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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第4章「一緒にするということ」

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43/85

42歳、上司からの叱責

 月曜日の朝。

 佐藤陽介は、以前とは全く違う足取りで、会社の自動ドアをくぐった。


 以前の月曜日は、鉛のように重かった。週末の解放感は、日曜の夜にはすべて吸い取られ、翌日から始まる一週間の重圧に押し潰されていた。会社という場所は、彼にとって常に「戦場」であり、特に彼の直属の上司である高橋の存在は、常に彼の背中に突き刺さる鋭い視線であった。


 しかし、今日の陽介は違った。彼の心の中には、まだ週末の庭の光景が、鮮明に残っていた。


(あのハーブ棚、翔の言う通り45cm間隔で支柱を立てて正解だったな。咲が飾った百均のランタン、夜見ると意外と雰囲気があるんだよな……)


 彼の内側に広がる庭という「もう一つの世界」は、彼の心を覆う強固な鎧となっていた。


 オフィスに入ると、すでに高橋のデスクには明かりがついていた。高橋は、常に始業時間の一時間前には出社し、すべての部下にその「効率」と「勤勉さ」を無言で要求する人物だった。

 高橋のデスクの上には、彼女の仕事の信条を体現するように、一切の私物はなく、整然と並べられた書類と、二台のモニターだけがあった。存在自体が、「無駄を許さない」という会社の価値観を体現していた。


 高橋は陽介に気づくと、一瞬だけ鋭い視線を向け、すぐにモニターに戻った。

 その視線は、以前の陽介を萎縮させるには十分なものだったが、今の陽介はそれを受け流すことができた。


 午前10時。週次定例会議が始まった。

 陽介のチームは、先週も目標を大きく上回る好成績を収めていた。本来なら、高橋から労いの言葉があってもいいはずだった。


「佐藤」


 高橋の声は、いつものように冷たく、感情の起伏がない。


「先週の結果だが、目標達成率120%。悪くない。だが、目標はあくまで通過点だ。今期の四半期目標の達成確度は80%に留まっている」


 陽介は、手元の資料を確認しながら、冷静に答えた。


「はい。残り20%については、A社とB社の新規案件が来週中にクロージングする見込みです。特にA社については、競合他社との比較を徹底的に行い、当社の優位性を明確に提示しました」


「『見込み』では意味がない。数字は100%でなければならない」高橋は、陽介の報告を遮り、さらに畳み掛ける。「報告書を見たが、A社向けの提案資料、20ページもある。多すぎる。A社の上層部は忙しい。無駄を削れ。なぜ10ページで結論が出せない?」


 陽介の成績は、高橋のチーム全体を支えていたにもかかわらず、高橋は陽介の努力や成果を褒めるのではなく、常には「無駄」を探し出し、さらなる「効率」を要求した。

 高橋にとって、陽介の「好成績」さえも、「さらなる成長のための資源」に過ぎず、陽介の努力によって生まれる「心の余白」や「達成感」は、認めるべきものではなかった。むしろ、その余白こそが、彼女にとっては「サボりの兆候」に見えたのだろう。


「佐藤、お前の最近の報告書は、以前より丁寧すぎる。週末も、何か新しい趣味に現を抜かしていると聞くが、時間の使い方を見直せ。

 非効率な行動は、いずれ必ず仕事の質を落とす。今期は、四半期目標だけでなく、その上の目標を目指す。いいな」


 高橋の視線は、陽介の「心の余白」を完全に認めない。その言葉は、陽介の「庭活動」という個人的な幸福の源を、「無駄」として切り捨て、陽介を再び「仕事の奴隷」の檻に戻そうとしていた。

 以前の陽介なら、このプレッシャーで体が硬直し、胃が締め付けられるような感覚に襲われただろう。彼の心は、高橋の言葉一つで簡単に破壊された。


 しかし、今の陽介は、高橋の言葉をまるで、遠くから聞こえるノイズのように聞いていた。

 彼の心の中心には、土と木の香りが満ちた、温かい庭の光景があったからだ。



---



「承知しました、高橋部長」


 陽介は、声を荒げることなく、冷静に答えた。彼の声は穏やかで、一瞬の動揺も見受けられない。


(提案資料が20ページなのは、A社の担当者が若手で、上層部への説明を補助するために、論理構造を丁寧に20ページにわたって組んだからだ。

 それによって、クロージングの確度が上がった。それを10ページに削れば、確かに『効率』は上がるかもしれないが、『確度』は落ちる。高橋部長の『効率』の定義は、『短期的なアウトプット』でしかない)


 陽介は、心の中で高橋の論理を分析した。

 以前なら、高橋に反論することさえできず、ただプレッシャーに耐えるだけだったが、今は違う。彼は、高橋の「効率」と、自分の追求する「幸福と質の融合」との間に、明確な線を引くことができていた。


 高橋の叱責に対し、以前のような動揺の兆候を見せない陽介を見て、高橋の表情が一瞬だけ硬直した。

 高橋は、部下が叱責された際に示すべき「萎縮」や「反省の色」を期待していたが、陽介の目には、それらが全く見えなかったからだ。陽介の目は、ただ冷静に、事実を処理するプロの目つきをしていた。


 陽介は、高橋の視線が離れた瞬間、頭の中で、週末の穏やかな光景を思い浮かべた。


 芝生の上に寝転び、空を見上げた時の、頬に触れる芝の微かな冷たさと、土の匂い。


 翔と二人で汗を流し、完成させた棚の、塗りたての木の質感。そして、その棚に咲が嬉しそうにハーブを並べる様子。


 これらの記憶は、陽介の精神的な防御壁、あるいは「心の余白」の源泉となった。高橋の放つ「仕事の重圧」という名の矢は、この厚い壁に突き刺さることはできず、ただ表面を滑るだけだった。


(高橋部長が持つ「効率」という価値観は、自分の人生を測る唯一の尺度ではない。自分の「幸福度」は、仕事の成果ではなく、家族との共同作業や、庭の緑、そして夜空の星といった、『非効率』な活動によって支えられている。仕事の成果は、あくまで家族を養うための『手段』であり、自分の『幸福』を規定する『目的』ではない)


 この価値観の転換こそが、陽介が手に入れた最大の「戦略的なリフレッシュ」だった。

 仕事のストレスは、以前のように彼の自己肯定感を破壊するのではなく、単なる「乗り越えるべき課題」の一つへと格下げされていた。


 会議が終わると、陽介は自分のデスクに戻り、冷静に高橋の指示を処理し始めた。無駄を削るのではなく、『真の効率』とは何かを考え、提案資料の要点をさらに洗練させる作業に着手した。

 彼は、庭で道具の手入れをする時と同じように、集中力を発揮した。庭活動で培われた「目の前の作業に没頭する力」が、仕事の質の向上に直結していた。



---



 昼休み、陽介は佐々木を誘って、会社の裏の小さな公園へ出た。

 佐々木は、陽介の庭活動に最も興味を示し、実際に庭飯に参加した唯一の同僚である。


「お疲れ様です、佐藤さん。それにしても、今日の会議室での佐藤さん、貫禄がありましたね」


 佐々木は、缶コーヒーを飲みながら、率直に言った。


「貫禄?まさか。高橋部長に、また『無駄を削れ』って言われただけだろ」陽介は苦笑した。

「いや、それが違うんですよ。部長のあのプレッシャー、普通は背筋が凍るのに、佐藤さんは、まったく動じてなかった。まるで、『あ、この人はまた言ってるな』って感じで、高橋部長の方が、佐藤さんのその余裕に戸惑っているように見えましたよ」


 佐々木は、陽介の「変化」を、外部の視点から明確に指摘した。

 以前の陽介は、高橋の叱責の後、必ず顔色が優れず、手が震えていることもあった。しかし、今はそんな影も形もない。


「気のせいだよ」


 陽介は謙遜したが、心の中では佐々木の観察眼に感心していた。

 佐々木は、話題を変えて、屈託のない笑顔を見せた。


「ところで、佐藤さん。週末作ったというハーブ棚、是非見せてもらってもいいですか?写真じゃなくて、実物が見たいんですよ!」


 佐々木は、陽介のSNSで流れてくる庭の写真をチェックしており、特に翔との共同作業で完成したハーブ棚の構造と、咲による美しいデコレーションに興味を持っていた。


「ああ、もちろん。いつでも来いよ。今度は燻製じゃなくて、庭で淹れるコーヒーでも振る舞うよ。翔も、お前と話すのは楽しいみたいだぞ」


 陽介は、快く承諾した。

 佐々木という外部の人間が、陽介の個人的な世界である庭を訪れ、その成果を評価してくれることは、陽介の「社会性」と「自己肯定感」をさらに高めた。

 庭は、もはや家族の閉じた空間ではなく、「社会との繋がりを育む場所」として機能し始めていた。


 佐々木は、周囲を警戒するように声を潜めた。


「実は、この間、高橋部長に呼び出されたんですよ」

「え?佐々木が?」

「はい。部長が、私の目をまっすぐ見て、『佐藤は、週末何をしているんだ?』って聞いてきたんですよ」


 陽介は、一瞬息を飲んだ。

 高橋は、陽介の「心の余白」の出所を探り、それを潰そうとしているのだ。


「私が、『ああ、たまに会社の人間とバーベキューでもしてるんじゃないですかね?』って適当にごまかしましたけど、高橋部長は、すごく気にしてましたよ。なんというか、『佐藤のあの余裕は、どこから来ているんだ?』って、部長自身が、陽介さんの『変化』に戸惑っているんですよ」


 佐々木の言葉は、陽介の胸に深く響いた。

 自分の庭活動が、単なる個人的な趣味に留まらず、会社の最高位のプレッシャーに対抗する「静かなる力」となり、さらに上司にまで心理的な影響を与えているという事実に、陽介は驚きと、微かな優越感を覚えた。


「高橋部長は、昔から趣味なんて非効率なものは一切認めない人ですからね。なのに、佐藤さんは成績を上げながら、以前より確実に楽しそうに仕事をしている。部長の『効率至上主義』の論理が、佐藤さんによって崩され始めているんですよ」


 佐々木とのこの「秘密の共有」は、陽介にとって大きな確信となった。

 彼の庭活動は、単なる「逃避」ではなく、仕事のストレスから身を守る「戦略的な基盤」として機能しているのだ。

 佐々木は、陽介の「変化」を理解し、それを応援してくれている数少ない仲間だった。



---



 その日の夕方。

 部長室に一人残された高橋は、自分のデスクで静かにコーヒーを飲んでいた。彼女のデスクの上には、陽介の先週の業務報告書が置かれている。


 高橋は、陽介の報告書を、再び細かくチェックした。成果は確実に出ている。

 むしろ、彼のチームの中では最も安定した成果を出し続けている。しかし、高橋の心には、拭い去れない「違和感」が残っていた。


(おかしい。佐藤は、以前ならこの量の仕事をこなした後、必ず疲弊の色を見せていたはずだ。残業も以前より減っている。何より、あの会議での目の色だ。『動揺がない』。これは、私への反抗ではない。むしろ、私の叱責を、『取るに足らないもの』として処理しているようだ)


 高橋は、陽介の「心の余裕」がどこから来ているのか、理解できなかった。

 彼女にとって、仕事の成功とは、常に「自己犠牲」と「無駄の徹底的な排除」によってのみもたらされるものだった。

 彼女は、自身の人生を、常に効率と目標達成のために捧げてきた。


 高橋の独白は、苦渋に満ちていた。


(私は、若手の頃、上司から『睡眠時間さえ無駄だ』と教えられた。遊びや趣味は、将来の成功を妨げる『最大の非効率』だ。だから、私はゴルフさえやらなかった。すべての時間を、この会社と、目標達成のために使ってきた。その結果、私はこの地位を得た。これが、『成功の唯一の道』だと信じてきた)


 高橋の人生は、「効率」という鉄の鎖で縛られていた。彼女は、私的な時間や感情を切り捨て、すべてを数値化できる仕事のアウトプットに集中することで、自己の価値を証明してきた。

 彼女にとって、陽介の持つ「心の余白」は、彼女の成功哲学そのものに対する「挑戦」に見えたのだ。


 高橋は、ふと窓の外を見た。遠くのビル群の向こうに、夕焼けが広がり始めていた。


(あの余裕は、どこから来る?彼が私的な時間に投資しているという『趣味』とやらは、本当に彼の仕事に悪影響を与えていないのか?いや、むしろ、以前より彼のエッジは鋭くなっている)


 高橋は、陽介の成績が安定し、かつ以前のような疲弊感がないことに、心の底で「戸惑い」と、微かな「羨望」を抱き始めていた。


 彼女は、自分の過去を振り返った。

 結婚生活は、仕事の忙しさから疎遠になり、数年前に破綻した。週末は、誰と会うこともなく、ただ資料の読み込みや、次週の目標設定に費やされる。

 彼女の部屋は、徹底的に効率化された無機質な空間であり、そこに「趣味」や「安らぎ」の空間はなかった。


(私も、何か趣味を持った方がいいのか?)


 一瞬、高橋の脳裏に、陽介の持つ、充実した私生活のイメージが浮かんだ。しかし、すぐにその考えを打ち消した。


(馬鹿げている。趣味など、私にとっては『時間当たりのリターンがゼロの投資』だ。私は、この20年間で築き上げた『効率』の呪縛から逃れられない。

 もし私が今、趣味を始めたら、私のアイデンティティは崩壊する。佐藤のやり方は、所詮、一時的な気まぐれだ。彼は、いつか必ずその『無駄』の代償を払うことになる)


 高橋は、書類に目を戻し、陽介の提案書をさらに削る方法を探し始めた。

 彼女の反論は、陽介の「心の余裕」という目に見えない力に対する、唯一の抵抗手段だった。彼女の「効率」への執着は、もはや「成功の哲学」ではなく、自らを縛りつける「呪縛」へと変貌していた。


 陽介が会社にもたらした「変化」は、高橋の心の硬い壁に、最初の小さな亀裂を入れていた。

 それは、陽介が気づいていない、庭がもたらした「静かなる勝利」の一端だった。



---



 陽介は、終業時刻になると、高橋の視線を気にすることなく、淡々と自席を後にした。

 以前は、高橋より先に帰ることに罪悪感や恐怖を感じていたが、今はもうない。彼は、自分のパフォーマンスが上がっている以上、私的な時間を確保する権利があると確信していた。


 自宅への帰り道、陽介は今日の出来事を反芻した。


(高橋部長は、私を追い詰めようとした。以前と同じように、『無駄を削れ、すべてを仕事に捧げろ』という価値観を押し付けてきた。しかし、今日の私は、まるで別人のようだった)


 陽介は、会社の重圧を、庭という「もう一つの世界」を持つことで、完全にコントロールできるようになったことを実感していた。


 陽介の庭活動は、かつては「逃避」の側面が強かった。仕事のストレスから一時的に目を背け、焚き火やキャンプ道具に心を慰めてもらっていた。

 しかし、家族がその活動に積極的に参加し、共同作業を通じて、陽介の趣味が「家族の創造性、実用性、絆」を結びつける役割を持つようになった。


 このプロセスを経て、庭活動の意義は、「仕事のストレスからの逃避」から、「仕事の質を高めるための戦略的な基盤」へと完全に昇華した。


 陽介は、この「静かなる勝利」が、高橋のような「効率」に縛られた生き方とは真逆の、「幸福を土台とした生活」から生まれていることを悟った。


 自宅のドアを開けると、美和と咲、そして翔が、リビングで笑い合っている声が聞こえてきた。

 咲は、新しく作ったハーブ棚の写真を美和に見せながら、次のデコレーションの計画を熱心に語っている。翔は、自分の工具箱を丁寧に手入れしていた。


(この温かさこそが、私の100%のパフォーマンスの源だ)


 陽介は、そう確信した。

 庭は、もはや彼の自己満足の趣味ではない。それは、会社での激しい競争を生き抜き、家族を守り、そして何よりも自分自身の「幸福度」を測る、揺るぎない「人生の羅針盤」となっていた。

 彼の孤独は、家族の温かい笑い声と、庭という具体的な空間によって、完全に消え去っていた。


 陽介は、上着を脱ぎ、庭に目をやった。

 ランタンの柔らかな光に照らされたハーブ棚は、今日一日の彼の戦いをねぎらうかのように、そこに静かに立っていた。

 彼の心は、次の週末、この庭で何をしようかと、すでに期待に満ちていた。

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