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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第4章「一緒にするということ」

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46/85

42歳、家族とおでんを囲む

 季節は確実に移ろっていた。

 庭の芝生は、夏の深い緑から、少し茶色がかった落ち着いた色へと変化していた。芝生は、病気にかかり、家族総出で修復したことで、陽介にとっては単なる「庭の地面」ではなく、「手入れが必要な、家族の共同財産」という認識に変わっていた。

 その回復途中の姿は、夏の猛暑を乗り越えた達成感と、次の季節への期待を陽介に感じさせていた。


 週末の夕方。気温は急激に下がり、半袖では肌寒く感じるほどだった。

 陽介は、庭の椅子に座り、秋の風に吹かれながら、美和のために作った読書空間を眺めていた。美和はもう読書を終え、椅子をリビングに仕舞っていたが、タープのポールが残された一角は、静かで穏やかな「安らぎの余韻」を漂わせていた。


(美和が心から安らいでくれた。翔は道具を共有し、咲は空間を美しくしてくれた。俺の趣味が、家族の幸福のための具体的な行動になった)


 陽介は、この庭活動を通じて得た最大の成果は、高性能な道具でも、キャンプ技術でもなく、「家族との揺るぎない一体感」だと確信していた。

 仕事の効率やノルマに追われていた頃の孤独感は、今や完全に消え去っていた。


 しかし、この肌寒さが、陽介に次の「温かい目標」を設定させた。


(焚き火の炎もいいが、この寒さには、もっと内側から温まる、日本の究極の家庭料理が必要だ)


 陽介が思いついたのは、「おでん」だった。

 おでんは、特別な技術を必要としない。しかし、時間をかけて出汁を煮込み、具材一つ一つにその味を染み込ませるには、手間と、何よりも「待つ時間」が必要だ。

 そして、温かい湯気と、家族が土鍋を囲む団欒の情景は、日本の家庭の「温かさ」そのものを象徴している。


 陽介は、この「おでん」という最も日常的な家庭料理を、あえて庭の「非日常空間」で再現することで、「日常を豊かにするツール」としての庭活動の真価を証明したいと考えた。


「庭で、おでん?」


 美和は、陽介の提案に少し驚いた表情を浮かべた。「パスタも斬新だったけど、おでんって、家の中でコタツで食べるイメージがあるわ」

「そうなんだ。でも、それがいいんだよ、美和」陽介は熱意をもって語った。「外のひんやりした空気の中で、ランタンの温かい光を浴びながら、土鍋の湯気を浴びる。家で食べるのとは違う、五感が刺激される『究極の贅沢』になると思うんだ」


 美和は、陽介の目に、また新しい「獲物」を見つけた時のような、少年のような輝きが宿っているのを見て、ふっと笑った。


「わかったわ。じゃあ、仕込みは私に任せて。でも、庭で出汁を煮込むのは、陽介さんの仕事よ」


 美和のこの言葉は、陽介の趣味が、今や家族の中で「役割」として確立されていることを示していた。

 陽介は、自分の役割が明確になっていることに、会社での仕事とは違う、心地よい責任感を感じた。


「もちろんだ!最高に美味い出汁を、ゆっくりと煮込んでやる」


 陽介は、すぐに自宅の納戸から七輪を取り出し、準備を始めた。彼の心は、この挑戦が成功すれば、家族の絆はさらに強固なものになるという確信で満たされていた。



---



 おでんの仕込みは、自然と「家族の共同作業」となった。


「おでんは、大根と卵が命よ。陽介さん、出汁を煮込むのに夢中にならないで、大根の下茹では私がやるから、見ててね」


 美和は、大根を面取りし、隠し包丁を入れて、米の研ぎ汁で40分ほど丁寧に下茹でした。練り物や他の具材も、丁寧に油抜きをした。


「煮崩れしないように、一つ一つが均一に味を吸うように。これは、煮込む時間と同じくらい大事なの」


 美和は、その手際と正確さにおいて、まさに熟練の職人だった。陽介は、その細やかな「家庭の技術」に、ただ感心するばかりだった。


 陽介は、庭のテーブルの横に七輪を設置し、その上に土鍋を乗せた。七輪を選んだのは、ガスバーナーのような高火力ではなく、炭火の「遠赤外線効果」で、出汁をゆっくり、優しく、長時間煮込みたかったからだ。


「おでんの勝負は、火力じゃない。時間だ」


 陽介は、着火剤を使わず、ゆっくりと炭に火を移す。このプロセスこそが、陽介が庭で最も愛する時間の一つだった。彼の心は、高橋上司の言う「効率」とは真逆の、「無駄な時間」の贅沢に満たされていた。


 土鍋に出汁と具材を入れ、七輪に乗せる。湯気が上がり始めると、庭全体に、鰹と昆布、そして具材から染み出す深いうま味の香りが漂い始めた。


「よし、ここからは、ひたすら待つ時間だ」


 おでんは、すぐに食べられる料理ではない。美和の丁寧な仕込みと、陽介の七輪による「熱の調整」を経て、具材が出汁を吸い込み、美味しくなるまでには、少なくとも2時間は必要だ。

 この「待ち時間」こそが、陽介が家族に共有したかった最大の「贅沢」だった。


 日が完全に沈み、ランタンの柔らかな光が庭を照らす頃。家族は、自然と土鍋の周りに集まってきた。

 翔と咲の「待ち時間」の過ごし方は、彼らの個性をよく表していた。

 翔は、自分の自転車の整備を終えた後、陽介が使っていた焚き火台のそばに座った。その小さな焚き火台には、七輪から少しだけ分けられた熾火が入れられていた。


「お父さん、これ使っていいか?」


 翔は、陽介に断りを入れると、美和が用意してくれたマシュマロを、細い枝に刺して火にかざし始めた。翔は、火力を直接使うのではなく、熾火の「輻射熱」を計算するように、ゆっくりと枝を回す。


 咲は、美和の「読書空間」の横にある、ハーブ棚のそばに座り、スマホを取り出した。彼女が撮っていたのは、焚き火台の赤い光と、その光に照らされて揺れる、ハーブの影だった。


「お父さん。この湯気と光、インスタ映えする写真が撮れそうだよ」


 咲は、おでんの「匂い」や「味」だけでなく、その周りの「情景」や「雰囲気」を捉えようとしていた。

 彼女にとって、庭活動は、感性を磨くための「芸術的なインスピレーションの場」だった。


 美和は、リビングからホットティーを持ってきて、陽介と翔、咲に配った。


「みんな、土鍋から離れて座って。おでんは逃げないわよ」


 美和はそう言いながら、自分も庭の椅子に座り、土鍋から立ち上る湯気を眺めていた。


 会話は少ない。

 翔がマシュマロを焼く「じゅわ」という小さな音。土鍋の底で出汁が「コトコト」と煮える音。遠くで車の走る音と、虫の鳴き声。


 この静寂の共有こそが、陽介が追い求めていた「時間の余白」であり、家族の心が最も深く結びつく時間だった。


 陽介は、この「待ち時間」の価値が、完成したおでんの味にも匹敵するほどの「幸福」であることを、心から確信した。



---



 2時間半が経過し、おでんの具材は、濃い琥珀色の出汁をたっぷりと吸い込んでいた。土鍋の蓋を開けると、一気に立ち上る湯気と、芳醇な出汁の香りが、肌寒い庭の空気を温かく包み込んだ。


 陽介は、ランタンを土鍋の近くに寄せ、その光がおでんの湯気を劇的に際立たせるように調整した。

 ランタンの温かい光の下、湯気は家族の顔を優しく照らし、その光景は、まるで一枚の絵画のようだった。


「よし、できたぞ。さあ、みんな、熱いから気をつけて」


 家族全員が、庭のテーブルを囲んだ。テーブルの上には、美和が用意した薬味(辛子、柚子胡椒)が並び、小さな取り皿が置かれていた。


「わあ、すごい湯気。外で食べるのに、こんなに温かいなんて」


 咲が目を輝かせる。

 陽介は、まずは大根を一つ、自分の皿に取り分けた。


「大根からいくぞ。美和が丁寧に下茹でした、究極の大根だ」


 大根を一口食べた瞬間、陽介の全身に温かさが染み渡った。七輪の遠赤外線で2時間以上じっくりと煮込まれた大根は、芯まで出汁の味が染み込み、噛む必要がないほど柔らかかった。


「……美味い!」


 陽介は、心の中で叫んだ。

 これは、店で食べるおでんとも、家で食べるおでんとも違った。外の冷たい空気と、湯気の温かさのコントラストが、味覚を極限まで研ぎ澄まさせている。

 美和も、卵を食べて目を閉じた。


「すごい。本当に美味しい。出汁の味が、いつもより3割増しで濃く感じるわね。外で食べるって、こんなに五感が刺激されるのね」


 美和が言った通り、庭という「非日常」が、おでんという「日常の料理」を、「最高の贅沢」へと昇華させていた。

 陽介は、家族が土鍋を囲み、湯気に包まれながら笑っている光景を見て、目頭が熱くなるのを感じた。


(この「湯気」こそが、家族の絆の温かさの象徴だ。高橋上司が追い求める「効率」や「数字」では測れない、俺がこの庭で得た、最高の成果だ)


 おでんを食べる団欒は、いつもより長く続いた。会話も途切れなかった。


「このちくわぶ、出汁を吸いきってて、最高だね」翔が言う。

「お父さん、今度、この出汁を使って、お茶漬け作ってもいい?」咲が尋ねる。

「陽介さん、この土鍋、冬も使えるわね。今度はお鍋に挑戦してみる?」美和が提案する。


 陽介の庭は、もはや彼の「秘密基地」ではない。

 それは、家族の会話と、温かい愛情が、湯気のように立ち上っては、再び家族を包み込む、「団欒の中心地」となっていた。



---



 家族の団欒が続く中、翔が突然、真剣な表情で陽介に尋ねた。


「お父さん、このおでんの出汁、部活の遠征にも持っていきたいな」


 陽介は、冗談かと思って笑い飛ばそうとしたが、翔の目は真剣だった。


「え?遠征に?どういうことだ?」

「今度、遠征で3日間の合宿があるだろ。補給食は持って行くけど、夜、疲れて宿に戻った時、温かいものが飲みたいんだ。このおでんの出汁なら、栄養もあるし、体の芯から温まる」


 翔の提案は、単なる思いつきではなかった。

 彼の頭の中では、陽介の趣味である「庭活動」と、自分の趣味である「自転車競技」が、完全に「実用的な価値」で融合していたのだ。


 陽介は感心した。翔にとって、庭活動は、もはや「手伝い」や「遊び」ではない。それは、自分の競技人生をサポートするための「戦略的なツール」となっていた。

 翔は、父の持つ道具や知識を、自分の生活に完全に組み込んだのだ。


「なるほど。保冷ボトルに入れて、温かいまま持っていくのか。いや、むしろ、現地で簡単なコンロを使って温め直す方がいいかもしれないな」


 陽介は、真剣にその方法を考え始めた。

 これは、翔が陽介の趣味に「完全参加」したことを示す、最高の宣言だった。


「出汁だけじゃなくて、大根を小さく刻んだり、鶏肉のつみれを入れたりしたら、消化も良くて最高だよ」


 翔は、すでに遠征での「庭おでん出汁」の活用法を具体的にイメージしていた。

 その会話を聞いていた美和が、静かに土鍋を眺めながら、陽介に提案した。


「陽介さん。こうやって、みんなで熱々の土鍋を囲んでるのを見ると、思い出すわ」

「何をだ?」

「陽介さんが、初めて焚き火を庭でやった日。あの時、陽介さんが『いつか、この庭で家族でキャンプをしたい』って言ったでしょ?」


 陽介は、あの時の、仕事に疲弊し、孤独だった自分を思い出した。

 あの誓いは、まだ実現できていなかった、彼にとって最も大きな目標だった。


 美和は、土鍋の湯気越しに、陽介の目を見て、優しく微笑んだ。


「今度、翔の遠征が終わった後でいいわ。このおでんの土鍋を持って、本当に家族でキャンプに行こうか」


 美和の言葉は、陽介の胸を強く打った。

 それは、陽介が最初に抱いた「家族との非日常の共有」という夢が、美和からの「明確な承認と提案」という形で、現実のものになろうとしている瞬間だった。


(美和が、自ら提案してくれた……。これは、俺の趣味が家族全員の『共通の楽しみ』になった証拠だ)


 陽介は、言葉に詰まりながら、美和に答えた。


「あ…ああ、行こう!翔の自転車の練習場所に近いキャンプ場を探すよ。そこで、このおでんの出汁を、もう一度作ってやる」


 翔も、目を輝かせて賛成した。


「絶対行こうぜ、お父さん!タープ設営は任せてくれ!」


「キャンプ飯のデコレーションは、私が担当するね」


 咲も手を挙げた。


 美和の提案は、単なる「家族旅行」の計画ではない。

 それは、陽介がこの庭で積み重ねてきた、すべての努力と愛情に対する、家族からの「最大のギフト」だった。


 陽介の孤独は、もう存在しない。彼の周りには、彼の趣味を理解し、共有し、さらに発展させようとする、温かい家族の輪ができていた。



---



 夜が深まり、おでんの土鍋が空になる頃。家族は、心地よい満腹感と、温かい団欒の余韻に包まれていた。

 陽介は、土鍋に残った出汁を眺めながら、この庭活動の旅路を振り返っていた。


(最初は、仕事のストレスからの「逃避」で始めた、俺一人の趣味だった。焚き火台と七輪、ランタンという「非日常の道具」を使って、自分の心のバランスを取るための行為だった)


 しかし、その「非日常」の要素を、陽介は一つ一つ、「日常を豊かにするツール」へと昇華させてきた。

  テントの撤収、ハーブ棚のDIYを通じて、翔との間に「共同作業の連帯感」が生まれた。翔は道具を「実用的な価値」として認識し、自分の趣味に組み込んだ。

 ペペロンチーノの音と香り、星空の静寂を通じて、家族全員が五感を共有する「最高の贅沢」を知った。

 咲は、料理の「演出」や、空間の「デコレーション」を通じて、庭を「感性の表現の場」とした。

 美和のための読書空間の創造は、陽介の趣味が「自己満足」から「家族への奉仕」へと昇華したことを示し、その結果、美和からの「完全な承認」と「家族キャンプの提案」という形で、愛情が陽介に戻ってきた。

 そして、今夜の「庭おでん」。


 この家庭料理の王様を、庭という特別な空間で囲むことができたのは、陽介の孤独が完全に消え去り、家族の絆が「揺るぎないものとして定着」したことの、何よりの証明だった。


 陽介の脳裏に、高橋上司の顔がよぎった。高橋は、常に陽介に「効率」と「成果」を求めた。

 しかし、この庭で得られた「幸福」は、どんな数字や成績表にも書き表すことのできない、陽介にとって最も重要な人生の成果だった。


 陽介は、庭の芝生を見つめた。

 芝生は、病気を克服し、美和や翔、咲の手によって手入れされ、今、ランタンの光の下で静かに息づいていた。この庭全体が、彼らの「幸福を育む空間」として、完全に定着したのだ。


(俺の趣味は、もう「趣味」じゃない。これは、佐藤家の「生活基盤」だ)


 陽介は、心の底から満たされた気持ちで、深く息を吸い込んだ。冷たい夜の空気と、おでんの出汁の香りが混ざり合い、彼の胸に染み渡る。


 陽介は、土鍋を片付ける美和の手伝いをしようと立ち上がった。彼の足取りは軽く、顔には疲れではなく、明日への期待が満ちていた。


「美和。来週から、家族キャンプの計画を立てよう」陽介は言った。「翔の自転車の練習も兼ねて、最高のキャンプ場を探すよ」


 美和は、土鍋を運びながら、陽介に微笑んだ。


「そうね。楽しみにしているわ、陽介さん」


 その夜、陽介は、自分の人生が、「効率」の呪縛から解き放たれ、「温かい愛情」という、新しい基準で満たされていることを、確信したのだった。

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― 新着の感想 ―
42歳という年齢で経験する現実と、庭というもうひとつの陽介の世界がとても綺麗に描かれていて見事でした。きっと陽介は、世間から見たら良い生活の層にいる人に見えるんでしょうね。
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