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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第5章「家族キャンプ」

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53/85

42歳、効率の呪縛からの解放

 家族キャンプの出発まで、あとわずか。


 陽介は、身体も精神も最高のコンディションにあった。仕事においても、以前と変わらず、どころか以前よりも遥かに質の高い好成績を収めていた。


 しかし、以前との決定的な違いは、佐々木の言う通り、その好成績が、かつての「疲弊と焦燥」からではなく、揺るぎない「余裕と安定」から生まれていることだった。


 陽介のオフィスでの姿は、もはや過去の遺物だった。以前の彼は、常に背中が硬直し、眉間にシワを寄せ、ネクタイを緩める暇すらないような、時間に追われる男だった。

 しかし、今の彼は、デスクの上は整理整頓され、一つ一つのタスクに落ち着いて取り組み、チームのメンバーにも穏やかな声で優しく接し、難しい問題にも感情的にならず、論理的かつ冷静に対応していた。


(心の「余白」が、最高の集中力を生み出す。庭活動で培った「無駄な時間」の価値、つまり、心身の回復と家族の絆の構築が、今、仕事の最高の「効率」として還元されているのだ)


 同僚たちは、陽介のこの劇的な変化に気づかずにはいられなかった。


 彼を助けた佐々木だけでなく、普段はあまり交流のない他部署の人間や、さらに年上のベテラン社員までもが、休憩時間や廊下ですれ違う際に、「佐藤さん、最近すごく表情が穏やかですね」「週末は何をしているんですか?」と、彼の「余裕」の秘密を探るように尋ねてくるようになっていた。


 陽介の醸し出す静かな自信は、社内の閉塞感に対する、小さな「希望の光」となり始めていた。



---



 ある日の午後、陽介が、美和のために作った「家族キャンプのしおり」の最終チェックをしていると、重苦しい足音が彼の机の横で止まった。高橋上司だった。


 陽介の自席の背後には、彼が週末の計画を書き込んだ、美和が読むための簡単な説明書—キャンプ場とアクティビティ、そして各人の役割がまとめられた、手書きの「家族キャンプのしおり」が置かれていた。


 高橋は、陽介の手元のそのしおりを、いつもの鋭い、査定官のような視線で一瞥した。


「佐藤くん。また家族サービスか」


 高橋の声には、いつもの冷たい皮肉が込められていた。彼女の「効率至上主義」の価値観からすれば、キャンプという、数字に直結しない活動は、「生産性のない、最も無駄で非効率な行為」以外の何物でもなかった。


「お前は最近、結果を出している。それは評価する。だが、その時間をもっと有効に使え」


 高橋は、陽介の机をコツコツと叩いた。


「そんな効率の悪いことに時間を使う暇があるなら、次の資格を取るか、来期の目標設定を30パーセント上乗せしろ。週末の休息は、疲労回復という『最小限の機能』を果たせば十分だ。それ以上の『感情的な満足』など、仕事の生産性には何の影響もない」


 高橋の視線は、陽介の「心の余白」を徹底的に否定し、常に「さらなる成果」というプレッシャーをかけてきた、かつての陽介の人生を象徴していた。


 彼女は、陽介が持つ「心の安定」や「家族の幸福」といった、数値化できない資産の価値を全く理解できなかった。


 以前の陽介(庭活動を始める前)であれば、高橋のプレッシャーと皮肉に、背中が凍りつき、すぐにしおりを隠して、申し訳なさそうに「すぐに仕事に戻ります」と謝罪しただろう。


 しかし、今の陽介は違った。

 彼は、高橋の厳しい視線から目を逸らさず、穏やかな笑顔のまま、言葉の裏に隠された「哲学」をもって答えた。

 彼の声には、感情的な反発ではなく、確固たる信念が込められていた。


 陽介は、慌ててしおりを隠すことなく、そのままテーブルの上に置いた。そして、高橋の目から逃げず、真っ直ぐに高橋を見つめた。


「高橋部長。この活動は、決して非効率ではありません」


 陽介の声は、低く、落ち着いていた。だが、その声には、彼が庭で積み重ねた全ての経験から生まれた、揺るぎない自信が満ちていた。


「私の今期の仕事の生産性の高さは、部長ご存知の通りです。

 それは、私が週末に『精神的な資産』を積み上げているからです。


 このキャンプは、単なる休息ではありません。妻の火への恐怖の克服、息子の技術的な成長、娘の感性の満足。

 これらは全て、家族の絆と、私の心の安定という『最高の資産』を積み上げているのです」


 そして、陽介は、高橋が理解できる「効率」という土俵で、決定的な一言を続けた。


「家族の絆は、最高の効率です。この揺るぎない精神的な基盤があるからこそ、私は会社でのどんなトラブルにも動揺せず、最も冷静で、最高の判断を瞬時に下せるのです。

 私は、今、『心のレバレッジ』を最大化しているのです」



---



 高橋は、陽介の返答に、完全に言葉を失った。


 彼女の脳内には、「効率」「生産性」「数字」という言葉でしか世界を測れない、古い価値観が組み込まれていた。


 その価値観からすれば、陽介の「家族の絆は最高の効率」というロジックは、まるで未知の、新しいプログラミング言語のように理解不能だった。

 それは彼女の「世界の尺」の外にある概念だった。


 高橋は、陽介の言葉の「理屈」がどうこうよりも、その言葉を支える陽介の「揺るぎない自信と充実感」に、圧倒されていた。陽介の表情には、かつて彼自身が追い込んでいたような疲弊感や、焦燥感は微塵もなかった。

 陽介の存在そのものが、「効率至上主義」の限界を証明しているように見えた。


(この男の「余裕」は、偽物ではない。本当に、週末の「無駄な時間」から、こんなにも強固な精神的安定が生まれているというのか?)


 高橋は、ふと、自分自身に目を向けた。

 自分は、常に「効率」を追求し、家族にも、部下にも、常にプレッシャーをかけ続けてきた。しかし、その結果、彼女は「孤独」と「疲弊」という、陽介がかつて抱えていたものと同じ重荷を、今自分が背負っていることに気づいた。


 彼女の家庭は冷え込み、部下は彼女の顔色を窺い、彼女は心の底からリラックスする術を知らなかった。


 高橋は、何も言い返すことができなかった。彼は、まるで自分の哲学の根幹が崩されたかのように、戸惑いと、理解できないものへの恐怖を覚えながら、陽介の机を後にした。


 彼女の心には、陽介の言葉が、小さな、だが無視できない「疑問符」として深く刻み込まれた。

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