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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第6章「キャンプのその後」

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42歳、妻のアルバムを見る

 キャンプから帰宅した週の金曜日の夜。陽介が仕事のプレッシャーと満員電車の疲労をわずかに残しつつ帰宅し、スーツを脱いでリビングに入った。


 仕事の効率に追われていた頃とは違い、彼の疲労は、心の空虚さではなく、明日からの「余白」への期待に裏打ちされた、心地よいものだった。



 リビングの中央、ローテーブルには美和がパソコンを広げ、ヘッドフォンをして集中した表情で画面に向かっていた。


 彼女の顔には、かつての「仕事に追われる夫への不満」や「孤独な主婦の疲弊」の色は一切なく、内側から満ち足りた、穏やかな光が当たっていた。


 その集中力は、陽介がかつて仕事の納期前に見せていたものと、まったく同じ熱量を持っていた。



 彼女の画面に表示されていたのは、陽介が知らなかった、あるいは、そこにいる自分自身が気づくことができなかった、無数の「家族の瞬間」だった。

 それは、美和がキャンプ中に、あえて一歩引いた場所から、冷静に、そして愛情を持ってシャッターを切った写真の数々だった。


 美和は、まるでプロの編集者のように、写真を選び、トリミングし、色調を調整し、そして感動的な音楽を重ね合わせながら、「家族キャンプのデジタルアルバム」を作成していた。


 彼女は、陽介が道具の手入れという「物質の価値保存」を行っている間に、「思い出という無形資産の価値保存」を行っていたのだ。



 陽介は、美和の背後から画面を覗き込んだ。


 そこには、予期せぬ土砂降りの中、泥にまみれながらも、顔を見合わせて笑い合い、協力してタープとテントを張る家族の躍動感あふれる姿があった。


 陽介が焚き火を囲む真剣な横顔、翔がロードバイクで山道を駆け抜け戻ってきた時の、汗と達成感に満ちた表情、咲が最高の光と構図を探す真剣な眼差し…。そして何よりも、美和自身が、火を恐れることなく、家族の間にいることの幸福を噛みしめるような、穏やかな表情の写真が何枚も選ばれていた。


(俺の趣味の成果は、「テント設営の技術の習得」だと思っていた。俺の目は、道具とスキルにしか向いていなかった。


 だが、美和は、その趣味から生まれた「家族の自然な笑顔」と「絆の深化」を、最も美しい形で記録するという、新しい「記録係」の趣味を見つけていたんだ)


 美和は、陽介の趣味の活動そのものを、「人生の最高の記録」として、最も感情豊かな形で保存する「家族の記録係」の役割を、自発的に、そして深い愛情をもって担っていたのだ。


 彼女の新しい「集中」は、家事や育児の義務から解放された、自己実現の光を放っていた。



---



 美和は、背後に陽介の存在を感じると、ヘッドフォンを外し、椅子を引いて隣に座るように促した。

 彼女の顔には、この作業に対する深い喜びと満足感が浮かんでいた。


「おかえりなさい、陽介さん。お疲れ様。これ、見て。アルバム、ほぼ完成よ。あとはBGMをどうするかだけ」


 美和は、陽介のために、完成したスライドショーを再生した。



 最初のページは、キャンプ前夜。


 翔が、大型焚き火台のパーツとテントの細長いポールを、まるで高度なパズルを解くかのように、車内のデッドスペースに詰め込む、真剣な横顔のクローズアップ。

 その写真には、「実用的な空間認識」というテーマが感じられた。


 次のページは、雨の中。


 陽介と翔が、泥にまみれながらも顔を近づけ、無言で共同してテントのポールを立てる躍動感のある、白黒に近いコントラストの強い写真。


 そして、アルバムのハイライトは、夜の焚き火のシーンだった。

 焚き火の温かい光に包まれ、家族が将来の夢を語り合った、感情的な瞬間を捉えた写真。


 美和は、その写真に、静かに「愛という名の信頼」というキャプションを添えていた。


 美和は、特に気に入った一枚を、陽介に見せた。それは、雨の中、タープを張り終え、テントの設営に取り掛かる直前の写真だった。


「この一枚、見て。テントのポールが風で歪みかけて、みんなが『どうしよう』って顔をしている瞬間。


 でも、その直後に、みんなが顔を見合わせて、笑い始めたでしょう。


 あの時、みんなの目が『庭で全部学んでいた』って気づいた瞬間だったわ。知識や技術ではなく、『チームとして、冷静に対処する力』を学んでいた。

 この写真には、それが写っているの」


 陽介は、アルバムに目を通しながら、言葉にならない熱い感情が、胸の奥から込み上げてくるのを感じた。


 彼にとってキャンプは「技術の挑戦と成功の記録」であり、道具の手入れは「物質の保存」だった。

 しかし、美和にとっては「家族の笑顔と絆の記録」であり、何よりも「陽介という男の、孤独から解放され、家族を取り戻すまでの努力の軌跡」の記録だったのだ。


(俺が道具を磨き、価値を保存するように、美和は、俺たちの感情と時間を磨き上げ、永遠に価値を失わないように、最高の形で保存してくれている。

 美和のやっていることこそ、俺の哲学の、最も高度な応用編ではないか)



---



 陽介は、アルバムの圧倒的な美しさと、そこに込められた美和の深い愛情に感動し、椅子から立ち上がって、美和の肩を優しく抱き寄せた。


「美和。どうして、こんなに丁寧に、そしてこんなに情熱を込めて、このアルバムを作ってくれたんだ?

 普通の写真の整理とは比べ物にならない。ものすごく時間かかっただろう」


 美和は、陽介に寄りかかりながら、優しく、しかし確固たる声で答えた。


「だって、陽介さんの『孤独な努力の軌跡』を、形として残しておきたかったからよ。

 私が、以前どれだけあなたの趣味を理解できていなかったか…私は、庭の活動を『無駄な時間の消費』だと思っていた。


 でも、違った。このキャンプは、あなた一人の『技術の成功』じゃなくて、私たち家族みんなの『心の豊かさ』の成功だった。


 その、目に見えない成功の証拠を、私は、もう二度と失くさないように記録したかったの」


 美和の言葉は、陽介にとって、仕事で得られるどんな賞賛よりも価値のある、最高の「承認」だった。


 彼は、自分の趣味が、美和にとって「家族の記録」という新しい趣味と融合し、夫婦の間に、「非効率な時間への共感」という、新たなコミュニケーションの層を築いていることを知った。


 陽介は、美和の手を強く握り、心からの感謝を伝えた。


「ありがとう、美和。本当に最高のアルバムだ。これを見れば、どんな仕事のプレッシャーにも、高橋上司の冷たい効率論にも、俺は絶対に負けない気がする。

 このアルバムこそが、俺の最大の精神的な防具だ」


 美和は微笑んだ。


「ええ。私も、これを見て、あの時の焚き火の温かさと、雨の中で笑い合えた瞬間の強さを思い出せば、どんな日常の不安も、きっと乗り越えられるわ。

 これは、私たち家族の、『心の余白の設計図』よ」



---



 その夜、美和は、完成したデジタルアルバムを、家族のチャットグループに共有した。

 それは、家族の絆を再確認し、成功体験を共有するための、静かなる「打ち上げ」だった。


 通知音が鳴り響くと、すぐに子供たちからの反応が返ってきた。


翔: 「うわ!これすごい!まるでプロのスポーツカメラマンが撮ったみたいだ!俺がロードバイクで山道登ったときの写真、躍動感ありすぎだよ、お母さん!マジでプロみたい!」


咲: 「えー!お母さん、センス良すぎ!ライバルじゃん!最高の作品ができちゃったじゃん!特に、あの焚き火の光の色、どうやって出したの?教えて!」


 家族全員の、喜びと感動に満ちた反応を見て、陽介は改めて深く感動した。

 デジタルアルバムは、単なる写真の集合体ではない。それは、家族の「感情と成功体験」を、時間と空間を超えて共有するための、最高の「記憶の再生装置」だった。


 陽介の庭の哲学は、美和の「記録」という、全く異なる才能と融合することによって、「目に見えない絆」を「目に見える、共有可能な資産」へと昇華させたのだ。


 このアルバムは、家族の誰もが、いつでも「あの時の温かさ」を再体験できる、揺るぎない錨となった。



---



 陽介は、美和とリビングのソファで静かに寄り添いながら、アルバムのスライドショーを何度も、何度も見返した。


 彼の心は、満たされ、静かな喜びに包まれていた。スーツの重さや、仕事の煩雑さは、もう彼の心には届かなかった。


(高橋上司が追い求める「効率」は、過去の成果を消費し続けることだ。それは、常に新しい成果を出し続けなければ、価値を失う。


 だが、俺たちの「余白」から生まれたこのアルバムは、時間と愛情という無償の投資によって作られた。これは、永遠に価値を失わない、未来への希望と、家族の絆の設計図だ)


 美和が作り上げたこのアルバムは、陽介にとって、仕事の成果物とは全く異なる次元の「最高の資産」となった。

 それは、家族の誰かが、再び日常のプレッシャーに負けそうになった時、いつでも立ち返ることのできる「心の聖域」だった。


 美和は、陽介の胸に顔をうずめながら、そっと言った。


「ねえ、陽介さん。これからも何かをみんなでするたびに、絶対に全部写真に残すわ。きっと、最高の『創造型家族の記録』になる」


 美和の言葉に、陽介は優しく頷いた。彼の孤独は、アルバムの光の中で、完全に消滅した。


 そして、このデジタルアルバムは、後の家族の節目においても、家族を繋ぎ止め、励まし合うための、最も重要な「共有財産」として、永遠に保存され続けることになるのだった。


 陽介の人生は、美和の愛と記録によって、永続的な幸福の物語として、完成に向かっていた。

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