42歳、キャンプ地を決める
美和が発した「家族でキャンプに行こうか」という一言は、陽介の心に火をつけた。それは、仕事の「企画」と同じくらいの熱量を陽介にもたらした。
翌朝、陽介は出勤前にもかかわらず、リビングのテーブルで広大な日本地図とPCを開き、完璧なキャンプ場のリサーチを始めた。
「美和、見てくれ。ここは富士山の麓の、まさに手付かずの自然が残っている場所だ。最高の焚き火ができそうだ!」
陽介は、仕事で培ったリサーチ能力と、「理想の追求」という癖を全開にしていた。
彼の頭の中には、桜井慎の動画に出てくるような、静寂に包まれた、完璧なロケーションのイメージしかなかった。彼は、そのキャンプ場を、自分の「庭の哲学」の集大成の場として捉えていた。
(最高の場所を見つけなければ。最高のロケーションで、最高の道具を使い、最高の思い出を作る。それが、この庭活動の最大の成果となるはずだ)
美和は、そんな陽介の姿を見て、微笑ましく思いながらも、少しの懸念を抱いていた。
(また、陽介さんが一人で「完璧」を追い求め始めているわ。庭活動の目的は、陽介さんの孤独の解消と家族の幸福だったはず。誰か一人の「完璧」は、家族の「不完全」を意味してしまうかもしれない)
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週末の夜、陽介はリサーチ結果を家族に発表した。
彼は、選りすぐりの3つのキャンプ場を、まるでプレゼンテーションのように、地形図、植生、焚き火の自由度、そして何よりも「静寂度」という項目で評価し、ランキング形式で示した。
「…ということで、俺が選んだのは、この『森の秘境キャンプ場』だ!水道も電灯もないが、満天の星空と、最高の自然が保証されている!」
陽介は自信満々だった。しかし、彼の熱意は、子供たちには伝わらなかった。
まず、咲が異議を唱えた。
「えー、お父さん! それ、全然ダメじゃん。
まず、圏外じゃない?
そして、インスタで調べたけど、全然『映える』要素がないよ。せっかく家族でキャンプに行くんだから、湖畔とか、コテージのデザインが可愛いとか、近くに『おしゃれなカフェ』があるとか、そういう美的完成度も必要でしょ?」
咲は、陽介の選んだ場所が、彼女の「感性の表現の場」としては機能しないことに不満を述べた。彼女にとって、キャンプは「五感の饗宴」であり、その記録と共有が不可欠だった。
次に、翔が実用的な視点から反論した。
「俺も、お父さんの案には反対だ。森の中じゃ、俺のロードバイクを走らせる場所がない。俺のロードバイクは舗装された道でこそ本領を発揮するんだ。キャンプ場から直結で50キロメートル以上の『サイクリングコース』が確保されている場所じゃなきゃ、俺が行く意味がない」
翔は、自分の趣味である「実用性」を最大限に満たせない場所に、価値を見出さなかった。彼にとってのキャンプは、「父親の趣味への参加」と「自分の趣味のトレーニングの場」という「機能」が重要だった。
陽介は、初めて家族の意見が、自分の「理想」と真っ向から衝突することに直面した。
「おいおい、何を言ってるんだ!
キャンプは、自然に溶け込み、日常の喧騒から離れるのが醍醐味だろうが!『映え』とか、『サイクリングコース』とか、そんな『効率の悪い』ことを求めるな!」
陽介は、思わずかつて高橋上司が使った「効率」という言葉を口にしてしまった。その瞬間、リビングの空気が一気に凍り付いた。
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陽介は、自分の口から出た言葉にハッとした。
(俺は、また「効率」の呪縛に囚われていたのか?高橋上司の価値観を、無意識のうちに家族に押し付けていたのか?)
美和は、そんな陽介と子供たちの間に、そっとコーヒーを置いた。
「陽介さん、翔、咲。みんなの気持ちはよくわかるわ。
陽介さんは、仕事で最高の企画を追求するように、キャンプでも『完璧』を求めている。翔は、自分の努力の成果を発揮できる『実用性』を求めている。咲は、その時間を美しく記録に残すための『感性の場』を求めている」
美和は、それぞれの要求を否定せず、まず「承認」した。
「でも、陽介さん。庭活動の最終目標は、家族が一緒に過ごす時間よ。誰か一人の『最高の満足』のために、他の誰かが『不満』を抱えていたら、それは『最高の家族の時間』とは言えないわ」
美和の言葉は、陽介の胸に深く突き刺さった。彼の「庭の哲学」は、まだ完成していなかった。
美和は、陽介のリサーチ資料を手に取り、一つの提案をした。
「場所は、『家族全員の活動を許容する場所』にしましょう」
美和の提案はこうだった。
一つ、水辺の開放感は、自然の深さと、光の美しさ(咲の『映え』要素)を両立できること。
二つ、キャンプ場から15分以内で、翔が満足できる舗装路にアクセスできること。
三つ、車で10分圏内に、咲と美和が楽しめる地元の食材や、コーヒーを飲める場所があること。
四つ、陽介が満足できる、焚き火台の使用が自由な場所であること。
「陽介さん。完璧な『秘境』じゃなくていいの。庭で培った道具と技術があれば、どんな場所でも最高の『非日常』は作れるわ。必要なのは、『みんなが、自分の好きなことをする時間を許容し合える場所』よ」
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美和の提案を聞き、陽介はハッとした。
(そうだ。俺の幸福は、完璧な環境ではなく、家族との「共有」の中にある)
陽介は、すぐにノートPCの検索条件を変更した。彼は、仕事で得意とする「要求の複合マッピング」を使い、美和が提示した4つの条件を重ね合わせた。
数分の検索の後、陽介は歓声を上げた。
「あった!『星屑湖畔キャンプ場』だ! 湖畔で景色が最高! 湖を一周するサイクリングロードがキャンプ場から5分。
しかも、キャンプ場から車で10分のところに、地元の野菜と手作りパンを売る小さな『里の駅』がある!」
咲は、すぐにスマホでそのキャンプ場を検索し、湖畔の写真を見て「わー!ここなら100点!」と喜びの声を上げた。
翔も、サイクリングロードの情報を確認し、「十分な距離とアップダウンがある。これで練習ができる」と満足そうに頷いた。
陽介は、自分の「理想」を貫くよりも、家族の「願望」を複合的に叶えた時の方が、遥かに大きな喜びを得られることを知った。
キャンプ場選びの衝突は、家族にとって初めての試練だったが、同時に、庭活動を通じて培った「対話と承認の文化」が機能した瞬間でもあった。
陽介は、美和に心から感謝した。
「美和、ありがとう。俺はまた、仕事の癖で『独りよがりの完璧』を追求するところだった。庭活動の哲学は、『独創性』だけじゃなく、『受容性』も必要なんだな」
美和は、陽介の手を握った。
「そうよ。陽介さんが庭で一人で始めた焚き火が、今は私たちみんなの『火』になっている。その『火』を囲むには、みんなの居心地の良さが一番大切なの」
こうして、家族キャンプの目的地は、家族全員の「願望」がマッピングされた、最高の「折衷案」として決定した。
その夜、陽介は、庭の椅子に座り、夜空を見上げた。彼の心は、高橋上司の「効率」とは無縁の、「家族の幸福」という新しい羅針盤によって導かれていた。
キャンプという「非日常」への一歩を踏み出すことで、陽介の「庭の哲学」は、さらなる進化を遂げたのだった。
(このキャンプは、俺の庭活動の集大成じゃない。これは、家族のチームワークを、現実のフィールドで試す、最高の訓練なんだ)




