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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第6章「キャンプのその後」

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42歳、息子のトレーニングを見守る

 家族キャンプでの成功体験と、特にロードバイクでの難関ヒルクライムコースの完走は、高校生である翔の目標意識を、単なる「趣味」の領域から、「将来の可能性の一つ」として真剣に捉えるレベルへと引き上げた。


 彼は、自分の体力の限界と、それを超えた瞬間の達成感を知った。

 その結果、彼の生活は、すべてが「効率的なトレーニング」と「最高のコンディション維持」という観点から再構築され始めた。


 翔は、ロードバイク本体の徹底的なメンテナンスだけでなく、ライダー自身のフィジカル面の強化に着手した。


 彼は、プロのレーサーのトレーニング動画や、スポーツ科学の記事を読み漁り、ある日、陽介に何も言わず、庭の芝生の上に分厚いストレッチマットを敷き始めた。


(ロードレースは、ただ脚力と心肺能力を鍛えるだけでは勝てない。

 時速40キロを超えるスピードの中で、長距離を走破するためには、ペダリングの力を一点に集め、外部の風圧や路面の振動に負けない「ブレない体幹」が必要だ。

 そのためには、完全に集中でき、五感を研ぎ澄ませる環境が必要なんだ)


 翔は、自宅のリビングや自室でのトレーニング環境を、すぐに否定した。


 リビングのフローリングは硬すぎて関節に負担がかかり、自室ではゲームや勉強の誘惑があり、集中力が途切れがちになる。


 彼は、室内でのトレーニングとは比べ物にならないほど、陽介が手入れを重ねた庭の環境に、圧倒的な「実用的な価値」を見出していた。


 庭の芝生は、適度な弾力性があり、身体への負担が少なく、周りには美和が育てたラベンダーやミントの穏やかな香りが漂い、車の騒音やSNSの通知音もない。

 そこは、都会の喧騒から隔絶された、「集中力の聖域」だった。


 翔は、早速、プランクやサイドブリッジといった体幹トレーニング、そして股関節の可動域を広げる柔軟運動を、黙々と始めた。

 彼のトレーニングは、陽介の「非効率な作業」が究極の効率を生み出すように、地味で、しかし最も効果的な基礎固めだった。



---



 庭は、陽介にとって「非日常の訓練場」であり「安息の場」へと進化したが、翔にとっては、「最高のパフォーマンスのための実用的なトレーニング場」となっていた。


 彼は、毎朝、学校へ行く前のわずかな時間(通常、他の高校生なら二度寝に費やす時間)と、ロードバイクでの走行後の、最も疲労がピークに達する時間に、庭を利用した。


 彼は、芝生の上に体幹トレーニングを終えた体を横たえ、目を閉じて、深い腹式呼吸法を実践した。冷たく湿った朝の芝生が、彼の火照った体と、興奮した精神を穏やかに冷やしていく。


 陽介は、キッチンでコーヒーを淹れながら、リビングの窓から、黙々とトレーニングに励む翔の姿を静かに観察していた。


 翔の真剣な横顔には、かつて陽介が仕事で重要な局面を迎えていた時と同じ、「目標達成への強い意志」と、「揺るぎない自己統制」が宿っていた。


 陽介は、翔に声をかけることはしなかった。

 彼は、この時間が、翔にとっての「集中と再生」の場であり、「自律的な成長」の時間であることを理解していた。


(庭の「静寂」は、翔のメンタルを整えている。

 彼は、ただ腹筋や背筋を鍛えているのではない。外の世界の雑音、そして自分の内側から湧き出す「諦め」や「焦燥」といった雑念を排除し、最高の集中力を生み出す『心の筋力』を、この場所で鍛えているんだ)


 陽介は、自身の仕事における経験と重ね合わせた。

 かつての彼は、ストレスを外部に発散するか、あるいは内側に溜め込むかの二択だった。


 しかし、翔は、この庭という「余白」の中で、体幹を鍛えることで、外部からのプレッシャーに耐え、内側の感情の揺れを抑える技術を身につけている。


 これは、社会で成功するために、最も重要なスキルだと陽介は感じた。


 陽介の庭は、彼の哲学がそうであったように、強制力を持つことなく、家族それぞれの「目的」に寄り添い、その達成を静かに、そして力強くサポートする「生きたシステム」へと進化していた。



---



 ある日の夕方、気温が下がり始めた頃。翔が最後の体幹トレーニングを終え、全身の筋肉を弛緩させるためにハンモックでクールダウンしている時、陽介が冷たい麦茶の入ったマグカップを持って庭に出てきた。


 麦茶には、美和が庭で育てたミントの葉が添えられていた。


「お疲れ様。かなり追い込んでいるな。その体幹トレーニングは、地味だが一番きついだろう」


 陽介は、翔に麦茶を渡した。

 翔は、汗で張り付いた髪を払い、麦茶を一気に飲み干した。


「うん。ロードレースは、最後の数キロ、特にスプリントの最後の10秒が勝負なんだ。その時、疲労で上半身がブレて、ペダリングの力が逃げないように、今、基礎を作っているんだ」


 陽介は、翔の言葉に、かつての自分との決定的な違いを感じた。


 かつての陽介は、「効率」のために「睡眠時間」を削り、エネルギーの総量を増やそうとしていた。それは、すぐに限界が来る、短絡的な効率だった。


 しかし、今の翔は、「効率」のために「集中力」と「体幹」という、エネルギーの「伝達効率」を鍛えている。エネルギーの総量ではなく、それを無駄なく伝える仕組みを磨いているのだ。


 陽介は、翔のトレーニングマットの横の芝生に、あぐらをかいて腰を下ろした。


「そうか。俺も同じようなことを、庭で焚き火をしている時に考える。


 火の勢いが強すぎても弱すぎてもいけない。完璧な火加減で、食材の最高の状態を引き出す時、俺は『無心』になる。


 火と道具に意識を集中し、それ以外の仕事のプレッシャーや雑念をすべてシャットアウトする。その『無心』の時間こそが、仕事の雑念をゼロにしてくれる」


 翔は、ハンモックの揺れを止め、父を真っ直ぐ見つめた。


「僕も同じだよ、お父さん。ここで体幹トレーニングしている間は、友達との人間関係とか、来週の試験のプレッシャーとか、全部忘れることができる。全身の筋肉と呼吸だけに意識を向ける。

 この庭の静けさが、最高の『無心の集中力』を生んでくれるんだ」


 父と子は、言葉を介して、「無心になる時間」がもたらす心の安定と、その力が「最高のパフォーマンス」を生み出すという、共通の、そして普遍的な哲学を静かに確認し合った。


 この瞬間、庭の哲学は、世代を超え、仕事と趣味という分野を超えて、「自己統制の真髄」として共有されたのだ。



---



 陽介の心には、満ち足りた、静かな喜びが広がった。

 その喜びは、取引先との契約を勝ち取った時の高揚感よりも、遥かに穏やかで持続的なものだった。


(俺は、翔にロードバイクの技術や、レースの戦術を教えたわけではない。だが、彼に「集中できる最高の環境」を提供し、そして「好きなことに、他人から見れば非効率に見えても、真摯に没頭する価値」を背中で示した。

 それが、親としての、そして哲学者としての最高の役割だったのではないか)


 陽介は、自分が作り上げた庭という「余白のシステム」が、翔の成長という、最も実用的な形で機能していることに、深い感慨を覚えた。


 庭は、翔にとって「実用的なトレーニング場」となり、彼の目標達成を力強く後押ししていた。


 彼は、翔がトレーニングを終えて立ち上がった後、彼が使っていたマットに静かに触れた。マットには、翔の汗と、芝生の冷たさが染み込んでいた。


(この庭は、ただ美しいだけでなく、『家族の夢を育む土壌』となった。

 俺の趣味が、子どもの人生の最も重要な段階で、これほど深く、実用的に関われるとは、本当に想像していなかった)


 庭の進化は、翔の成長と共にあり、それは陽介の「庭の哲学」が、家族の人生を豊かにするための「生きたシステム」であることを証明していた。


 陽介の「非効率」が、家族の「最高の効率」を生み出し続けていたのだ。そして、この家族の強固な基盤と、翔の静かな成長は、陽介にとって、ゆるぎない自信となった。

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― 新着の感想 ―
お庭が家族との絆や生き甲斐をもたらす理想的なお話なのですが、現実的には大型テントが張れるくらい凄く広くて、外ではしゃいでも声も気にすること無く、ニンニク(ペペロンチーノの回)やBBQの匂いを気にせず、…
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