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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第6章「キャンプのその後」

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42歳、余裕の伝染

 家族キャンプでの成功と、その後の家族の絆の深化を経て、陽介の会社での振る舞いは、もはやかつての姿とは別人のようだった。


 彼の「余裕」は、高橋上司との対峙以降、誰も無視できない、物理的なオーラとなって周囲に伝わり始めていた。


 彼のデスク周りは、以前の陽介が持っていた、常に資料の山に追い立てられ、コーヒーを流し込みながらタスクを消化しようとする焦燥感や、疲弊感からくる「仕事のヒート」とは無縁だった。

 代わりに漂っていたのは、内面の安定と、揺るぎない自信からくる、一種の「静かなるオーラ」だった。


 彼は、会議中も、予期せぬシステムトラブルが発生した時も、声のトーンを乱すことなく、冷静沈着な判断を下した。


 彼の仕事の生産性は、以前よりも高止まりし、質的なミスは皆無だった。

 むしろ、トラブル解決の局面では、周囲がパニックになる中で、陽介だけが、庭で火加減を調整するように、状況の「芯」を見極め、最小限の指示で最大の効果を上げた。


 同僚たちは、佐々木だけでなく、他の部署の人間、さらには陽介よりも年上で、常に長時間労働とストレスに晒されている中堅社員までが、彼の劇的な変化に気づき、戸惑い始めていた。


 彼らは、陽介が持つ「無敵の安定感」の秘密—まるで心の中に、外乱の影響を受けない静かな湖を持っているかのような感覚—を探ろうと、様々な口実を作って彼のデスクに立ち寄るようになった。


「佐藤さん、どうしていつも穏やかでいられるんですか?」

「ミスがないのはなぜですか?」

「私の週末のリフレッシュ法は、ただ寝ることか、溜まった家事を片付けることくらいで…。」

「どうすれば、佐藤さんみたいにストレスフリーでいられるんですか?」


 彼らの質問は、もはや「仕事のスキルアップ」や「効率的な資料作成術」といった、表面的なスキルに関するものではなかった。


 彼らは、より根本的な、「人生のリフレッシュ法」という、「心の健康」に関する救いを求めていた。


 陽介は、彼らの目に、単なる有能な同僚ではなく、「効率至上主義の檻から脱出し、人生を豊かに生きるための先駆者」として映り始めていたのだ。



---



 ある日の午後、社内の休憩スペースは、缶コーヒーと自動販売機の機械音、そして同僚たちの疲れた溜息で満たされていた。


 陽介は、数人の同僚に囲まれ、まるで小さな集会が開かれているようだった。


 彼らは皆、疲労の色を隠せず、目の下のクマは濃く、午後の仕事への絶望感が漂っていた。


「佐藤さん。その『余裕』は、一体どこから来るんですか? 秘訣があるなら教えてください」

「私も週末は資格の勉強をしたり、キャリアアップのためにセミナーに行ったり、ゴルフの練習をしたりしていますが、月曜の朝にはもう疲れて、リフレッシュどころか、さらに消耗している気がします」


 彼らの質問の根底にあるのは、「頑張っているのに報われない」という、現代のビジネスパーソンが抱える深い疲労と絶望感だった。

 彼らは、「生産性」という名の無限のランニングマシンから降りる方法を探していた。


 陽介は、缶コーヒーをゆっくりと飲み干し、周囲の喧騒とは無関係な、穏やかな笑顔で、自身の哲学の「コア」を共有した。


 彼の言葉には、高橋上司に向けた時のような、冷たい「論理的な武装」は必要なかった。

 彼は、ただ、自分が庭で得た真実を、優しく開示した。


「週末に、仕事とは全く関係のない、自分の『手と五感と時間だけを使う趣味』を持つことだよ。テレビを見たり、SNSをチェックしたりする受動的な時間ではなく、『創造的で無心になれる時間』を持つ」


 彼は、さらに具体的に、自分の実践を説明した。


「私にとって、それは庭での焚き火や、使い込んだ道具の手入れだ。

 焚き火の火加減を完璧にコントロールすること、刃物を最高の状態に磨き上げること—それに集中すると、脳は仕事の雑念から完全に解放される。

 この、他から見れば『非効率で無駄な時間』こそが、最高の集中力、最高の判断力を生み出すための、『静かなる力』になると思っている」


 陽介は、「心の余白」という、数値化や計測ができない、しかし最も重要な「資産」の価値を説いた。


 それは、彼らの「効率至上主義」という世界観とは、対極にある思想だった。



---



 陽介の言葉は、まるで熱を持った岩に静かに注がれる水のように、会社という「効率至上主義」の硬い檻に囚われていた人々の心に、静かな亀裂を入れた。


 彼の「余裕」は、もはや彼一人の個人的な成功体験ではなく、多くの同僚に「人生の新しい可能性」を示唆する、静かな「伝染」を始めていたのだ。


 同僚であり、後輩である佐々木は、陽介の哲学の実践者であり、陰で深く頷いた。


(佐藤さんの言う通りだ。俺は週末に絶景スポットを探し、写真とカメラのメンテナンスに没頭することで、初めて人間になれる。あの『光を待つ無心の時間』こそが、最高の心の投資だ。あの時の佐藤さんの言葉が、俺の人生を変えた)


 過度な残業に悩む中堅社員は、目のクマを隠すように顔を擦りながら、陽介の言葉を反芻した。


「…なるほど。私は、週末も『効率』を上げるために、来週のプレゼン資料を修正したり、自己啓発本を読んだりして、常に『脳に負荷をかけ続けていた』。それでは、心が休まるわけがないですね。

 心を強制的に『ゼロ・リセット』し、無に還る時間が必要なんですね。

 私は、ずっと『頑張る』ことしか考えていなかった…」


 育児と仕事の両立に苦しむ女性社員は、特に「受動的な時間」という言葉に反応した。


「私、週末は子供と公園に行くと、疲れるからって、子供が遊んでいる間、ベンチでスマホを見てばかりいました。

 あれも、結局は脳が受動的に情報を消費しているだけで、休めていないんですね。

 私も、子供と『創造的な無心』になれる趣味—例えば、一緒に土をいじるとか、何かを手作りするとか—を見つけたい。それが、家族の絆になるなら、一石二鳥だわ」


 陽介の哲学は、それぞれの同僚が抱える「現代の病」に対して、カスタマイズされた「解毒剤」として作用していた。


 彼らが信頼を寄せているのは、単なる理論ではなく、陽介という人間の「生き証人」の存在だった。



---



 休憩スペースの隅、ガラス越しに、高橋上司が、陽介とその同僚たちの会話を、遠くから、しかし鋭い眼差しで観察していた。


 高橋は、陽介が会社の誰よりも、そして自分よりも、今、「幸福で、生産的」であるという事実に、深い動揺を覚えていた。


 高橋は、陽介の口から発せられた「『無駄な時間』が『最高の集中力』を生み出す」というフレーズに、激しい嫌悪感を抱いた。


(あの男は、何を言っているんだ? 無駄な時間だと?

 それは、私がこれまで人生のすべてを賭けて否定し、排除してきた概念ではないか!

 私の信じる「効率至上主義」—それは、一秒も無駄にせず、常に目標に向かって前進すること—だ。あの男の哲学は、まるで私の人生のすべてを否定しているようだ)


 高橋は、陽介の言葉の「論理」よりも、陽介を取り囲む同僚たちの、「希望に満ちた真剣な眼差し」に、より大きな危機感を覚えた。


 かつて、高橋こそが、組織のリーダーとして、彼らに「効率」と「成果」を説き、彼らを鼓舞する唯一の存在だった。

 しかし今、彼らが熱心に耳を傾け、信頼を寄せているのは、陽介の「心の余白」の哲学だった。


 高橋は、陽介の存在が、組織全体の働き方、そして心の持ち方に、微かながらも確実に変化をもたらし始めていることを感じ取った。


 それは、高橋の築き上げた「効率の帝国」の基礎に、静かに水が染み込んでいるような感覚だった。


 陽介の「余裕」は、高橋の古い価値観に決定的な揺さぶりをかけ、組織内で静かな、しかし根源的な「革命」を起こし始めていたのだ。


 高橋は、陽介を排除するのではなく、その秘密を解明し、「陽介の効率」を自分の支配下に置くことができないかと、冷酷な思考を巡らせ始めた。



---



 陽介は、同僚たちに「創造的な無心」の価値を説きながらも、意識は次の大きな挑戦であるピザ窯の自作へと向かっていた。


(ピザ窯が完成すれば、この「余白の哲学」を、言葉や論理だけでなく、最高の「食の体験」という、誰の心にも響く具体的な形で、さらに多くの人々に伝えることができる。

 焚き火は自分との対話だったが、ピザ窯は「共同の創造と、他者との分かち合い」の象徴となる)


 陽介の「余裕」は、彼自身を会社での立場をより強固なものにしただけでなく、彼の哲学を社内外へ広めるための確かな基盤となった。


 同僚たちへの「伝染」は、陽介が意図したものではなかったが、それは、「人間的な豊かさ」を求める時代の必然的な流れだった。


 この小さな勝利と、同僚たちの共感は、後の会社の組織的な変化へと、確実に繋がっていくことを予感させた。


 陽介は、休憩スペースを後にし、自分の席に戻り、ハンモックで養った穏やかな集中力で午後の仕事に取り掛かった。


 彼の心は、レンガを積み上げる計画と、焼きたてのピザの香りで満たされていた。

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