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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第5章「家族キャンプ」

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52/85

42歳、炎を囲む予行練習

 家族キャンプまで、残すところあと一週間。陽介の心は、期待と、そして微かな緊張感で満たされていた。


 彼は、キャンプの成功は、美しい景色や高価な道具ではなく、現地での「食」にかかっていると確信していた。

 食事とは、単に空腹を満たす行為ではない。それは、家族の五感を同時に満たし、炎を囲んで団欒する、最も情緒的で重要な「中心の儀式」だからだ。


(美和が火傷の恐怖を克服するきっかけとなる焚き火、翔が全身を使って割った力強い薪、咲が最高の構図で収めようと待ち構える「映え」の瞬間。

 これらすべてを、一つの温かい経験として結びつけるのは、最高のキャンプ料理しかない)


 陽介は、当日現地で「火加減が分からない」「手順がぐちゃぐちゃになる」といった不測の事態で、せっかくの家族の思い出を台無しにしたくなかった。

 彼は、完璧主義者としての側面を、今度は「家族の幸福」のために発動させることにした。


「みんな、来週の本番に備えて、庭で『キャンプ料理のフルコース』の予行練習をしないか?」


 彼の提案に、美和、翔、咲は、歓声を上げて大賛成した。もはや、このキャンプは陽介一人の「逃避」や「自己満足」ではない。

 それは、家族全員がそれぞれの個性と技術を注ぎ込み、「成功させたい共同プロジェクト」となっていた。


 メニューは、豪快な炎で焼き上げる焚き火台でのBBQ、穏やかな熱で風味を凝縮させる七輪でのアヒージョ、そして火加減が最も難しい締めのパエリアの3品に決定した。



 週末の夕方、陽介家の庭は、本格的な「屋外キッチン」へと変貌した。


 中央には、新調した大型焚き火台が威厳を持って鎮座し、隣には小型の七輪、さらに奥にはパエリア用の大型ガスバーナーが総動員された。


 テーブルには、予行練習のために用意された豪華な食材、スパイス、そして調理器具が広げられ、その光景はまるで料理番組の撮影セットのようだった。


「よし、作戦開始だ! 各自、役割分担を意識して、スムーズな流れを再現するぞ!」


 陽介が号令をかけると、家族は自然とそれぞれの持ち場へと向かった。



---



 予行練習は、驚くほどスムーズに始まった。陽介が特別な指示を出す必要はなかった。


 家族は、この庭での活動の中で、お互いの得意分野、能力、そして価値観を深く理解し、自然と最も効率的で、かつ各自が最も輝ける「役割分担」が成立していたのだ。



 美和は、屋外に出る直前まで、リビングのキッチンという「聖域」で、黙々と下準備に徹していた。

 彼女の作業は、非常に緻密で、無駄が一切ない。食材のカットは均一で、マリネ液の調合はグラム単位、パエリア用の魚介の下処理は、臭み一つ残さぬ完璧な手際だった。


「外で料理するからこそ、家での下準備が命なの。ここで『効率』を生み出しておかないと、陽介さんが火の前で慌てることになるわ」


 美和の言葉は、まるで彼女が以前の仕事で部下に語りかけていた、プロジェクト管理の鉄則のようだった。


 彼女の役割は、屋外での調理が円滑に進むための「基盤」と「インフラ」を築くこと。

 彼女の緻密な作業は、陽介の元々の仕事ぶりを彷彿とさせたが、そこには「焦り」ではなく、家族の成功を願う「愛情」と「献身」が深く込められていた。


 彼女の下準備のおかげで、屋外での作業量は半分以下に削減されていた。



 翔は、まさに大型焚き火台の前で、「炎のエンジニア」あるいは「火の番人」として機能した。


 彼は、薪割りで得た、物理学的な知識と道具への理解を、そのまま火のコントロールに応用した。


「BBQには、直接炎じゃなくて、安定した熾火の熱が必要だ。熾火は、約200℃をキープ。これで肉の表面を一気に焼いて、旨みを閉じ込める」


 彼は、熾火の配置を微調整し、正確な熱量をグリルの上に作り出した。


 七輪に移っては、通気口を細かく絞り、アヒージョ用のオリーブオイルが焦げ付かないよう、「120℃でじっくりと煮る、穏やかな弱火」をコントロールした。


「これが、一番『実用的で効率が良い』火加減だ。炎は美しいけど、熱としては熾火の方が安定している」


 翔の役割は、感情的な側面を持つ炎を、冷静沈着な「技術的な安定」へと落とし込むこと。

 彼のコントロールのおかげで、食材は最高の状態で調理されていった。



 咲は、調理過程にはほとんど関与しなかったが、焼き上がった後の料理をテーブルに運び、「最終的な作品」へと昇華させる役割を担った。


 彼女の役割こそ、家族の幸福度を最大化する鍵だった。


 咲は、庭のハーブ棚から摘んだばかりの、鮮やかなバジルやミント、美和の自家製ピクルスを使い、料理を芸術的に飾り付けた。

 BBQの肉の上には、粗挽きのコショウとフレッシュハーブを散らし、アヒージョの黄金色のオリーブオイルには、刻んだパセリの緑を美しく配置した。


「キャンプ飯は、ただ美味しいだけじゃダメなんだよ。『写真映え』が一番大事なの。このハーブの緑と、アヒージョのオリーブオイルのコントラストが、最高に『非日常』を演出するんだから」


 咲の指先から生まれる「美的価値」は、単なる見栄えではなく、家族がその瞬間を「特別な思い出」として記憶するための、強力な触媒となっていた。


 彼女の役割は、家族の食事体験に「感性の演出」を加えることだった。



 陽介自身は、調理器具への食材の投入や、火の前の細かな作業、つまり「実行」を担当した。


 しかし、彼の最も重要な役割は、各パートの進行状況を広い視野で確認し、全体の流れを調整する「オーケストラの総監督」として動くことだった。


 彼は、美和の準備した食材を翔のコントロールする火に移し、焼き上がったものを咲に引き渡す。


 彼の役割は、家族それぞれの最高の技術や個性を最大限に引き出し、それらが摩擦を起こすことなく、一つの「調和のとれた作品」へと昇華されるよう、全体をまとめ上げることだった。



---



 予行練習は、順調に進み、家族は歓喜に包まれていた。BBQは絶妙な焼き加減で肉汁が閉じ込められ、アヒージョは香ばしいハーブの香りを放っていた。

 しかし、最後のパエリアで、小さな、だが決定的な失敗が起きた。


「そろそろ火を止めるぞ」


 陽介がパエリア用の大型バーナーの火を消し、土鍋の蓋を開けた瞬間、焦げた匂いが立ち込めた。

 土鍋の底の一部、特に炎が直接当たっていた中心部が、真っ黒に焦げてしまっていたのだ。


「うわ! 焦げた! ごめん、お父さん、俺が火加減をミスったかも…」


 翔は、自分がバーナーの火力を絞りきれなかったミスだとすぐに判断し、悔しそうに謝罪した。


 しかし、陽介は冷静だった。彼は、仕事の失敗とは異なり、この小さな事故を「責める」材料にはしなかった。

 彼は、焦げ付いた部分をスプーンで慎重に掬い上げ、その焦げ付き方を分析した。


「待て、翔。これは君の火加減の問題じゃない。バーナーの炎が、土鍋の底の一点に集中しすぎていたんだ。バーナーの熱源の特性を理解せず、土鍋をそのまま置いたのが原因だ。道具と熱源の特性を理解できていなかったのは、総監督である、俺のミスだ」


 陽介は、仕事では「失敗=責められる、隠すもの」だったが、この庭のプロジェクトでは「失敗=共同の改善点、学ぶべきデータ」へと価値を転換させた。


「本番では、土鍋の下に、熱を均等に伝えるための『薄い鉄板』を挟もう。これで、熱が分散され、焦げ付きを防げる。土鍋全体に、翔のコントロールした熾火の熱を均等に伝えられるはずだ」


 家族全員が、この失敗を非難することなく、具体的な解決策を共有した。

 美和はすぐに「それなら、家のキッチンの分厚い鉄板を持っていきましょう。熱伝導率が高いから最適よ!」と提案し、咲は「焦げたところも、香ばしいって言って写真撮れば、それもまた思い出になるよ!」と、それぞれの方法で父を励まし、失敗を「物語」へと変える方法を教えてくれた。



---



 予行練習の最後に、家族は庭のテーブルで、焼き立てのBBQと、焦げ付いた部分を取り除いた香ばしいパエリアを囲んだ。


「外で食べるパエリアも、最高に美味しいわね。焦げたところも、少し香ばしくてアクセントになっているわ」美和が満足そうに言った。


「このハーブの盛り付け、写真で見ると3倍美味そうだよ、咲。すごい才能だな」翔が、妹の美的感覚を素直に褒めた。


 陽介は、この予行練習を通じて、家族が持つ「創造性」と「実用的な知識」の豊かさに改めて感動した。

 彼の趣味は、家族の個性を最大限に引き出し、それを一つの「共同作品」へと結実させる、最高のプラットフォームとなっていた。


(仕事でのプロジェクトは、常に「完璧」を求められる。失敗は許されない、厳しく冷たい空間だ。

 だが、家族のプロジェクトは、「失敗を許容する温かい空間」の中でこそ、最高の創造性を発揮できるんだ。この温かさこそが、失敗を学びへと昇華させる、最高の『効率』なのだ)


 この予行練習の成功は、陽介に、来たるキャンプ本番への揺るぎない自信を与えた。彼はもはや、自分一人の力に頼る必要はない。最高のチームが、彼の隣にいるのだ。



---



 予行練習を終え、家族が協力して庭の道具を片付けている時、陽介は、焚き火台の熱が冷めきるのを待つ美和に語りかけた。


「美和。俺、もう怖くないよ。本番で何が起きても、この家族という最高のチームがあれば、どんなトラブルも乗り越えられる」


 美和は、陽介の背中にそっと手を回し、優しく叩いた。


「そうよ、陽介さん。私たち、もうこの庭で『チームワーク』と『失敗の許容』を完璧に訓練したわ。パエリアの焦げつきも、立派なデータになった。あとは、現地で最高のロケーションと雰囲気を楽しむだけよ」


 陽介は、この庭で積み重ねた努力、汗、そして共有された時間が、家族の間に「絆のストック」として、着実に貯蔵されていることを確信した。


 このストックは、高橋上司が重視する「金銭」や「数字」の効率とは全く異なる、精神的な、だが計り知れない価値を持つ「効率」となるだろう。

 陽介は、次の週末の太陽が昇るのを、心待ちにしていた。

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