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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第4章「一緒にするということ」

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41/85

42歳、後輩と燻製をする

 土曜日の午後。陽介の会社の同僚、佐々木が再び佐藤家を訪れた。


 彼は先日の芝生観察以来、陽介の庭活動にすっかり興味を惹かれていた。


「いやー、佐藤さん。本当に気持ちのいい庭ですね!この芝生の青さと、ウッドデッキの木の匂い。これが都内から電車で一時間ちょっとなんて信じられないですよ」


 佐々木は、スーツを脱ぎ、陽介が用意したラフなTシャツに着替えて、さっそく庭の椅子に腰を下ろした。

 陽介は、佐々木が自宅以外で心からリラックスしている様子を見て、嬉しくなる。会社では常に緊張感を強いられる佐々木も、ここではただの「30代の若者」に戻れるのだ。


「佐々木くん、今日はどうしたんだ? ただ遊びに来ただけじゃなさそうだな」


 陽介が冗談めかして尋ねると、佐々木は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。


「実は、前に佐藤さんが買ったと言っていた、あの七輪を使ってみたくて。燻製に挑戦したいんですよ!」


 七輪。

 それは、陽介が手入れの煩雑さから、ソーセージを焼いて以来、一度も使っていなかった小型の道具だった。

 隅の物置に眠ったまま、彼の中では完全に「非効率な無駄」の象徴となっていた。


 陽介は、佐々木の提案に少し驚いた。

 彼は、庭活動を「家族の共有」の段階へ進めることに夢中で、社外の人間、それも後輩を招いて一緒に活動するという発想は、頭から抜け落ちていた。


「燻製か。いいな。七輪、しばらく使ってないから埃を被っているかもしれないけど」

「それがいいんですよ! 新品よりも、眠っていた道具を復活させることにロマンがあるじゃないですか。僕、実はキャンプの動画で燻製のやり方だけは予習済みでして。七輪だと火力が安定しやすいらしいんです」


 佐々木は、陽介が「効率の悪さ」を理由に敬遠していた七輪を、「燻製に適した火力の安定性」という「実用的な価値」で見事に再定義した。

 陽介は、自分の凝り固まった思考を、佐々木のような若い柔軟な発想が打ち破ってくれることに、爽快感を覚えた。


「よっしゃ。じゃあ、今日は佐々木くんのナビゲートで、燻製に挑戦してみよう。七輪の復活だ」


 陽介は物置から七輪を引っ張り出し、佐々木は持参した燻製チップ、チーズ、ゆで卵、そしてベーコンの塊を取り出した。


 ここから、陽介の「家族の聖域」が、「社会との繋がりを育む場所」へと変貌を遂げ始める。



---



 陽介と佐々木が七輪の準備をしていると、リビングから美和が顔を出した。

 普段、陽介が趣味に没頭している間、美和は「見守る側」に徹し、陽介や子どもたちの邪魔をしないよう、あえて距離を置いていた。しかし、今回は状況が違う。


「佐々木さん、いらっしゃい。いつも夫がお世話になってます」


 美和は、いつもの家庭内でのリラックスした態度ではなく、少し背筋を伸ばし、にこやかな「ホスト」の顔になっていた。彼女の意識の中では、佐々木は単なる「陽介の同僚」ではなく、「わが家の庭に来てくれた、大切なお客様」なのだ。


「美和、悪いな。佐々木くんと燻製をやるんだ」陽介が言う。

「いいのよ。せっかくだから、私が少しおもてなしをさせてもらうわ」


 美和は、そう言ってキッチンに戻ると、すぐに道具を揃え始めた。彼女が用意したのは、単なる麦茶やコーラではない。庭のハーブを使って、一手間加えた飲み物だった。


 数分後、美和がウッドデッキに戻ってきたとき、彼女の手には、自家製レモンと庭のミントの葉をたっぷり使ったノンアルコールのモヒートと、赤ピーマンやキュウリを漬け込んだ彩り豊かな自家製ピクルスが乗ったトレイがあった。


「燻製ができるまで、これでもどうぞ。陽介さんが育てているミントが、今、最高の香りなのよ」


 美和の行動は、陽介にとって驚きだった。

 彼女の行動は、これまでの「趣味の承認」という境界線を大きく超えていた。彼女は、陽介の活動を、「家族の生活動線に組み込む」だけでなく、「外部に開かれた、家族共同の社交活動」として積極的にプロデュースし始めたのだ。


「美和、すごいな。まるでカフェのマスターみたいだ」

「もう、陽介さんまで。でもね、お客様がいると、私も張り合いがあるのよ。この庭が、ただの陽介さんの趣味の場所で終わるのはもったいないもの。せっかくなら、『庭のホスト役』として、みんなが気持ちよく過ごせる空間を作りたいじゃない?」


 美和は、自分の「得意な役割」を見つけ出していた。

 陽介が火や道具を扱う「熱源担当」であり、「共同創造者」であるならば、美和は、その空間を洗練させ、居心地の良い「おもてなし」を提供する「空間演出担当」なのだ。


 佐々木は、冷えたモヒートを一口飲み、感嘆の声を上げた。


「うわ、美味しい! 奥さん、これ最高です。市販のジュースなんかとは全然違う。このミントの爽やかさが、庭の雰囲気にぴったり合ってます」


 佐々木からの絶賛は、美和の努力を正当に評価し、彼女にこの役割への自信を与えた。

 陽介は、美和が自分の趣味を介して、生き生きと輝いている姿を見て、胸が熱くなった。


 庭活動は、もはや陽介一人の自己満足ではない。それは、家族それぞれの「得意な役割」を見つけ出し、それを発揮させるためのプラットフォームとなっていた。



---



 七輪に火が入り、佐々木が準備した燻製チップが熱せられ始めると、すぐに庭に独特の香ばしい煙の匂いが立ち込めた。


「きましたね! この煙ですよ、佐藤さん。この煙が、時間をかけて食材に魔法をかけるんです」


 佐々木が興奮気味に言った。

 七輪での燻製作業は、ガスバーナーでパスタを作るのとは全く異質だった。パスタは「効率」と「火力」が命だが、燻製は「待ち時間」と「火力の微調整」がすべてだ。熱すぎるとチップが燃え尽き、食材が焦げる。低すぎると煙が出ず、香りがつかない。


 陽介と佐々木は、七輪の脇に座り込み、燻製器の温度を小まめにチェックしながら、火力を調整するためにうちわで静かに炭を扇いだ。

 この静かな共同作業が、自然と会話を深いものにした。


「いやぁ、この待ち時間、たまりませんね。会社じゃ、こんな『非効率な時間』は許されないでしょうけど」佐々木が、笑いながら陽介に水を向けた。


 陽介は、うちわを止め、佐々木に正直な気持ちを語り始めた。


「佐々木くん、俺は最近、高橋上司の『効率』という言葉に、以前ほど動揺しなくなったんだ」

「え? そうなんですか?」

「ああ。昔の俺は、高橋さんの言う『無駄を削れ』という言葉を、自分の人生の真理だと思って信じていた。だから、常に疲弊していた。でも、今は違う。この庭活動、燻製の待ち時間、星空観察……これらはすべて、ビジネスの観点から見れば『無駄』だ。だが、この『無駄』が、俺の成績を安定させ、家族との関係を深めてくれている」


 陽介は、深呼吸をした。燻製の煙が、肺の奥まで染み渡るような気がした。


「高橋さんの呪縛は、『心の余白』を認めないことだ。心の余白を削りすぎると、人は判断を誤る。庭でのこの時間は、俺にとっての『戦略的なリフレッシュ』なんだ。そして、そのリフレッシュは、すべて家族のサポートのおかげだ」


 陽介は、美和がモヒートを作ってくれたこと、翔が工具の知識で貢献してくれること、咲がハーブで空間を彩ってくれることを、佐々木に熱っぽく語った。

 佐々木は、陽介の言葉を静かに聞き、頷いた。


「佐藤さん、僕、佐藤さんの『人間的な深み』が増したのを感じますよ」

「人間的な深み、か」

「はい。以前の佐藤さんは、優秀だけど、どこか張り詰めていて、話しかけにくいオーラがありました。でも、今は、高橋さんの愚痴も笑って話せるし、家族への感謝も素直に口にできる。何より、この燻製の煙を見て、『人生に無駄は必要だ』と断言できる余裕がある。僕も、こういう『もう一つの世界』を持たないと、高橋さんに潰されちゃうなって、正直思いましたよ」


 佐々木は、陽介の変化を、第三者の視点から冷静に分析し、そして承認した。

 陽介は、仕事では決して話せない上司の愚痴や、家族への感謝といった「人間的な弱さ」を、この燻製の煙と、七輪の火力を微調整する共同作業の中で、佐々木と共有することができた。


 燻製という「非日常」の共同作業は、二人にとって「心の対話」のきっかけとなった。

 この庭は、陽介の「社会的な仮面」を取り去り、彼の「人間的な本質」を露わにする場所になりつつあった。



---



 燻製作業も終盤に差し掛かり、庭全体が、ベーコンとチーズの香ばしい匂いで満たされ始めた。


 その匂いに誘われるように、リビングから翔と咲が出てきた。

 翔は、自転車の整備を終えたばかりで、サイクルジャージ姿。咲は、庭のハーブに水をやっていたらしく、手には小さな如雨露を持っていた。


「わ、いい匂い! 何これ、お父さん。今日の夜ご飯はこれなの?」咲が、目を輝かせて燻製器を覗き込んだ。

「ベーコンとチーズの燻製だ。佐々木くんと二人で作った」


 佐々木は、二人に笑顔で挨拶をした。


「翔くん、咲ちゃん、こんにちは!

 いやぁ、この燻製は、佐々木くんのお父さんが育てた庭でやるから、余計に美味しくなるんですよ」


 佐々木は、陽介から聞いた話をもとに、さりげなく子どもたちに語りかけた。


 彼は、咲が持っている如雨露に目を留め、「咲ちゃん、そのバジル、すごく葉が大きくて元気だね。美和さんが作ってくれたモヒートのミントも、香りが最高だった。こんなに立派なハーブが採れるなんて、佐藤家はすごいよ」と褒めた。


 咲は、部活の先輩に褒められたときよりも、もっと大きな「承認」を受けたように感じた。

 佐々木は、自分たちが日常的に育て、愛でている庭のハーブに、「外部の人間が、価値を見出してくれた」のだ。彼女は、「そうでしょ?」とばかりに、誇らしげに胸を張った。


 次に、佐々木は翔に目を向けた。翔は、自分の自転車のチェーンの汚れを気にして、庭の隅に立っていた。


「翔くん、その自転車、新しいパーツに替えたのか?このギア、結構いいやつじゃないか」


 佐々木は、翔が細部にまでこだわって選んだであろう、自転車のパーツに気づいた。翔は、自分が情熱を注いでいる「趣味の道具」を、父の同僚という「外部の大人」に理解してもらえたことに、驚きと喜びを隠せない。


「はい。このスプロケットは、軽さと耐久性のバランスが良くて……」


 翔は、堰を切ったように、自分の自転車へのこだわりを語り始めた。

 佐々木は、うんうんと頷きながら、真剣に耳を傾けた。陽介は、この様子を見て、胸に熱いものがこみ上げるのを感じた。


 子どもたちは、自分たちの「聖域」を、父親の同僚という「社会の代表者」に認められたことで、「自分の家の庭が、他者にも価値を認められている」という、確固たるプライドを持った。


 陽介の趣味の活動が、家族の絆を深めるだけでなく、子どもたちの「自己肯定感」を高めるための、重要なステップとなっていた。外部の人間からの賞賛は、家族内部での承認とはまた違う、「社会的な価値」を与えてくれるのだ。



---



 燻製が完成し、家族全員と佐々木で庭のテーブルを囲んだ。

 熱々の燻製ベーコンとチーズ、美和の自家製ピクルス、そしてミントのモヒート。すべてが、この庭で生まれた「共同創造の産物」だった。


「うまい!  佐藤さん、こんなに美味しい燻製は初めてですよ! 特にこのチーズ、とろけ具合と煙の香りが絶妙です」


 佐々木は、心から満足した様子で言った。

 美和は、そんな佐々木の様子を見て、心の中で深く安堵していた。


(陽介さんが、外でちゃんと「人間的な繋がり」を広げられている。それも、仕事の利害関係だけではない、趣味を通じた、真にパーソナルな繋がりを)


 美和にとっての最大の安心は、陽介の「心の健康」だった。彼が、会社という閉鎖的な世界に閉じこもり、ストレスを一人で抱え込むことを、彼女は最も恐れていた。

 しかし、今、陽介は庭という「もう一つの世界」を持ち、そこに佐々木という外部の人間を招き入れ、「感情」と「弱さ」を共有している。


 陽介は、この庭が、もはや「家族の聖域」という閉じた空間ではなく、「社会との繋がりを育む場所」としての役割も持つことを実感していた。


「佐々木くん。今日はありがとうな。七輪、復活させてくれて」陽介は、七輪を片付けながら言った。

「こちらこそ、ありがとうございました。最高の週末でした。僕も、次の休みにホームセンターに行きたくなりましたよ」佐々木は、陽介に深々と頭を下げた。


 佐々木が帰り、静けさを取り戻した庭で、陽介は美和と並んで椅子に座った。夜風が、燻製の微かな香りを運んでくる。


「陽介さん、佐々木さんと話せて良かったわね。陽介さんが、会社の人とあんなに楽しそうに話しているの、久しぶりに見たもの」美和が言った。


 陽介は、美和の肩を抱き寄せた。


「ああ。俺は、仕事でしか人と繋がれないと思っていた。効率とか、利益とか、そういう『鎧』をまとっていないと、社会では生きていけないと。でも、佐々木くんは、この『無駄な庭』に価値を見出してくれた」


 陽介の庭活動は、仕事のストレスからの「逃避」から、「仕事の質を高めるための戦略的な基盤」へと昇華し、さらに「社会との繋がりを育むための社交プラットフォーム」へと進化していた。


 これは、陽介にとっての「静かなる勝利」だった。高橋上司が重視する「効率」の論理は、彼の庭には通用しない。

 しかし、この非効率で人間的な空間が、彼の心の余裕を生み出し、結果として仕事の成果も安定させている。


 陽介の孤独は、完全に消え去った。

 彼の世界は、家族の愛と、同僚との温かい繋がりによって、何重にも守られていた。庭という空間は、陽介の人生を多角的に支える、揺るぎない「幸福の基盤」として確立したのだ。

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あれ?ソーセージの話と矛盾してません?
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