42歳、芝生を手入れする
庭の芝生に、異変が起きたのは、高橋上司の視線にも動じなくなった、あの週末の朝のことだった。
夏の名残りの湿気と、秋の肌寒い夜の温度差が交錯する季節。陽介は、朝早くに庭に出て、新しいハーブ棚を眺めながら、淹れたてのコーヒーを飲んでいた。
いつものように、目に鮮やかな緑の絨毯が、陽介の心を和ませてくれるはずだった。
しかし、陽介の視線は、芝生の一角で立ち止まった。
(あれは……なんだ?)
芝生の一部が、まるで火傷を負ったかのように、直径30センチほどの円形に黄色く、そして茶色く枯れ始めていたのだ。その枯れた部分の周囲は、まだ緑が残っているものの、明らかに弱々しい。
最初は、ただの水切れかと思ったが、触ってみると土は適度に湿っている。
陽介は、コーヒーのマグカップをテーブルに置き、しゃがみ込んでその枯れた部分を凝視した。
それは、彼にとって、単なる庭の景色の変化ではなかった。
芝生は、この庭という「もう一つの世界」の基盤であり、彼の癒やしの「聖域」そのものだった。焚き火台も、テントも、ハーブ棚も、すべてはこの緑のキャンバスの上に展開されてきたのだ。
その基盤が、音もなく崩壊し始めている。
「まさか……病気か?」
陽介の胸に、久しく感じていなかった種類の焦りが広がった。
それは、高橋上司に叱責されたり、仕事でミスを犯したりした時の「失敗への焦り」とは全く違っていた。仕事の失敗は、対処と改善によってリカバリーできる。
だが、これは生き物なのだ。手塩にかけて育ててきた「緑の命」の危機だった。
彼は、その枯れた部分を指でそっと撫でた。芝生の葉は力なく折れ、指先にはカビのような微かな匂いが残った。
「くそ……どうすればいいんだ」
陽介は、仕事でトラブルが起きたときのように、まず情報収集を開始した。
スマートフォンを手に取り、「芝生 円形 枯れる 秋」といったキーワードで検索をかける。すぐに、それは「ブラウンパッチ(Brown Patch)」と呼ばれる、夏の高温多湿と秋の急な冷え込みで発生しやすい芝生の代表的な病気だと判明した。
「病原菌……カビの一種か」
記事には、初期段階であれば市販の殺菌剤で対処可能だが、進行すると芝生の根まで蝕み、部分的な張り替えが必要になることもあると書かれていた。
陽介は、病気が自分の庭で発生したという事実に、大きな責任を感じた。
(こんなになるまで、気づかなかったのか。週末、道具の手入ればかりしていて、肝心の足元の変化を見逃していた。俺は、仕事で『木を見て森を見ず』だと叱られるのに、庭でも同じ過ちを犯していた)
陽介は、自分の「聖域」が危機に瀕していること、そしてそれを自分の「注意力の欠如」が招いたことに、仕事の失敗とは異なる、深い自己嫌悪を感じた。
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陽介は、午前中をかけて、病気の原因と対処法を徹底的に調べた。殺菌剤の散布、水はけを良くするための目砂の投入、そして病気になった部分の芝生を丁寧に除去する作業が必要だと分かった。
それは、焚き火や燻製作りのように「楽しい非日常」ではなく、完全に「大掛かりな農作業」だった。
芝生用の薬剤は、ホームセンターでも手に入るが、目土を均一に撒き、エアレーションを行うには、専門の道具と、かなりの労力が必要になる。
(これは、週末の俺一人では無理だ。病気の原因を完全に断たないと、また来年再発する)
陽介は、この問題を「隠しておくべき個人的な失敗」ではなく、家族が共有する空間の「危機」として捉えるべきだと判断した。
その日の夕食時。陽介は、リビングのテーブルで、家族全員に芝生の問題を共有した。
「みんなに話しておかないといけないことがある」
陽介は、少し重い口調で、芝生の一角が病気にかかり、枯れ始めていることを伝えた。
美和は、陽介の深刻な表情を見て、すぐに心配そうな顔になった。
「え、病気?殺菌剤とか撒けば大丈夫なの?せっかくきれいにしてきたのに……」
美和の心配は、陽介の趣味を「遠くから見守る」フェーズから、「共に空間を共有し、維持していく」フェーズへと移行したことを示していた。
一方、咲は、予想通り、その「見た目の問題」について批判的だった。
「えー、あそこだけ黄色いのは、超ダサいじゃん。せっかくハーブ棚で可愛くなったのに、芝生が枯れたらインスタにあげられないよ」
咲は、庭の「美的完成度」を重視しており、その崩壊を許せなかった。
しかし、その批判の裏には、庭に対する強い愛着と、それを守りたいという気持ちがあることは、陽介にも理解できた。
「大丈夫だ。ちゃんと治せる。ただ、薬を撒くだけじゃなくて、土壌の環境そのものを変えないといけないんだ。水はけを良くするための穴あけとか、目土の入れ替えとか、ちょっと大掛かりな作業になる」
陽介は、作業の概要を説明しながら、ちらりと翔の様子を窺った。翔は、自分のスマホを見ているかのように見えたが、その視線は陽介の言葉に集中しているようだった。
「週末、ちょっと大変だけど、家族みんなで手伝ってくれないか?」
陽介は、家族に「強制」するのではなく、「協力を要請」した。彼らの自発的な関与こそが、この空間を真の「家族の庭」にするための鍵だと知っていたからだ。
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陽介が協力を要請した直後、翔がスマートフォンをテーブルに置き、芝生の話に戻ってきた。
「お父さん。枯れてる場所って、庭の角の、家の雨どいに近いところだろ?」
陽介は驚いて目を見開いた。
「え、どうして分かったんだ?」
「朝、ちらっと見た。あの場所、日当たりがあまり良くない上に、雨が降った後、いつも水たまりが残りやすいだろ。芝生の病気って、ほとんどが水はけの悪さが原因だよ」
翔は、陽介の焦りをよそに、冷静な原因分析を提案した。
「水はけの悪さ?どうしてそんなこと知ってるの?」美和が尋ねた。
「部活のグラウンドもそうなんだ。雨が降った後、水が溜まりやすい場所は、いつも芝が弱るか、泥濘になる。顧問がいつも『エアレーションと排水対策を徹底しろ』って言ってるから」
翔は、自身の「自転車競技部での経験」、つまりはグラウンドという「実用的な土壌」の知識を、父の趣味の危機に役立てたのだ。グラウンドの維持管理という、地味だが実用的な知識が、ここで陽介の庭に生かされることになった。
「芝生用の薬剤も大事だけど、それだけじゃ根本解決にならない。水はけが悪いと、またカビが生える。お父さんが言ってた、穴あけは、多分、根本的な治療だよ」
翔の言葉は、陽介がネットで調べた専門家の見解と完全に一致していた。陽介は、息子が、自分の趣味や経験を通じて、これほど「実用的な問題解決能力」を身につけていたことに、心から感動した。
「翔……ありがとう。その通りだ」
陽介は、自分の焦りが晴れていくのを感じた。
仕事では、常に自分がすべてを分析し、解決策を提示しなければならなかった。しかし、この庭では、息子が自らの経験を基にした具体的な「戦術」を提供してくれたのだ。
翌朝、陽介がホームセンターへ芝生用の薬剤と目土を買いに行こうとしていると、翔が声をかけてきた。
「お父さん、それだけじゃなくて、シャベルも買っとけよ。土に穴開けるやつ。俺、部活の帰りに借りてきた」
翔が持っていたのは、部活で使う、柄が短く刃先が尖った「移植ゴテ」と、さらに大きな「ガーデンフォーク」だった。彼は、すでに自分で行動を開始していたのだ。
「シャベル?なんでそんなもの持って……」
「これ、エアレーションに使えるだろ?フォークを地面に刺して、土を掘り起こせば水はけが良くなる。俺、先に枯れた部分を囲って、水路のイメージを考えておくから」
翔の自発的な協力と、具体的な行動力。それは、陽介にとって、最高のサプライズだった。陽介は、翔の「実用的な問題解決能力」と、父の「聖域」を守ろうとする強い意志を心から頼もしく思った。
彼は、翔との間に、以前にはなかった「共同で問題を乗り越える信頼関係」が芽生えたことを確信した。
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週末。芝生の修復作業は、まさに「家族の総力戦」となった。
陽介は、ホームセンターで買ってきた芝生用の殺菌剤を、枯れた部分と、その周囲に念入りに散布した。
そして、肉体労働は、翔のリードで始まった。
陽介と翔は、ガーデンフォークを使い、枯れた部分の周囲を中心に、芝生に穴を開けていく。フォークを10cm間隔で深く刺し、土壌に空気の通り道を作るのだ。
「お父さん、深く刺す方がいい。根っこに酸素が届かないと、また病気が広がる」翔は、まるで専門家のように指示を出す。
陽介は、言われた通り、体重をかけてフォークを芝生に深く突き刺す。
その作業は、想像以上に重労働だった。汗が噴き出し、背中に鈍い痛みが走る。しかし、翔が黙々と、テキパキと作業をこなしているのを見て、陽介も弱音を吐くことはできなかった。
「翔、お前、本当に部活でこんなことやってるのか?」
「ああ。グラウンド整備は、トレーニングの一環だ。力もつくし、土の特性も分かる。これ、自転車のフレーム整備と同じくらい大事なんだ」
翔は、陽介の趣味の危機に、自分の「得意分野」と「体力」を完全に持ち込んだ。父子の間には、言葉のいらない、「ものづくりの連帯感」とはまた違う、「共同で危機に立ち向かう同志の連帯感」が生まれていた。
一方、美和と咲も、それぞれの役割を果たしていた。
美和は、手袋をはめ、小さな移植ゴテを使い、枯れてしまった芝生と、その根を丁寧に掘り起こし、除去する作業を担当した。
「病気になったところをしっかり取り除かないと、また広がるのよね。まるで、病巣を取り除く手術みたい」
美和は、几帳面に、そして愛情を持って、芝生を扱っていた。彼女の指先は、陽介や翔の力強い動きとは対照的に、繊細で丁寧だった。
咲は、美和の隣で、枯れた芝生を取り除いた部分に、陽介が買ってきた目土を、ふるいにかけながら均一に撒いていく作業を担当した。
「美しく整えるのは、私の仕事」
咲は、枯れた部分の芝生が無くなって、土が露出した様子を「見栄えが悪い」と批判したが、その「美しさへのこだわり」が、今、庭の修復作業で完璧に生かされていた。
彼女は、目土を撒いた後、水で優しく馴染ませ、再び緑の芝生が育つための「土台」を整えた。
陽介の趣味の危機は、図らずも「家族の総力戦」となり、家族全員が庭という空間に対して、「共同の責任」を持つようになった。
それは、陽介一人が持つ「聖域」ではなく、「家族全員の共有財産」へと、庭の存在意義が決定的に変化した瞬間だった。
昼食は、美和が作ってくれた庭での即席のおにぎりだった。陽介と翔は、汗だくになりながら、芝生の修復作業の進捗を確認しあった。
「よし。これで水はけはかなり良くなったはずだ。あとは、新しい芝生が生えてくるのを待つだけだな」
「うん。でも、しばらくは日々の水やりと、芝生の状態チェックは続けないとダメだぞ」
翔は、まだ気を抜いていない。
陽介は、その翔のプロ意識のような真剣さに、深く頷いた。
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修復作業を終えた週末の夕方。
家族全員が、庭の椅子に座り、作業の疲れを癒やしていた。芝生には、殺菌剤の匂いと、目土の茶色い色が混じり合っているが、土壌に穴が開けられたことで、以前よりも呼吸しているかのような、解放された土の匂いが漂っていた。
陽介は、この危機を経て、決定的な変化を迎えていた。
(芝生は、単なるキャンプ道具を置く「背景」ではなかった。芝生は、焚き火台やランタンのような「道具」ではない。それは、手入れを怠ればすぐに弱り、病気にかかる「生き物」だった)
彼は、これまで芝生を、自分の趣味を成立させるための「静的な舞台装置」として捉えていた。
しかし、今回の病気と、それを家族全員で修復した経験を通じ、庭全体が、「手入れが必要な、生命力に満ちた生き物」として認識されたのだ。
「お父さん、芝生、ちゃんと元に戻るかな?」咲が心配そうに尋ねた。
「ああ、大丈夫だ。翔の分析と、みんなの丁寧な作業のおかげで、必ず元気になる」
美和が、陽介の肩を優しく叩いた。
「でも、今回のことで分かったわ。佐藤さんの趣味は、ただの遊びじゃないのね。生き物の世話も、家族の協力も必要。私たちも、この庭を一緒に育てているんだって、改めて感じたわ」
美和の言葉は、この庭への「共同所有の意識」を明確に示していた。
そして、翔は、自分の貢献に満足しているようだった。
「俺、明日、部活の帰りに芝生用の肥料を買ってこようかな。病気が治ったら、今度は元気になるように、栄養をあげないと」
翔の提案は、彼が完全に庭の「維持管理メンバー」として自己を確立したことを示していた。
陽介は、この「生き物」の世話を通じて、家族全員がより深い絆を感じることを確信した。
庭は、もはや陽介の個人的な「趣味空間」ではなく、家族全員が愛情と責任を持って関わる「共同の生命体」となった。陽介の孤独は、この「総力戦」の汗と土の匂いの中で、完全に溶け去った。
彼は、枯れた芝生の円形跡を眺めながら、新しい季節の到来を待つ芝生の生命力に、静かな希望を感じていた。




