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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第6章「キャンプのその後」

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42歳、夫婦の夜

 家族キャンプの成功から、数週間が経過し、佐藤家の生活には、「庭での活動」が、もはや呼吸をするように完全に定着していた。


 静寂が支配する金曜日の夜。

 子どもたちがそれぞれの部屋で、それぞれの成長のための時間に没頭している頃、陽介と美和は、庭のシンボルツリーの下、ファイヤーボウルを囲み、二人きりで静かにグラスを傾けていた。


 グラスの中には、美和が淹れた、庭のハーブを使ったサングリアが、月明かりを反射して揺れていた。


 庭には、ラベンダーとミントが混ざり合った清涼な香り、ランタンから漏れる温かい琥珀色の光、そして、焚き火台の中で薪がゆっくりと燃える「パチパチ」という穏やかな音だけが響いていた。


 二人の会話は極めて少なく、ただ静かに、その炎の揺らめきを眺めていた。


 しかし、その沈黙は、かつて二人の間にあった「すれ違い」や「無関心」の沈黙とは、全く異なるものだった。

 それは、深い安心感と、これまでの全ての努力と葛藤が報われたという、満ち足りた「完成」の感情に満たされていた。


 言葉は必要なかった。


 彼らの心は、焚き火の炎のように、静かに、そして深く、共鳴し合っていた。



---



 美和は、静かにグラスを芝生の上に置き、陽介の目を見つめた。


 夜の闇と炎の光の中で、彼女の瞳は、過去の葛藤、陽介への深い信頼、そして溢れんばかりの愛情が複雑に混ざり合った、温かい感情を宿していた。


「陽介さん」


 美和は、胸の奥底から湧き上がる感情を抑えながら、静かに、しかし決意を込めて話し始めた。


「あの時、仕事の効率とプレッシャーに追われていたあなたに、『庭を始めてくれてありがとう』。心から、そう思っているわ。この数ヶ月のあなたの変化は、私自身の人生をも変えたの」


 彼女の言葉は、陽介が庭を始めた頃の、美和の趣味への無関心、そして時に見せた、疲弊した夫への不安からくる不満を、完全に、そして永遠に払拭するものだった。


 美和は、過去を振り返るように、遠い目をして続けた。


「あの頃の庭は、疲弊しきった陽介さんが、誰にも邪魔されずに逃げ込むための『孤独な避難所』だった。

 あなたは、一人で道具と火に向き合い、孤独に何かを癒やそうとしていた。


 私は、あなたが趣味に没頭することで、私たちから心が離れていくのではないかと怖かったし、あなたの趣味を、ただの『非効率な逃避』だと理解できなかった」


 彼女は、陽介の手を、両手で優しく包み込んだ。


「でも、家族キャンプで、全てが変わったわ。雨が降りしきる中、みんなで笑いながらテントを張った時、あなたが作ってくれた最高のホットサンドを食べた時、そして、夜の焚き火を囲んだ時…私、確信したの。あなたの趣味は、単なる『遊び』や『逃避』じゃない。私たち家族の『心の豊かさ』と、『共通の記憶』を創造する、最も大切な場所なんだって、わかったの」


 美和の言葉は、陽介の哲学の「実用的な証明」だった。彼女は、理屈ではなく、体験を通じてその真実を理解したのだ。


「あなたは、仕事の効率を追求することだけでなく、家族の心の『余白』の価値、そして、その余白がもたらす『再生の力』を、私たちに教えてくれた。

 そして、その余白のおかげで、私たち家族は、何があっても揺るがない、最高のチームになれたと思うわ。

 私も、もう何も怖くない」


 美和の告白は、彼女自身の内面の成長—過去の不安や依存からの解放—を象徴していた。


 彼女は、陽介に依存する妻ではなく、彼の哲学を共有し、共に人生を創造するパートナーへと変貌していた。



---



 美和の心の底からの、飾り気のない感謝の言葉は、陽介にとって、これまで人生で受け取った最高の報酬だった。


 彼は、仕事での昇進の通知や、高橋上司からの渋々ながらの承認よりも、この美和の言葉一つに、自分の人生の全ての価値、すべての努力が詰まっていると感じた。


 言葉に詰まり、喉の奥が熱くなり、何も言えなかった。


 ただ、溢れる感謝と、これまで味わったことのない深い愛情を、美和の手を握る力に込めるしかなかった。


 陽介は、美和の言葉によって、彼の「庭の哲学」の最後のピースが埋められたことを悟った。


 彼は、自分がただの「趣味人」から、「人生の豊かさを設計する者」へと進化したことを確信した。


 美和の言葉は、「家族キャンプの実現と絆の深化」が、単に達成されただけでなく、最高の形で完成したことを意味していた。


 家族の絆は、どんな試練にも打ち勝てる、揺るぎない、強靭なものになったのだ。



---



 陽介と美和は、静かに火を囲みながら、庭を始めた日から今までの思い出を、細部にわたって振り返った。


 初めて、薪がうまく燃えずに煙ばかり出た失敗した焚き火。

 翔が初めて大きな薪を割った時の誇らしげな横顔。

 美和が、火への恐怖を克服し、自ら火を育て始めた時の感動。

 子どもたちが庭で、道具のメンテナンスを真剣に手伝い始めた時の成長。


 一つ一つの記憶が、焚き火の温かい光の中で鮮明に蘇る。


 これらの記憶のすべてが、「非効率」に見える活動を通して築かれた「心の宝物」だった。


「陽介さん。あの時、あなたがこの小さな庭に、これだけの価値と喜びを見出してくれていなかったら、私たち家族は、今でもバラバラで、どこか寂しい家庭だったかもしれないわ」


 美和が言った。


「そんなことはないさ、美和。君が、俺の趣味を最後は受け入れ、一緒に楽しんでくれたから、この庭は完成したんだ」


 陽介は、心からそう答えた。


「この庭は、君の『美意識と安息の場』と、俺の『創造性と訓練の場』が融合した、最高の場所だ」


 そして、二人の視線は、自然と次の「共同プロジェクト」であるピザ窯が建つ予定の場所へと注がれた。


 そこは、まだ何もない芝生の一角だったが、二人の目には、既にレンガの曲線と、薪が燃える赤い炎が見えていた。


 美和が、再び、未来への期待を込めた、明るい声で言った。


「今度のピザ窯作り、本当に楽しみね。レンガの色の組み合わせ、絶対に失敗したくないから、咲に何度も相談してみようかな。家族みんなでアイデアを出し合う時間も、きっと最高の思い出になるわ」


 陽介は、深く微笑んだ。


「ああ。次は、家族全員の創造性を、この庭で、誰にも壊せない形で形にする番だ。そして、その喜びを、家族以外の人たちにも広げていこう。最高のピザを、みんなに振る舞うんだ」


 夜空の下、陽介の庭は、彼の人生を豊かにするための「創造と安らぎの拠点」として、ゆるぎない輝きを放っていた。

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