42歳、手作りエナジーバー
陽介は、爽やかな土曜の朝、庭のウッドデッキでコーヒーを淹れながら、家族が起き出すのを待っていた。
先週の庭キャンプ、そして何よりペペロンチーノの共同調理の成功体験は、彼の心に穏やかな自信と、満ち足りた静けさをもたらしていた。
彼の趣味である「庭活動」は、もはや孤独な逃避の場所ではなく、家族の幸福を生成する「熱源」となりつつある。
リビングの窓ガラス越しに、食卓に座る翔の姿が見えた。翔は、朝食のトーストを手にしているが、その動きは緩慢で、表情には目覚めの良さが感じられない。
陽介は、翔がこの週末もまた、ハードな自転車部の練習に向かうことを知っていた。
「翔は、本当に疲れているな」
陽介は、コーヒーを一口飲みながら、息子の全身から発せられる「疲労困憊」のサインを読み取ろうとした。それは、彼の会社生活における「効率の最大化」とは正反対の、「肉体の極限までの消耗」がもたらすエネルギーの欠乏だった。
高橋上司の執拗なプレッシャーの下で、陽介も毎朝、重い体を引きずっていたが、彼の疲労は単なる「すり減り」だった。
翔の疲労は、汗と努力と、競技への情熱が結晶化した、ある種の「尊い疲労」だ。しかし、尊いとはいえ、限界がある。
翔は高校の自転車部で、週末の長距離ライドやヒルクライムといった過酷なトレーニングを要求される。彼の体は見るからに筋肉質になったが、その分、消費されるエネルギーも膨大だ。
陽介は、翔がトレーニングを終えて帰宅した時の様子を思い出した。
玄関先に倒れ込むように自転車を置き、ソファに横たわり、しばらくの間、誰とも言葉を交わさない。その姿は、まるでエネルギーの電池が完全に空になったロボットのようだった。
(父として、どうすれば、あいつの『燃費』を良くしてやれるだろうか)
陽介は、企業戦士として培った思考回路を、今度は「父親」という役割のために使おうとしていた。
家庭での「効率」とは、「家族の幸福度を、最小の労力で最大化すること」だと、陽介は庭活動を通じて学び始めていた。
翔にとっての幸福とは何か?
それは、レースで全力を出し切れるだけの、強靭な肉体とエネルギーを維持することだ。
陽介は、美和が準備した愛情溢れる「日常の燃料」はもちろん重要だと理解していた。しかし、翔が求めているのは、試合中や練習直後といった「非日常の極限状態」で、瞬時にエネルギーを補給できる「特別な燃料」ではないだろうか?
陽介は、スマホを手に取り、いつものように桜井慎のキャンプチャンネルを開いた。
その日、たまたま陽介が見た動画のテーマは、「キャンパーとサイクリストのための、野外で自作できる高カロリーエナジーバー」だった。
『長時間のアクティビティには、素早くエネルギーに変わる糖質と、持続的に燃焼する良質な脂質、そして筋肉の修復を助けるタンパク質が必要です。市販のバーも良いですが、添加物や不必要な砂糖が多く含まれていることが多い。だからこそ、野外調理の技術を応用して、自分の体の『燃費』に合わせたカスタムメイドの燃料を作り出すんです』
桜井慎は、そう語りながら、オートミール、ナッツ、ドライフルーツ、そして少量のメープルシロップを混ぜ合わせ、それを型に入れてプレスし、ガスコンロの上に乗せた鉄板でゆっくりと焼き上げる様子を映していた。
陽介の脳内で、閃光が走った。
「これだ!」
それは、彼の趣味のスキルと、翔の趣味のニーズが、最も直接的かつ実用的な形で交差する瞬間だった。
陽介は、レシピの調査に取り掛かった。
彼のビジネスマンとしての本能が目覚める。
翔のロードバイクのギア比を計算する時のような真剣さで、レシピの配合比率を計算し始めた。
「翔は、甘いものをそこまで好まない。だから、メープルシロップは最小限に抑えるべきだ」
「長時間エネルギーを持続させるために、脂質の比率を上げるべきだろう」
陽介は、まるで「翔専用の高性能燃料」を設計しているかのような感覚に陥った。
これは、彼の趣味である「道具」を、自分の内面的な満足のためではなく、「愛する家族の肉体的なパフォーマンスをサポートするため」という、極めて具体的な奉仕のために応用する行為だった。
陽介はキッチンへ行き、美和に相談した。
美和は、以前のような戸惑いではなく、「夫の趣味がまた新しい領域へ進出したことへの好奇心」を含んでいた。
美和の承諾を得て、陽介の「エナジーバー製造プロジェクト」は、正式にスタートした。
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翔が自転車部の朝練に出かけた後、陽介はすぐに準備に取り掛かった。
今回は、熱のコントロールが容易な卓上コンロを庭のテーブルに設置する。陽介は、美和が用意してくれたオートミール、ナッツ、ドライフルーツ、そしてハチミツのボトルをテーブルの上に並べた。
まずは、ナッツを細かく砕く作業だ。陽介は、美和のキッチンにあったフードプロセッサーを借りようとしたが、ふと思い直した。
「せっかくだから、庭の道具を使おう」
彼は、キャンプ用の小さなまな板と、以前ホームセンターで買った、握りやすいグリップの付いたキャンプ用のナイフを持ち出した。ゴロゴロとしたアーモンドやクルミを、ナイフの腹を使ってリズミカルに叩き割る。
その音は、リビングの中にいる美和にも聞こえるだろう。
陽介は、ナイフを使う際の「集中力」が、仕事のストレスを忘れさせてくれることに改めて気づく。
正確なデータ入力や、煩雑な書類作成とは違う、手のひらに直接伝わる木材と金属の感触が、彼の心を現実的な作業へと引き戻す。
材料をボウルで混ぜ合わせ、卓上コンロに火をつけ、薄くオイルを塗った鉄板の上で、ゆっくりと加熱していく。
ハチミツとメープルシロップが熱で溶け出し、オートミールとナッツを強力に結合させていく。
庭には、香ばしいナッツとシリアルの匂いが広がり、まるで小さなパン屋になったようだ。
問題は、焼いた後の「型」だった。エナジーバーとして均一なサイズにカットし、冷やし固めるための平らなトレイが必要だ。
陽介は、キッチンのアルミホイルやタッパーを思い浮かべたが、どうにも「味気ない」と感じた。
せっかく庭で、非日常のアイテムを駆使して作っているのだ。何か、この空間にふさわしい「道具」を使いたい。
彼の視線は、ガレージの隅に立てかけられた、翔のロードバイクへと向かった。
翔が、常に携帯している「サドルバッグ」の中に入っているはずの、携帯用工具。
それは、六角レンチやドライバーなどが一体となった、手のひらサイズの金属の塊だ。
「あれを、型に使ったらどうだろう?」
陽介の頭に、奇抜なアイデアが浮かんだ。
金属製で、適度な重みがあるため、エナジーバーの生地をプレスして平らにするのにちょうど良いかもしれない。
もちろん、衛生面の問題はあるが、そこは綺麗に消毒すればいい。
何より、「翔の道具」が、彼の補給食作りに間接的に参加するという、「趣味の融合」の象徴的な瞬間を作り出したかった。
陽介が、そのマルチツールを鉄板の上の生地に押し当てて、平らにしようとした、まさにその時。
「お父さん! 何やってんだよ!」
突然、背後から翔の声がした。
翔は、朝練を終えて帰宅したばかりで、まだサイクルジャージ姿だ。汗をかき、顔は少し赤らんでいるが、目は驚きに満ちていた。
陽介は、マルチツールを慌てて引っ込めた。
「ああ、翔。お帰り。ちょうどお前が帰ってくる頃だと思って。これはな、お前のためのエナジーバーを作っているんだ。市販のより甘さ控えめで、栄養バランスを考えた高性能燃料だ」
陽介は得意げに説明したが、翔の視線は生地ではなく、陽介の手元のマルチツールに固定されていた。
「その工具、油まみれだろ! パンク修理のゴムのカスも付いてるかもしれないのに! 食べるものに使うなよ!」
翔は、思わず陽介の横まで駆け寄り、父の手から工具を奪い取った。
その顔は、父の「うっかり」に対する呆れと、自分の大切な道具を汚されたくないという「道具への責任感」が入り混じっていた。
「いや、ちょっと待て。消毒しようと思っていたんだ!」陽介は弁解したが、翔は聞く耳を持たない。
「いいから、これ使え!」
翔は、自分の部屋に戻り、すぐにプラスチック製のタッパーを持って戻ってきた。
それは、部活の遠征でパンなどを入れて持ち運ぶための、使い慣れた容器だった。
「これなら、綺麗だ。これに敷いて冷ませば、ちょうどいいサイズのバーが出来るだろ」
翔は、陽介の手から鉄板を受け取り、熱々の生地をタッパーの中に手早く移し替えた。そして、タッパーの蓋を上から軽く押し当て、均一な厚みにプレスした。
その動作は淀みがなく、実用的な知識と経験に裏打ちされていた。
陽介は、ただただ感心するしかなかった。
「そ、そうか。タッパーの方が衛生的だし、サイズも完璧だ。ありがとう、翔」
翔は、陽介にタッパーを返し、水道で自分のマルチツールを丁寧に洗い始めた。
この一連のやり取りは、陽介にとって大きな意味を持っていた。
翔は、最初こそ陽介の庭活動に無関心だったが、今、彼は「父のうっかり」を笑い、「自分の道具」を提供することで、この補給食作りという共同作業に「自己開示」し、関与したのだ。
父子の間に流れる会話は、いつもの業務報告のような堅苦しいものではなかった。それは、「道具」と「実用性」という、共通の言語を通じた、自然で温かいコミュニケーションだった。
翔は、自分の持つ「実用的な知識」が父の役に立ったことに、微かな誇りを感じているようだった。
陽介は、タッパーの中のエナジーバーの生地を見つめながら、心の中で確信した。
庭活動は、道具を介して、家族の間に言葉のいらない「連帯感」を生み出す。
彼は、翔が自発的に提供してくれたタッパーを、庭のテーブルの上にそっと置いた。このタッパーは、今日から陽介の庭活動の道具コレクションに加わる、家族からの「承認の道具」となるだろう。
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エナジーバーは、陽介が冷たい麦茶を飲みながら待つ間に、庭の涼しい日陰でゆっくりと冷やし固められた。
翔は、シャワーを浴びて着替えを済ませ、リビングでリラックスしていた。
「翔、出来たぞ。ちょっと固まったから、食べてみるか?」陽介は、翔を庭に誘った。
翔は、少し警戒した表情で庭に出てきた。
陽介の「趣味の産物」は、これまでのところ成功続きだが、パスタやBBQとは違い、エナジーバーという「特殊用途の食べ物」には、彼なりの「実用性の審査基準」があるのだろう。
陽介は、タッパーから固まった生地を取り出し、翔のタッパーのサイズに合わせて、均等な八等分にカットした。表面には、ハチミツとメープルシロップがコーティングされ、ナッツとドライフルーツがぎっしりと詰まっている。
見た目は、市販のものよりも遥かに手作り感があり、素朴だが力強さを感じさせた。
「どうぞ。砂糖は控えめにして、ナッツを多めにしてある。お前が長距離を走るための、特別製だ」陽介は、一切れを翔に手渡した。
翔は、無言でそれを受け取り、まずは匂いを嗅いだ。
香ばしいナッツと、わずかなシナモンの香りが、彼の鼻腔をくすぐる。
そして、一口。
翔は、ゆっくりと咀嚼した。陽介は、その瞬間、会社の重要なプレゼンの結果を待つ時よりも、遥かに強い緊張感を覚えていた。
このエナジーバーの「実用的な価値」が、翔によって承認されるかどうかが、彼の庭活動の次のフェーズを決定づけるのだ。
翔は、二口目を食べ、しばらくの間、口の中で味わった後、小さく頷いた。
「うん……これ、美味いな」
その言葉は、陽介がこれまで聞いた、どんな賛辞よりも重いものだった。
それは、単なる「味の感想」ではない。
翔の、「実用的な価値」に対する、明確な「承認」だった。
「市販のより甘さ控えめで食いやすい。練習後の補給食にちょうどいい」
翔は、続けて評価を下した。
彼は、栄養ドリンクやプロテインバーといった、自分の競技に直結する道具や食品に対しては、極めて冷静で、客観的な判断基準を持っている。
その彼が、「ちょうどいい」と評価したのだ。
「特に、噛み応えがいい。ナッツが多いから、これ一つでかなり腹持ちしそうだ」
陽介は、胸の奥で熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「そうか!良かった。ナッツを多めにしたのは正解だったな」
「うん。あと、これ、サイクルジャージのポケットに入れやすいな」
翔は、食べかけのバーを手に持ちながら、自分のサイクルジャージの背中にあるポケットに、そっとそれを入れてみた。バーは、ポケットの形状にぴったりと収まった。翔のこの行動は、言葉以上に雄弁だった。
それは、エナジーバーが、陽介の「趣味」から、翔の「競技生活」へと、完全に「統合」されたことを意味する。
翔は、残りのバーを全部タッパーに戻し、陽介に向かって言った。
「次の練習で持っていくよ。残りは、冷凍保存できる?」
「ああ、できるはずだ。冷凍して、朝、そのまま持っていけば、練習時間にはちょうど食べ頃になっているはずだ」
「分かった。じゃあ、これ、俺の部屋の冷凍庫に入れとく」
翔は、初めて、陽介の作った「庭の産物」を、自分の生活空間へと持ち込んだ。
それは、陽介がこれまで夢見てきた、「家族の趣味への物理的統合」の、最も具体的な現れだった。
翔が庭を出た後、陽介は椅子に座り、しばらくの間、感動で体が震えるのを感じていた。
彼は、高橋上司からどれほど「効率化」を要求され、どれほど「無駄」を削れと言われても、この「手作りのエナジーバー」が持つ価値には、遠く及ばないことを知っている。
これは、単なるカロリー源ではない。
父が、息子の趣味を理解し、そのために持てる技術と道具を全て投入した、「愛情とサポートの結晶」なのだ。
翔が自分のジャージのポケットにそれを入れた時、陽介の心は満たされた。
それは、彼が会社のプロジェクトを成功させた時の、一過性の達成感とは比べ物にならない、持続可能で、心の底から温かい幸福感だった。
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翔のエナジーバープロジェクトの成功は、庭の活動を、さらに家族全体の領域へと押し広げた。
翔が「実用的な価値」を認めたことで、美和と咲も、この補給食作りを「家族共通のミッション」として捉え始めたのだ。
陽介が、次のエナジーバー作りのための材料を準備していると、キッチンから美和がやってきた。
「陽介さん、ナッツの準備はいいかしら? 私にやらせて」
美和は、手慣れた様子で、包丁とまな板を取り出した。陽介がキャンプナイフでワイルドに叩き割っていたナッツとは違い、美和は均一で繊細なサイズに刻んでいく。
その手つきは、料理のプロフェッショナルとしての「得意な役割」を明確に示していた。
「ナッツは、細かすぎると食感がなくなるし、大きすぎると噛むのが大変で、走行中に食べる補給食としては適さないわ。このくらいが、翔にはちょうどいいのよ」
美和は、ナッツの「テクスチャー」という、陽介が計算から完全に抜け落ちていた要素に言及した。
陽介の思考は「栄養素の配合」という論理的な側面ばかりに集中していたが、美和の視点は、「使用時の快適さ」という、よりユーザー体験に基づいたものだった。
「なるほど。さすがだ、美和。俺は、カロリーとタンパク質の計算ばかりで、そこまで気が回らなかった」
陽介は、素直に感服した。
「ふふ、料理は栄養だけじゃないもの。愛情と、使う人のことを考える『心遣いの技術』よ」
美和は、陽介が庭で火を扱う「熱源担当」として活躍しているのを見て、自分もまた、「素材と仕込みの管理担当」として、庭活動を支えたいという明確な意思を持った。
彼女は、庭という陽介の聖域に対し、これまで一歩引いた位置から「見守る」役割だったが、今、彼女は「内側からサポートする役割」へとシフトしたのだ。
その時、リビングで宿題をしていた咲が、庭に出てきた。
「お父さん、またエナジーバー作ってるの?あんな地味なものばっかり作ってないで、もうちょっと可愛いもの作ったら?」
咲は、相変わらず「美的センス」を重視した発言をする。
「地味だって? これは翔の高性能燃料だぞ。可愛さは不要だ」
陽介は反論したが、咲はプイと顔を横に向けた。
「でもさ、お兄ちゃんが遠征に持っていくんでしょ? だったら、みんなに見られても恥ずかしくないように、演出が必要じゃん」
咲は、美和のキッチンから、セロファンと、細い麻ひも、そして、美和が家庭菜園で作ったドライハーブの小さなブーケを持って戻ってきた。
「はい、これ。出来上がったバーをこのセロファンで一つずつ包んで、この麻ひもでクロスして結ぶの。で、ここにこのミントの小枝をちょっと挟むの。ほら、おしゃれな『手作り感』が出るでしょ?」
咲は、陽介が焼き上げたエナジーバー一切れを手に取り、見事な手つきでラッピングしてみせた。それは、まるでインスタグラムの「いいね」を意識した、完璧な「作品」だった。
陽介は、目を丸くした。
確かに、咲の提案したラッピングは、素朴なエナジーバーに、「贈り物」としての付加価値を与えていた。
「これなら、お兄ちゃんも友達に『これ、うちの父ちゃんが作ってくれたんだ』って、ちょっと自慢できるじゃん」
咲の言葉の裏には、「父の趣味が、私たち家族の誇りであってほしい」という、娘の純粋な願いが隠されていた。
ここに、家族全員の「役割分担」が完成した。陽介の趣味が、家族それぞれの「得意な役割」を見つけ出し、それを発揮する「舞台」となったのだ。
誰一人として、「手伝わされている」という義務感はない。
皆が、翔の趣味をサポートするという共通の目標に向かって、自らの才能とスキルを自発的に提供している。
陽介は、妻と娘の働きを見て、深い喜びを感じた。
「みんな、ありがとう。これで、翔のバーは、最強の高性能燃料になったぞ」
美和は微笑み、咲は満足げにラッピング作業に戻った。
庭は、今、調理の熱と、家族の温かい協力の熱気に包まれていた。




