42歳、道具の卒業会議
キャンプ場(星屑湖畔キャンプ場)が決まり、家族のテンションは高まっていた。
次に陽介が取り掛かったのは、道具の最終点検だった。特に、家族用テントと、その付属品、そして10年以上前に買ったまま押入れの奥に眠っていた古い寝袋などの点検は急務だった。
陽介は、玄関横のスペースから、翔と共同して張った10年前のテントを取り出した。それは、陽介が仕事に没頭する前の、若かりし頃に数度だけ使ったきりのテントだった。
「懐かしいな。あの頃は、道具に金をかける余裕も時間もなかったから、最低限のものしか買えなかった」
テントの生地は薄く、翔が貼った防水テープだけが輝いていた。寝袋はぺちゃんこで、ロフトがほとんど失われ、保温力が期待できなかった。庭で小さなキャンプをするには構うことはないが、キャンプ地で使うとなるとやや防御力が劣る。
陽介の心に、仕事の癖が再び顔を出した。
(これは「非効率」だ。安全と快適性を考えれば、最新の高性能な道具に買い替えるのが最善だ。特に、美和や子供たちを連れて行くのだから、妥協は許されない)
陽介は、すぐにスマホで最新の高性能テントや寝袋を検索し始めた。その高性能なスペックと、高額な価格を見て、陽介は一瞬、ためらいを感じた。お金の問題ではない。この古い道具には、「家族の歴史」が詰まっているように感じられたからだ。
「どうしたの、お父さん? 何か買うの?」
咲が、その様子を見て声をかけてきた。
「いや、このテントじゃ、雨が降ったら浸水するかもしれないし、寝袋じゃ寒くて風邪をひくかもしれない。だから、買い替えようと思って」
その時、翔が陽介の持っている寝袋を手に取り、中綿を丁寧に揉み始めた。
「お父さん、買い替えるのはもったいないよ」
「でも、翔。これじゃ寒いぞ。お前の部活の合宿で使う寝袋とは違う」
翔は、自分のロードバイクの整備で培った「道具への責任感」と「実用的な知識」に基づいて、陽介に提案した。
「これ、確かにロフトが潰れてるけど、天日干しして、しっかり中綿を揉みほぐせば、ある程度は復活すると思う。それに、防水スプレーをかければ、応急処置にはなる。新しいものを買うのは、『機能が回復不可能なもの』だけにするべきだよ」
翔の言葉は、陽介の「消費主義」的な発想に、冷水を浴びせるようだった。
翔は、自分の自転車の工具やパーツを修理して長く使う中で、「道具への愛着」と「持続可能な思考」を学んでいた。
「道具は、壊れたら捨てるものじゃない。『直して長く使う知恵』こそが、本当の道具愛だよ。お父さん、庭で七輪を直して使った経験があるだろ?それと同じだよ」
翔の言葉に、陽介はハッとした。
(そうだ。俺がこの庭で学んだのは、「効率」や「高性能」ではなく、「手間をかけて愛すること」だったはずだ)
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陽介は、家族全員をリビングに集め、「道具の卒業会議」を開いた。これは、誰の意見も無視しないという、キャンプ地決めのときに学んだ教訓の応用だった。
「この古い道具たちを、キャンプに連れて行くか、それとも『卒業』させて新しいものを買うか。みんなで基準を決めよう」
美和は「安全」の視点から意見を述べた。
「私は、『家族の命や健康に関わるもの』は卒業させるべきだと思う。例えば、火の粉で穴が開いているテントや、-5℃以下の寒さに耐えられない寝袋は、躊躇なく卒業させましょう」
咲は「美的感覚」の視点から意見を述べた。
「私は、『写真に写るメインの道具』のデザイン性が重要だと思う。
ランタンのホヤが割れていたり、テーブルがグラグラしていたりすると、せっかくのキャンプが台無し。でも、デザインが良ければ、修理して『ヴィンテージ感』を出すことで、逆に映えるから卒業しなくてもいい」
翔は「機能」の視点から意見を述べた。
「お母さんの言う通り、『機能が回復不可能で、安全を脅かすもの』は卒業。でも、それ以外は、手間をかけてでも直すべきだ。『愛着』は、高性能のスペックには勝るよ」
話し合いの結果、家族は以下の「卒業基準」を定めた。
命に関わるもの(テントの骨組みの破損、ガス器具の故障)は、即卒業。
修理やメンテナンスで機能が80%以上回復しないものは卒業。
家族の思い出が詰まった道具は、機能が少々劣っても、できる限り使い続ける。
この基準に基づき、寝袋は家族全員で天日干しと揉みほぐしで回復させることに。テントは、陽介がシームテープの補修と防水スプレーを施すことに決定した。
しかし、陽介さえ忘れていた、押し入れの奥に眠っていたランタンは、電池を替えても光ることはなかったため、卒業とした。
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その日から、庭は「道具のメンテナンス工場」と化した。
陽介は、テントのシームテープの補修作業を、翔に教わりながら行った。翔は、自転車のパンク修理で慣れた手つきで、陽介に防水テープの貼り方や、熱処理の方法を指導した。
「お父さん、ただ貼るんじゃなくて、テンションをかけながら貼らないと、隙間から水が入るよ。道具を直すのは、『手を抜かない丁寧さ』が大事なんだ」
美和と咲は、古い寝袋を庭の広いスペースに広げ、中綿を叩き、揉みほぐした。
「これ、陽介さんが私と付き合い始めた頃に買ったものよね」美和は懐かしそうに言った。「こんなに古くなっても、まだ使えるなんて。陽介さんの『道具への愛情』って、変わらないのね」
陽介は、家族全員が、自分一人の趣味だった道具に「手間をかける」という共同作業を通じて、深い愛着を抱き始めていることに感動した。
(道具は、ただの「モノ」じゃない。それは、家族の「物語」を内包する「レガシー」なんだ)
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「卒業」した古いランタンの代わりに、陽介は、明るくて安全な最新のLEDランタンを購入した。陽介が庭で使用しているオイルランタンよりも機能性に優れ、誰にでも簡単に使えるものを選択した。
そのランタンを、庭のテーブルに置き、家族全員で眺めた。
「新しいランタンは、すごい明るいな」
翔が言った。
「でも、古いランタンの、油の匂いや、ホヤの温かい光も、忘れられないね」
咲が少し寂しそうに言った。
陽介は、古いランタンを手に取り、静かに語った。
「そうだ。古い道具は、新しい道具にはない『時間という価値』を持っている。そして、新しい道具は、これから始まる『家族の新しい物語』の始まりだ」
陽介は、この「道具の卒業会議」を通じて、自分の庭の哲学が、仕事の「効率至上主義」から完全に脱却し、「持続可能な愛情」という新しいステージに達したことを確信した。
彼は、古い道具を捨てるのではなく、「大切に保管する」という決断を下した。それは、家族の歴史を、庭とともに残していくという、陽介の新しい誓いとなった。




