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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第5章「家族キャンプ」

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42歳、息子の薪割り指導を受ける

 大型焚き火台の購入は、陽介に新たな、そして最も原始的な課題をもたらした。それは、「薪割り」だった。


 ミニ焚き火台の頃は、ホームセンターで袋詰めにされている、既に細く加工された焚き付け用の薪で事足りた。

 しかし、この巨大な焚き火台で、一晩中、家族の団欒を支える力強い「炎の城」を維持するには、太く丈夫な乾燥した丸太が必要だった。細い薪では、すぐに燃え尽きてしまい、団欒のリズムが崩れてしまう。


 陽介は、再びホームセンターへと向かい、ずっしりと重い太い乾燥丸太の束と、柄の長い本格的な「手斧」を購入した。刃の部分に重みがあり、柄が長いその斧は、見た目からして「力」を要求しているように感じられた。


 庭の隅、少し人目につかない場所に、薪割りのための頑丈な台を設置し、陽介は初めての薪割りに挑戦した。


 彼は、これまで長年、スーツ姿でPCを叩き、データとロジック、そして会議室の人間関係を扱う仕事をしてきた。それは、まさに「頭と指先の仕事」だった。


 しかし、目の前の薪割りは、それとは180度違う、「原始的な力仕事」だった。


 陽介は、背筋を伸ばし、仕事の鬱憤を晴らすかのように、腕の力に頼って斧を振り下ろした。だが、丸太の中心を外したり、変な方向に力が加わって、斧の刃が丸太の表面で滑ったり、逆に中途半端に食い込んだだけで止まってしまったりする。


「うーん、ダメだ…!」


 何度やっても、丸太は勢いよくきれいに割れず、ただ斧の刃がめり込んだり、弾かれたりするばかりだった。その度に体力を消耗し、陽介の額には汗が滲んだ。

 まるで、彼の仕事の論理が、目の前の自然の法則に拒否されているかのようだった。


「これは、高橋部長がいつも言う『効率の悪い作業』そのものじゃないか…」


 陽介は、力任せに斧を振り下ろし続ける自分の姿を見て、仕事と同じように「力と根性」だけで解決しようとする、自分の愚かさに直面した。

 丸太を割るという単純な行為が、いかに技術と経験を要するかを、彼は思い知らされた。


 彼は、自分の身体を、そして道具を、全く使いこなせていなかった。



---



 陽介が、大きく息を吐きながら、割れない丸太を前に苛立っていたとき、リビングから出てきた翔が、静かに様子を窺っていた。

 翔は、いつものように自分のロードバイクを整備していたようで、手の油を拭き取りながら、工具箱を脇に置いていた。


「お父さん、それ、力の入れ方が非効率だよ。斧の振り方が、全部バラバラだ」


 翔の指摘は、冷静で的確だった。

 陽介は、苦笑いしながら斧を翔に渡した。


「そうだろうな。どうやったら綺麗に割れるのか、コツが掴めないんだ」


 翔は、陽介から斧を借りて、まるで授業の実験を見せるかのように、自分の知識を披露し始めた。その口調は、父に対する優越感ではなく、純粋に「技術」と「物理学」への愛に満ちていた。


「斧はね、お父さん。腕力で振り下ろすものじゃないんだ」


 翔は、斧の柄を握り、ゆっくりと解説する。


「柄の長さは、そのまま『力のモーメント』を生み出すためのテコの原理だ。

 柄が長いほど、小さい力で大きな回転力を生み出せる。腕で力を出すのは、最後の『加速』のためであって、メインの仕事は、『作用・反作用の法則』に従って、斧の重さを最大限に利用することなんだ」

 彼は、具体的な指導を始めた。


「まず、薪のどこを叩くか。丸太には『節』がある。節は繊維が複雑に入り組んでいて、避けなきゃならない。割れやすいのは、繊維がまっすぐな部分だ。そして、斧の刃を、その割れやすい部分の『重心』に、まっすぐ合わせるんだ」


「そして、振り上げる時は、腕で頑張りすぎず、柄の長さを利用して遠心力を溜める。そして、振り上げすぎず、最高点から一気に、重力と遠心力の連成を利用して、重心に落とす」


 翔は、一度自分の目の前で斧を止めた後、核心的な原理を口にした。


「それに、お父さん。斧は、薪を『叩き割る』んじゃない。それはハンマーの仕事だ。斧の刃は、薪の繊維の弱点に『滑り込ませる』ための『くさび』なんだ。刃先が食い込んだ瞬間、斧の重さと形状が、薪の内部に大きな『引張応力』を発生させる。これが、最も効率が良い」


 そして、翔は、陽介の斧を手に取り、模範的な動きを見せてくれた。

 無駄な力は一切入っていない。柄を長く持ち、体を回転させ、斧の重力加速度を最大限に利用して、丸太の割れ目めがけて正確に落とす。


「パキィン!」


 一瞬の乾いた音と共に、太い丸太は、見事にまっ二つに割れた。薪は、彼の足元に、まるで芸術品のように、美しい断層を見せて転がった。


「すごいな、翔!完璧だ!」


 陽介は、心から感嘆の声を上げた。それは、自分が仕事で最高のプレゼンを成功させた時よりも、遥かに純粋な感動だった。

 翔は、父の熱のこもった賞賛に、照れながらも微かな誇りを感じていた。


「薪割りは、力仕事じゃなくて、技術なんだよ。自転車のパーツのトルクを調整するのと同じで、『最小の力で最大の結果を出す』ための、物理学的な美しさがあるんだ」


 翔の言葉には、彼の趣味であるロードバイクの整備を通じて培った、道具と理論への深い理解が込められていた。



---



 その日から、薪割りは、陽介と翔の、言葉のいらない「共同作業」となった。


 陽介は、翔の指導に従い、自分の身体の使い方、力の分散のさせ方を、ゼロから学んだ。最初のうちは、どうしても「腕力」に頼ってしまう陽介の「不器用さ」に、翔は笑いながらも、真剣に指導した。


「違う、お父さん。身体を固めないで。力を抜いて、遠心力を感じて!」

「重心がずれてる!もう一度、斧の刃の延長線上に、薪の中心を見定めて!」


 陽介は、仕事では常に「先生」であり、「指示を出す側」だった。彼は、自分の部門では知識と経験で誰もに優越していた。

 だが、この庭では、息子が彼の「先生」だ。そのことに、陽介は何の不満も抵抗もなかった。むしろ、息子が自分より優れている、そして自分に「教えてくれる」分野があるという事実が、素直に、そして深く誇らしかった。


(俺が教えられるのは、複雑な市場分析や、部下へのマネジメント技術だ。

 だが、翔が教えてくれるのは、この世界に流れる普遍的な法則、物理学の真理と、それを具現化する「技術」だ。

 どちらも、人生を豊かにするために欠かせない、本質的な知恵なんだ)


 陽介は、薪割りの単純で反復的な作業の中に、深い「充実感」を見出した。

 それは、高橋部長の言う「効率」や「生産性」の概念とは、全く異なるものだった。「時間をかけて、無心で一つの技術を習得する」というプロセスそのものが、陽介の心を深く満たしていく。


 斧が丸太の中心を正確に捉え、薪の繊維が綺麗に断ち切られる時の、「パキッ!」という乾いた音は、陽介の心の奥深くに溜まっていた、仕事のストレスを解放する「デトックス音」だった。

 無心で斧を振り下ろす瞬間だけは、彼は会社のメールも、締切も、ノルマも全てを忘れることができた。


 共同作業は続いた。

 陽介が丸太を台にセットし、翔が斧を構える。陽介が失敗した丸太を、翔が理詰めで処理する。

 二人の動きは、次第にリズムを帯びていき、夕暮れの庭に、心地よい薪割りの音だけが響き渡った。



---



 割られた大量の薪が、庭の隅に、幾何学的な美しさを伴ってきれいに積み上げられていく。


 それは、単なる燃料の山ではなく、陽介と翔の「共同創造の成果」であり、父子の連帯感を象徴する記念碑のようだった。

 そして、この薪の山こそが、家族キャンプの夜を温める、揺るぎない「絆のストック」となるのだ。


 美和と咲は、日に日に大きくなっていく薪の山を見て、感嘆の声を上げた。


「すごい量だわ、陽介さん。こんなに立派な薪なら、火持ちも良さそうね。これで2晩は、温かい団欒を楽しめるわね」


 美和は、手で薪の山に触れ、その乾いた感触を確かめた。彼女の目には、炎に対する恐怖よりも、新しい焚き火台と、この薪の山がもたらす「安心」が宿っていた。


「お父さん、翔。この薪を積んだところも、なんか絵になるね。生活感があるのに、すごくカッコイイ!」


 咲がすぐにスマホを構え、その薪の山をアート作品のように撮影した。


 陽介は、翔と二人、達成感に満ちた表情を交換した。二人だけの、特別な言語が存在しているように感じられた。それは、「力」と「技術」という、男同士の連帯感だった。


(庭は、俺の孤独な避難所から、家族の団欒の中心へと変わった。そして今、この薪割りの経験を通じて、翔にとっては、「学校で学んだ知識を、実生活で試す実験場」となった)


 陽介は、大型焚き火台という「道具」と、薪割りという「技術」を通じて、息子との間に、言葉のいらない「力の連帯感」が生まれたことを確信した。


 仕事の「効率」とは真逆の、不器用で、時間をかけた作業こそが、最も価値のあるものを生み出したのだ。


 週末の夜、陽介は、新しく設置した大型焚き火台に、翔が割った乾燥した薪をくべた。


「さあ、着火だ」


 翔が火口に点火すると、薪はすぐに炎を上げ、力強い炎の柱が立ち上った。

 ミニ焚き火台の頃とは比べ物にならない、堂々とした炎だ。その炎は、キャンプ本番での、家族の温かい団欒を約束しているようだった。


 陽介は、この力強い炎を見つめながら、「道具の進化は、家族の絆の進化に直結する」という、新たな庭の哲学を心に刻んだ。そして、この炎の温かさが、美和の心の氷を完全に溶かす日が近いことを確信したのだった。

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