42歳、荷物のテトリスと湖畔の景色
家族キャンプの出発前夜。リビングの照明を落とした後も、陽介の体内時計は過剰なアラームを鳴らし続けていた。
42歳になった今、彼は仕事の納期が目前に迫った時のような、研ぎ澄まされた集中力と、遠足前の子供のような純粋な高揚感という、相反する感情の波に身を委ねていた。
深夜1時、彼は布団を抜け出し、静かに廊下を進んだ。
訓練で使用した道具のチェックリストは、すでに完璧だったが、陽介は小型の懐中電灯を頼りに、リビングの隅に積み重ねられたギアを何度も見返した。
テントの袋、焚き火台の重さ、薪の匂い。その全てが、この4ヶ月間の試行錯誤、汗と土の匂いの記憶を蘇らせる。
(すべては、あの小さな庭での、4ヶ月間にわたるシミュレーションの成果を、本番で試すためだ。悪戦苦闘したテントの設営。煙と格闘した火のコントロール。手のひらを煤で汚した道具のメンテナンス。
失敗を恐れる必要はない。
いや、恐れは存在しない。この一連の準備が、失敗を許さない最高のチーム、すなわち家族を形作ったのだから)
眠れぬ時間を高揚感に変え、早朝を迎えた。まだ空が墨色を帯び、街灯だけが橙色に光る静寂の中、陽介は息を潜めて荷物を車に積み込み始めた。
美和、翔、咲も、目覚まし時計が鳴るよりも早く、自発的に静かに起きてきた。誰も「まだ眠い」と文句を言わず、誰も「早くしろ」と焦らず、誰もが内側から燃え上がるような期待に満ちた表情をしていた。
この、張り詰めているのに穏やかな空気こそが、かつての家族旅行で常に支配的だった「イライラ」や「義務感」とは無縁の、「家族の変化」の何よりの証拠だった。
美和は、陽介の背中に、頼もしさと、青春時代のような無邪気な熱意を感じていた。
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次に始まったのは、緻密で過酷な作業、膨大なキャンプ道具を車の限られた空間に詰め込む「道具のテトリス」だった。
大型のドームテント、巨大なクーラーボックス、分厚い薪の束、美和の少し重い読書セット、咲のデリケートなカメラ機材、そして何よりも場所を取る翔のロードバイク…車内は、あっという間に機能不全に陥った。
陽介は、頭の中でアイテムを回転させ、パズルのように収納を試みるが、どうしてもデッドスペースが生まれてしまう。
彼の仕事で培った「二次元的な効率化」のスキルは、「三次元の空間把握」という実用的な試練には全く活かされなかった。
「うーん、ダメだ。この薪の束が、後部座席の形に合わず、大きな穴を作りすぎている…」
陽介は額に汗を滲ませ、焦りの色が濃くなり始めた。
その時、翔が静かに陽介のそばに来た。翔の瞳には、薪割りで木目の流れを読んだり、自転車整備で複雑なフレームの構造を把握したりすることで培った「実用的な空間認識能力」が宿っていた。
「お父さん、それは非効率だよ。薪はバラして隙間に差し込むべきだ」
翔は、まるで設計図を読むかのように、論理的な指導を始めた。
翔は、まず、テントの細長く、しかし柔軟性のないポール類を、内張りの隙間など、車内の一番邪魔にならない「隠れた空間」に縦に差し込むことで、主要な積載エリアに大きな余剰空間を生み出した。
「テントの骨組みは、一番最初に『隠す』のが効率的だ。次に、一番重くて動かせないクーラーボックスを、車の重心が安定するように中央の奥に固定する」
翔の淀みない指示と、陽介の慣れない手つきでの共同作業が始まった。
陽介は、大型焚き火台の折りたたみ式パーツを分解し、できたデッドスペースに差し込んだ。美和は、翔と咲の邪魔にならないよう、壊れやすい咲のカメラ機材や、食器類を衣類などの柔らかいもので何重にも包み、トランクの四隅に固定し、荷崩れを防いだ。
最終的に、すべての道具は、まるで最初からそう設計されていたかのように、驚くほど美しく車内に収まった。
陽介は、翔の能力に心から感銘を受け、心底嬉しそうな顔で感謝した。
「翔、お前は本当にすごいな。俺は、仕事では何でも『最適化』できると思っていたが、この『空間の効率化』に関しては、お前に敵わないよ」
翔は、父から「得意分野の承認」という最高の報酬を得たことに、照れくさそうな、しかし誇らしげな笑顔を見せた。
この共同作業は、ただの荷積みではなく、互いの能力を認め合う、父子の「得意分野の承認」の場となった。
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午前6時ちょうど。すべての荷物を積み終え、家族4人を乗せた車は、静かにキャンプ場へと出発した。
車内は、道具でごった返しているが、以前の家族旅行にあったような、道具の多さが引き起こす「イライラ」や、渋滞への「ギスギス感」は一切なかった。
代わりに、窓を開けて入ってくる少し冷たい早朝の風と、家族の「目的地への高揚感」が充満していた。
道中の会話も、仕事や学校の話題ではなく、すべてキャンプの話題で持ちきりだった。
「お父さん、佐々木さんに教えてもらった『水墨画の絶景スポット』は、何時に着く予定なの?
湖畔だと、光の角度が一番大事だから、日の出からの計算が重要だよ」
咲が、後部座席でカメラの露出設定をいじりながら、プロのように尋ねた。
「日の出までには余裕もって着くさ。
それより翔、あのヒルクライムコースは、本当にきついぞ。事前に調べたが、標高差がかなりある。途中でリタイアして、泣きながら車に戻ってくるなよ」
陽介が、軽口を叩きながら翔をからかう。
「大丈夫だよ、お父さん。その代わり、帰ってきたら、庭で練習したホットサンドを頼むよ」
翔は、運転席の父に向かって、満面の笑顔で応じた。
美和は、助手席で、そんな家族の様子を後方確認ミラー越しに見て、心の中で深く、温かく頷いていた。
(以前の陽介さんは、運転中も仕事の電話を気にしたり、子供たちに静かにするように叱ったりしていた。あの頃の車内は、道具が少なくても、張り詰めた緊張感があった。
今は違う。
車内の『混沌』さえも、家族の『温かい絆』で満たされている。この空間のすべてのモノが、私たち家族の共有財産だという実感が、この穏やかさを作り出している)
美和は、陽介の運転する横顔に目をやった。その顔には、昨夜までの仕事のプレッシャーや疲労の影は一片もなく、ただただ「これから始まる冒険」への期待と、「家族といる幸福」が満ち溢れていた。
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数時間の快適な運転を経て、車はついに目的地である「星屑湖畔キャンプ場」の砂利道に滑り込んだ。
車を降りた瞬間、目の前に広がる光景に、家族全員が同時に感嘆の歓声を上げた。
湖畔は、陽介が時間をかけてリサーチした通り、広大で静かであり、遠くにはアスファルトが光るサイクリングロードが続き、水面には朝の光がダイヤモンドのように反射して美しかった。まさに「家族の願望」が緻密にマッピングされた、最高のロケーションだった。
「うわあ!湖の青が、図鑑で見た色よりすごい!」
咲が、すぐさま首から愛用のカメラを取り出し、シャッターを切る準備を始めた。
「この風と、この景色なら、最高のサイクリングができるぞ!」
翔が、トランクから愛用のロードバイクを下ろすため、素早く準備を始めた。
陽介は、この4ヶ月間のすべての準備、すべての努力、すべての挑戦が、この瞬間の家族の歓声と、彼らの輝く瞳に収束したように感じた。
(仕事のプロジェクトで、最高の成果を出して、クライアントから感謝された時よりも、遥かに大きな喜びだ。
なぜなら、これは俺一人の『成功』ではなく、家族全員の『願望』を、俺が最高の舞台として整えられた、という『家族の成功』だからだ)
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陽介が、湖畔の荘厳な美しさを堪能していると、ふと、頭上の青空とは対照的な、西の空に目が留まった。
太陽は明るく輝いていたが、遠くの山々の稜線の上には、急激に発達している厚い、鉛色の雨雲の塊が、まるで巨大な怪獣のように横たわっているのが見えた。
「あれ…?天気予報では、終日晴れだったはずだが…」
陽介の心に、一瞬、冷たい水が流れ込んだような不安がよぎった。しかし、その不安は、すぐに庭での厳しい練習で培われた「予期せぬ挑戦への意欲」へと転化された。
(いいだろう。最高のキャンプには、最高の『試練』が必要だ。庭での練習は、すべてこの「非日常のトラブル」を、家族というチームで乗り越えるためにあったんだ)
陽介は、隣に立っていた美和に、自信に満ちた、挑戦的な笑顔を見せた。
「美和。最高の舞台が整ったな。さあ、庭で練習した通り、最高のチームワークで、あの雨雲が来る前にテントを張るぞ!」
美和もまた、陽介の表情と、遠くの空を見ただけで、予期せぬトラブルの予感を察知しながらも、その顔には一切の動揺の色を見せず、穏やかな笑顔で深く頷いた。
「ええ。準備万端よ、陽介さん。庭で何度もやったわ」
家族は、車から道具を下ろし始めた。目の前には、家族の絆の強さを試す「試練の舞台」が、刻一刻と変化する空の下で、広がっていた。




