフォーマンスをも向上させていくことだろう。


 陽介は、デスクの上のカレンダーを見た。

 週末の予定には、赤ペンで大きく「ピザ窯・アーチ部分作成」と書き込まれている。


(待っててください、部長。あなたの積んだレンガが、最高の味を生み出すその日まで)


 陽介の心は、週末の庭へと飛んでいた。そこには、家族の笑顔と、未完成だが無限の可能性を秘めたピザ窯が待っている。彼の42歳の人生は、今、最高に充実していた。

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