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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第7章「家族のレガシー」

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42歳、ピザ窯の設計会議

 週末の夜。午後九時を少し過ぎた佐藤家のリビングは、穏やかな照明の下で、しかしその空気は熱を帯びていた。


 いつもの団欒の空間は、今夜ばかりはまるで小さな、しかし情熱的な設計事務所へと変貌を遂げていた。


 ローテーブルの上には、陽介が数日かけて図書館やインターネットから収集した資料が山積みにされている。


 耐火レンガのカタログ、海外のDIYサイトから印刷したピザ窯の構造に関する写真、そして陽介自身が手書きで描いた設計図の草案が何枚も広げられていた。


 コーヒーと、美和が焼いたシナモンクッキーの甘い香りが漂う中で、家族四人の視線は一点に集中していた。


 家族キャンプという、数ヶ月にわたる共同訓練の最終目標を達成した陽介は、今、満を持して次の「レガシー」創出を提案したのだ。それは、庭の象徴となるべき、レンガ造りの本格的なピザ窯。


「みんな、これが我が家のピザ窯の設計図だ」


 陽介は、深呼吸とともに、その宣言を放った。彼の声には、仕事で重要なプレゼンテーションを始める時よりも、ずっと高い高揚感が含まれていた。頬は微かに紅潮し、その瞳はランタンの火のように輝いている。


 美和、翔、咲の三人は、陽介の熱量に引き寄せられるように図面を覗き込んだ。


 彼らにとって、このピザ窯は単なる調理器具という実用的な意味を超越していた。それは、父の新しい趣味がもたらした家族の絆の象徴であり、次なる共同作業の「巨大な舞台」なのだ。


 陽介は、全員の顔を見回し、満面の笑みで続けた。


「これは、俺一人の自己満足で作るんじゃない。家族全員が使うもの、庭の顔になるものだ。だから、構造とデザイン、すべて家族会議で決める。みんなのアイデアが詰まった、世界に一つだけの窯にしたい」


 その言葉は、陽介がこの数年間で獲得した、最も重要な哲学的進化を示していた。


 かつての陽介であれば、間違いなく完璧な設計図を一人で作成し、家族には「効率よく」事後報告を済ませていたことだろう。仕事の「効率」を最優先し、過程を共有する「非効率さ」を徹底的に排除しようとしていたからだ。


 しかし、庭での焚き火、キャンプ道具の修理、そして家族キャンプの成功という一連の体験を通じて、彼は知った。


 最も価値がある「成果」とは、最終的に完成した物ではなく、それを作る過程で家族が共有する「時間」と、その中に生まれる「創造性」そのものであると。


 この過程の「非効率」こそが、真の幸福であり、人生の「余白」を生み出す種だったのだ。


 「よし」と陽介は声を張り上げた。


「じゃあ、設計会議、スタートだ。まずは構造的な課題からいこう」


 最初に発言権を得たのは、論理的思考に長け、ロードバイクの整備で精密な知識を身につけた翔だった。彼は既に、図面だけでなく、陽介が印刷したレンガの積み方の資料まで読み込んでいたようだ。


「お父さん、このドーム型の設計は、熱効率は良いけど、蓄熱性に課題があるんじゃないかな?」


 翔は、陽介が示した断面図のレンガの厚さを指差した。その指先は、ロードバイクの複雑な変速機を調整する時と同じくらい、正確で、自信に満ちていた。


「キャンプで使っている焚き火台もそうだけど、火床から発生した熱が外に逃げると、薪の消費量が無駄になる。ピザ窯は、火を消した後も余熱でパンを焼いたり、低温調理に使ったりするのが理想だよね。外側に熱が逃げると、効率、悪い」


 翔の口から出た「効率」という言葉は、かつて陽介を苦しめた、生産性だけを追求する高橋上司のそれとは、全く意味が異なっていた。


 翔の言う「効率」は、「投入した労力や資源を最大限に活かし、目標(長時間安定した熱)を達成する実用的な知恵」であり、庭での薪割りや自転車整備から学んだ、実生活に基づいた「実用的な哲学」に基づいている。彼の口調には、父への尊敬と、自分の知識に対する確固たる自信が滲んでいた。


 陽介は、目を見開いて感心した。


「さすがだな、翔! その通りだ。俺もそこが一番の懸念点だった。だから、内側に耐火レンガ、外側に通常のレンガと断熱材の二重構造を考えているんだ。でも、断熱材の素材と厚さについて、まだ決めかねていてな。コストと性能のバランスが難しい」


 陽介は、翔の目をまっすぐ見る。それは、もはや上司から部下への指示ではなく、対等なプロジェクトメンバーに対する信頼の眼差しだった。


「翔、ホームセンターの建材コーナーや、専門サイトを調べてみてくれないか? パーライト、グラスウール、セラミックファイバー、それぞれの熱伝導率とコストを比較して、最適なコストパフォーマンスを見つけたい。それがこの窯の性能を決める『要』になる」


「任せて」


 翔は二つ返事で快諾した。彼の顔には、単なる宿題ではなく、具体的で、非常に重要な「プロジェクトのキーパーソン」として扱われたことへの責任感と、誇らしげな笑みが浮かんでいた。


 翔がノートパソコンを開き、数値の検討を始めたところで、次に、図面を裏返して裏側まで眺めていた咲が、色鉛筆を手に取った。


 咲は、いつも家族の雰囲気や美的感覚を最も大切にする。彼女にとって、機能美だけでは不十分だった。


「構造はお兄ちゃんに任せるとして、私はデザインの提案ね。この土台の部分、レンガをただ四角く積むだけだと、庭全体の景観に重すぎると思うんだよね。なんか、いかにも『作りました!』って感じがして、庭のナチュラルな雰囲気を壊しちゃう」


 咲は、陽介の設計図の土台部分に、サラサラとスケッチを書き加えた。それは、土台のレンガの表面に「モザイクタイル」を貼り付け、さらにその側面に、庭で育つハーブの鉢植えを置くための「ニッチ(埋め込み棚)」を複数作るという、大胆な提案だった。


「庭の緑と、火の色に合うように、土台は白系のタイルでシンプルにして、窯の口の周りだけ、お母さんと一緒に選んだカラフルなタイルを埋め込む。夜に窯を使った時、ランタンの光がタイルに反射して、すごく綺麗だと思うんだ」


 咲は続けた。


「窯の前に立ってピザを焼く人が、まるで『舞台に立つ役者』みたいに見えるようにしたいの。火入れをしていない日中でも、この窯自体が、庭の『アート作品』になるでしょ?

 私の『映え』の基準は、一時的な見栄えじゃなくて、そこに存在するだけで美しい、持続的なアートなの」


 咲のアイデアは、陽介が「実用」と「構造」を重視しすぎて見落としていた「美しさ」と「遊び心」、そして「庭の表現としての価値」という要素を一気に持ち込んだ。


 咲は、かつて父の焚き火活動を「自己満足で煙い」と遠巻きに見ていたが、今や庭を「表現の場」として、自らの創造性を発揮するキャンバスとして捉えている。


 彼女は、父の趣味によって、自分の美的センスが磨かれ、それを具体的に形にする機会を得たことに、感謝の念を抱いていた。


「なるほど、それはすごいな、咲!」


 陽介は興奮で椅子から少し身を乗り出した。


「庭全体の調和を考えているんだな。タイルを選ぶのは、美和に任せるとして、そのニッチを作るには、土台の補強と、内部の空間設計が重要になる。構造的には問題ないか、翔?」


 陽介が問うと、翔はパソコンから顔を上げて即答した。


「問題ない。ニッチを設ける部分のレンガを積む際、接合部をしっかりと補強すれば、むしろ重量バランスが安定する。

 ただし、レンガの数が増えるから、土台のコンクリートの基礎を少し広く取る必要があるよ。それと、咲の言うハーブの鉢植えニッチは、雨水や結露の排水溝も兼ねるなら、さらに実用的だ」


 翔は、咲の「アート」を「ロジック」で支え、さらに「実用性」を加えるという、見事な共同作業を見せた。


 最後に美和が、設計図の横に、陽介が淹れたばかりの温かい紅茶を置いた。美和は、窯の「使い手」としての視点を提供した。


「みんなのアイデアは本当に素敵ね。私は、窯を使う人、つまり私と陽介さんの視点から、二つだけ実用的な提案をしたいわ」


 美和は指を2本立てて言った。


「一つは、窯の高さ。

 陽介さん、かがんでピザを入れたり、焼けたピザを取り出すのは、腰にものすごく負担がかかるわ。特に、陽介さんが何年か後に腰を痛めた時、使えなくなったら意味がない。

 作業台となる焼き床と、窯の口が、私たちの立ち姿勢や、ウッドデッキの椅子に座った時の高さに近いように設計してほしい。持続可能な高さが必要よ」


 美和の指摘は、最も現実的で、長期的な「持続可能な使用」を保証する視点だった。庭の設備は、どれだけ高性能で美しくても、使いにくければ「非効率なゴミ」と化す。


 美和は、陽介の趣味を「単発のイベント」ではなく、「家族の日常」に定着させるために、常に実用性を追求している。彼女の言葉には、何十年先も夫婦でこの庭とピザ窯を使いたいという、深い愛情が込められていた。


「もう一つは、灰の処理ね。使った後の灰を簡単に取り出せるように、専用の開口部を設けてほしいの。

 灰の処理は、焚き火でも一番面倒な作業でしょう? 掃除が面倒だと、結局『また今度にしよう』となって、使わなくなっちゃう。頻繁に使うためには、メンテナンスの効率も重要よ」


 美和の提案は、陽介の「庭の哲学」の進化を映し出していた。


 初期の陽介は「効率」を嫌い、道具や作業に手間をかけることを自己満足としていたが、美和は「日常使いの効率」を確保することで、その趣味が日常の中に溶け込み、結果的に「持続的な余白」を生み出すことを目指していた。


 陽介は、深く頷いた。彼の背筋を冷たいものが走った。それは、高橋上司から学んだ「効率」とは全く違う、人生を豊かにするための「生活の効率」だった。


(美和の言う通りだ。どんなに立派な窯を作っても、掃除が面倒で使わなくなったら、それこそ最大の非効率だ。俺の趣味の成果を家族の日常に定着させるためには、美和の視点が必要不可欠なんだ)


 陽介は、設計図とノートに、家族の意見を次々と書き込んでいった。彼の心臓は、仕事で過去最高の契約を取った時のような、あの頃の興奮とは質が違う、もっと深く、温かい高揚感で脈打っていた。


 彼は、かつて仕事で夢中になった「プロジェクトマネジメント」のスキルが、今、家庭という、最も大切でかけがえのない場所で、最高の形で活かされていることを実感した。


(これは、最高のチームだ。俺が提供したのは『場』と『初期衝動』だけだ。

 翔はロジックで構造の効率を、咲はアートで庭との調和を、美和は持続可能性で日常への定着を保証してくれた。

 俺が持っていた視野は、仕事の『効率』という枠に囚われすぎていたが、庭という『余白』を得たことで、家族全員の視点が加わり、このプロジェクトを完璧なものに昇華させている)


 この共同創造こそが、陽介が、そして家族全員が本当に求めていた「家族の絆」の、最も具体的な、物理的な形だったのだ。


 設計会議は深夜まで続いた。翔は断熱材の熱伝導率のグラフを陽介に見せながら、最適な厚さとコストのバランスを熱く語り、咲はタイルの色見本帳をインターネットで検索し、美和は窯の高さの基準を陽介の腰の位置に合わせて測り直していた。


 最終的に完成した設計図は、プロの建築図面とはかけ離れたものだった。

 鉛筆の線と、咲のカラフルなサインペンの注釈、美和の丁寧な文字による実用的な注意書き、そして翔の書いた数式や熱伝導率のメモが混在する、まさに「佐藤家ピザ窯プロジェクト」の結晶となった。


 陽介は、その設計図を静かに眺め、深い満足感を覚えた。それは、自分一人の力では決して到達できなかった「調和の美しさ」を持っていた。


「みんな、ありがとう。最高の設計図ができた。これを基に、週末から資材の調達と基礎工事に入るぞ」


 陽介が宣言すると、家族全員が同時に、しかしそれぞれが違う理由で歓声を上げた。


 翔は、自分の計算が現実になる興奮。咲は、自分のアートが庭の新しい顔になる期待。美和は、この窯で家族や友人と過ごす未来の暖かい時間への確信。


 陽介は、彼らの喜びの理由がそれぞれ違っていても、最終的にその喜びが「庭」という一つの空間に集約されることに、人生の豊かさを見出した。


 その夜、陽介は寝室に戻ってからも、興奮でなかなか寝付けなかった。

 ベッドサイドの照明をつけ、設計図を広げてみる。高橋上司に提出する膨大な企画書よりも、この一枚の紙の方が、陽介の心を強く捉えて離さない。


(高橋さんは、週末の活動を「効率の悪い家族サービス」だと皮肉ったが、彼女は間違っていた。これは、最も効率の良い投資だ。家族の絆への投資、創造性への投資、そして何よりも、自己肯定感への投資だ)


 陽介の42年の人生は、今、仕事の成果物でも、上司の評価でもなく、自分の手で、家族の知恵と愛を借りて作り上げる「庭の作品」によって、定義されつつあった。



---



 翌朝、陽介はホームセンターへ向かう準備をしながら、庭でハーブの手入れをしていた美和に声をかけた。


「美和。週末、咲とタイルを選びにいってくれないか? 咲の美的センスに任せるのが一番だと思うんだ。ただし、窯の口の周りのアクセントタイルは、美和の好きな色も入れてほしい」


 美和は、庭で淹れたばかりのコーヒーを陽介に差し出し、にこやかに微笑んだ。


「ええ、もちろん。咲も楽しみにしてるわ。でもね、陽介さん」


 美和は、陽介の作業着に付いた小さな土の塊をそっと払った。


「タイル選びも大事だけど、この窯作りの一番の楽しみは、陽介さんがレンガを一つ一つ積み上げ、モルタルまみれになって汗をかいている姿を見ることよ。私は、それが最高の景色だと思っているから。

 陽介さんが、夢中になって、仕事の顔じゃない、子どものような顔で何かを創造している。それが、私と子どもたちにとって、一番のごちそうよ」


 陽介は、美和の深い理解と愛情に、思わず照れくさそうに笑った。彼の身体は、まだレンガやモルタルの匂いを知らないが、すでにその心は、庭のピザ窯という新たな「レガシー」の創造へと完全に傾倒していた。


 陽介は美和にキスをし、車のエンジンをかけた。彼の頭の中は、レンガを積むシミュレーションと、翔が提示した熱伝導率のデータ、そして咲の提案したタイルのデザインで満たされていた。


 庭は、彼を単なるサラリーマンから、家族の夢を形にする「創造主」へと変貌させていた。彼は、今、この「余白」のプロジェクトを心から愛していた。


(行くぞ。最高の窯を作ろう。俺たち家族の歴史を刻む、最高のレガシーを)


 彼の車が走り去るのを、美和は庭から見送っていた。


 彼女の視線の先には、庭の中央に新たに設けられるピザ窯の基礎の位置があった。そこに窯が完成すれば、この庭は、陽介の趣味の場所から、地域や家族の人生を豊かにする「文化的中心地」へと進化するだろう。


 美和は、その未来に心を躍らせた。

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