42歳、後輩と休憩時間を過ごす
家族キャンプの準備は、もはや陽介の生活の中で、仕事と同じくらい、あるいはそれ以上に重要なプロジェクトとなっていた。テントも、大型焚き火台も揃い、準備は着々と進んでいた。
仕事においても、陽介は以前と変わらぬ、いやそれ以上に質の高い成果を維持していた。
ある日の昼休み、陽介は、社内の休憩スペースの窓際の席に座っていた。
彼はランチを終えた後、仕事の資料ではなく、キャンプ場周辺の地図を広げ、最終的なルートとアクティビティをチェックしていた。
(湖畔のサイクリングロードは翔が満喫できるとして、咲が飛び跳ねて喜ぶような「映える」ロケーションはないだろうか。彼女の写真に対する情熱を考えると、ただ景色が良いだけでは不十分だ。光と影、そして非日常の美しさが必要だ)
陽介は、ガイドブックには載っていないような、地元の秘密の場所を探し求めて、スマートフォンの地図アプリと格闘していた。彼は、家族にとって最高の「思い出の舞台」を用意したいと願っていた。
その時、同僚の佐々木が、淹れたてのコーヒーを持って陽介の隣に座った。
佐々木は、以前から陽介の庭活動に興味を示し、その「庭の哲学」が陽介にもたらした変化を、最も近くで見てきた人物の一人だった。
「佐藤さん、お疲れ様です。週末はキャンプですか?本当に楽しそうですね」
佐々木は、陽介が広げている地図を覗き込みながら、にこやかに話しかけた。
「ああ、佐々木君。ありがとう。家族で初めての本格キャンプなんだ。
今、この星屑湖畔の周辺で、何か面白い場所がないか調べているところなんだが、なかなか良い情報が見つからなくてね」
陽介は、佐々木とのこの「無駄な会話」を、以前なら即座に断ち切っていたはずだ。「休憩時間も効率的に使え」という高橋部長の教えに従い、すぐに仕事のシミュレーションか、自己啓発本を読む時間に充てていただろう。
しかし、今の陽介は、この「雑談」が、仕事とは全く関係のない、いかに豊かな繋がりを生み出すかを、庭での経験から学んでいた。
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陽介が広げた地図、特にキャンプ場周辺のエリアを見るやいなや、佐々木は目を輝かせた。
彼の表情は、一瞬にして仕事のモードから、個人的なネットワークを活用するモードへと切り替わった。
「え、ここですか!佐藤さん、ちょっと待ってください!」
佐々木は興奮気味に言った。
「実は、僕の大学時代のサークル仲間が、この辺の出身で、今も地元に住んでいるんですよ。地元の人間しか知らない、ガイドブックには絶対に載ってない、とっておきの情報があるかもしれません!」
佐々木は、すぐにスマートフォンを取り出し、友人たちに連絡を取り始めた。
陽介は、コーヒーを飲みながら、佐々木が真剣な顔でメッセージを打ち込んでいる様子を眺めた。
この行動は、彼にとって全く「非効率」ではない。むしろ、彼の家族への愛と、佐々木という同僚の「善意」を引き出す、最高の「人的投資」だった。
数分後、佐々木は「来た!」と小さく叫び、満面の笑みで陽介に囁いた。彼の提供してくれた情報は、陽介が求めていたものを遥かに超える、具体的で価値あるものだった。
「佐藤さん、最高の情報が手に入りました。まず、咲さん向けです。キャンプ場から湖畔沿いを徒歩で20分くらいのところに、地元の人しか知らない小さな桟橋があるそうです。
そこは、早朝に湖面に霧が立ち込める日が多くて、まるで水墨画のような幻想的な世界になるらしいですよ。特に朝の光が差し込む瞬間は、写真好きにはたまらないと」
陽介は、思わず息を飲んだ。咲が求める「映える」ロケーションとは、まさにこれだ。
さらに佐々木は、翔のための情報も忘れていなかった。
「それから、翔くんのロードバイクのために、もう一つ。キャンプ場から車で30分圏内にある、プロのロードレーサーが秘密のトレーニングに使う『人里離れたヒルクライムコース』の情報です。
交通量がほとんどなく、最高の景色を楽しめると。翔くんが喜びますよ、これ」
陽介は、驚きと感謝で胸がいっぱいになった。佐々木がくれた情報は、咲の「美的願望」と、翔の「実用的なトレーニング願望」という、家族それぞれの個別のニーズを、完璧に満たすものだった。
ガイドブックを何冊読んでも、インターネットを何時間検索しても見つからない、「信頼と繋がり」によってのみ得られる、生きた情報だった。
「佐々木君、これは最高の情報だ!
ガイドブックには絶対に載っていない、家族の記憶に残る、最高のスポットだ。本当にありがとう!」
陽介は、心から感謝の意を伝えた。
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佐々木は、陽介の心からの感謝に、少し照れながらも満足そうな顔をしていた。
彼は、以前とは違い、今の陽介が「人間的な深み」と「余裕」を持っていることを感じ取っていた。以前の陽介は、どれだけ仕事で成功していても、常に何かに追われているように見え、近づきがたいオーラを放っていた。
佐々木はコーヒーを一口飲み、少し真面目な顔で陽介に語りかけた。
「佐藤さん、実は、僕がこうして一生懸命に情報を探しているのは、佐藤さんが変わったからです」
陽介は、穏やかに彼の言葉を待った。
「俺が、変わった?」
「はい。以前の佐藤さんは、常に焦燥感に駆られていて、話しかけにくいオーラがありました。仕事のことで頭がいっぱいで、休憩時間にも常にピリピリしていた。
でも、今は全く違います。
仕事も絶好調なのに、すごく穏やかで、全然疲弊していない。その『心の余裕』が、どこか羨ましいんです」
佐々木は続けた。彼は、陽介の「庭の哲学」に共鳴していた。
「僕も、最近、休日に無心になれるような趣味を探しているんです。この会社の雰囲気って、常に『効率』と『生産性』を求められて、自分の『人間性』が削られていくような気がして…。
佐藤さんの庭活動の話を聞くと、人生って、『効率』だけじゃない、『豊かさ』や『無駄』な時間の中にこそ、真の価値があるんだなって、初めて思えました」
陽介は、佐々木の言葉に、深い喜びを感じた。彼の趣味である庭活動は、単なる自分自身の「逃避」や「リフレッシュ」の手段ではなく、佐々木という同僚の「人生観」にまで、静かに影響を与え始めていたのだ。
(佐々木君は、高橋上司の言う「効率の呪縛」から、精神的に抜け出そうとしている。彼にとって、俺の庭活動や、その結果として生まれた『心の余白』は、閉塞した現状を打ち破るための「希望の光」になっているのかもしれない)
陽介は、自分がかつて高橋部長の信奉者だったことを思い出し、少し胸が締め付けられた。
しかし、今はもう、その価値観は過去のものだ。彼は、自分の新しい価値観を、同僚と分かち合うことこそが、真の「豊かさ」だと理解していた。
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陽介は、佐々木に心からの感謝の気持ちを伝えた。
「佐々木君、本当にありがとう。この情報のおかげで、最高のキャンプになりそうだ。ガイドブックのデータなんかよりも、遥かに価値がある。
家族に君からだと伝えておくよ」
「いえ、ぜひ楽しんできてください!」
陽介は、この一連のやり取りを通じて、公私問わず築いた「人間的な繋がり」、特に「善意」と「共有」に基づいた関係性こそが、最も強固な「資産」になることを確信した。
それは、高橋上司の言う「効率」や「数字」とは全く異なる、「信頼」という名の、測り知れない価値を持つ資産だった。
(仕事の成果や評価は、四半期で数字としてすぐに消えていく。だが、この佐々木君との間に生まれた信頼関係は、仕事の垣根を超えて、人生の最後まで続く『レガシー(遺産)』になるだろう。このレガシーこそが、本当に価値のあるものだ)
陽介は、この発見に、深い満足感を覚えた。彼の人生は、以前よりもずっと安定し、予測可能になり、そして何より温かくなっていた。
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休憩時間が終わり、陽介は自席に戻った。彼は、すぐに佐々木から得た情報を、咲と翔に共有するために、家族のグループメッセージに送った。
数秒も経たないうちに、スマートフォンが鳴り響いた。
「水墨画の絶景!1000点満点!朝早く起きる練習しなきゃ!」
「ヒルクライムコースのデータありがとう!これはマジでプロ仕様だ。最高のトレーニングになりそう!」
家族全員の喜びが、陽介の心にフィードバックされた。この喜びを想像することで、仕事への集中力がいつも以上に高まるのを、彼は確かに感じた。
(心の「余白」が満たされているからこそ、今、目の前の仕事に、最高の集中力で取り組める。高橋上司の言う「無駄な時間」や「非効率な雑談」こそが、最高の「生産性」を生み出しているのだ)
陽介は、このキャンプが成功すれば、彼の「庭の哲学」が、家族だけでなく、佐々木君のような同僚や、さらには会社全体にも、「静かなる影響」を与えていくことを予感していた。
彼は、単なる会社の歯車ではなく、職場に「豊かさの概念」を持ち込む、新しい種類のリーダーになりつつあった。
そして、その影響の広がりこそが、陽介の人生における、新たな「目的」となりつつあった。
彼は、静かにPCの電源を入れ、午後の仕事に取り掛かった。その表情は、以前の焦燥とは無縁の、確信に満ちた穏やかなものだった。




