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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第4章「一緒にするということ」

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38/85

42歳、ペペロンチーノを作る

 前回の庭キャンプの成功から一週間。

 陽介の心の状態は、以前とは比べ物にならないほど安定していた。仕事でのプレッシャーも、高橋上司の苛立ちも、彼の精神的なバリアを越えて侵入してくることはなくなった。


 それは、週末に家族と共有した「テント」という非日常の体験と、翔と共に汗を流して撤収作業を成し遂げた共同作業の達成感が、彼の心に強固な基盤を築いたからだ。


 特に、美和がテントの収納場所を「いつでも出せる納戸」に指定したことは、陽介にとって大きな意味を持っていた。それは、彼の趣味が「隔離」から「日常への統合」を許された証であり、美和からの揺るぎない愛情の表明だった。


 この恩恵に応えるためにも、陽介は次に庭で何をすべきか、熱心に考えていた。


「次の庭飯は、もっと本格的に、家族が本当に好きなものに挑戦したい」


 陽介は金曜日の夜、夕食を終えた後のリビングで、妻と子どもたちに向かって宣言した。

 彼が目指すのは、単に肉を焼くバーベキューの延長ではなく、彼の趣味の道具と技術を駆使して、「家の中では再現できない」体験価値を生み出すことだった。


「パスタはどうだろう?ペペロンチーノ。翔も咲も好きだろう?」


 翔はソファでスマホを見ていたが、ピクリと反応した。「ペペロンチーノか。いいけど、なんでまた外で?」と、興味と疑問が半々といった表情だ。


 咲はリビングのテーブルに座りながら、すぐに「パスタね。外で食べるって、なんだか絵になるね」と、食感や味よりもまず「見栄え」と「シチュエーション」に興味を示した。

 彼女の感性は、常に風景や演出を優先する。


「パスタを、外で? わざわざ? それって、茹でるのも大変だし、冷めちゃうんじゃないかしら。それに、お皿も…」


 美和は陽介の提案に、少し眉をひそめた。美和の懸念はもっともだった。

 バーベキューなら、肉を焼き、皿に乗せるだけで済む。しかし、パスタは繊細だ。茹で加減を正確にコントロールし、ソースと素早く絡め、熱々のうちに食べなければ、その魅力は半減する。

 美和の頭の中には、慣れたキッチンのコンロと、外気の不安定さが瞬時に対比されていた。


 陽介は、美和の懸念を払拭するために、事前に練っていた計画を説明した。


「大丈夫だよ、美和。そこが今回の『非日常』の肝なんだ」


 陽介は、タブレットで新しい調理器具の画像を見せた。それは、キャンプ用品のウェブサイトで見つけた、高火力のシングルバーナーだった。


「これを見てくれ。以前使った卓上コンロは、家庭用ガスの火力を再現する程度だった。でも、ペペロンチーノの醍醐味は、ニンニクや唐辛子を一気に加熱し、オイルに香りを閉じ込める瞬間の『爆発的な火力』にある。家庭のキッチンでは、なかなかあのレベルの火力は出せない。だから、今回はこの『ガスバーナー』を使う」


 このガスバーナーは、陽介が以前、翔のロードバイクの動画を見ている時に、桜井慎が野外での湯沸かしに使っているのを見て、翔が「あれ、すごい火力だな」と漏らした器具だった。


 翔の興味を引くことを、陽介は忘れていなかった。


 翔の目が、そのバーナーの画像に釘付けになる。

 青い炎が渦を巻くように噴出する、その無骨なデザインと、高出力のスペック。それは、彼の自転車のフレームやパーツを選ぶ時のように、「機能性」と「効率性」が極限まで追求された道具の美しさを持っていた。


「へえ、業務用みたいに火が強そうだな」翔の口から、関心の声が漏れた。


 陽介は続けた。


「そう。そして、この強力な熱源を、外の庭という解放された空間で使うことに意味がある。

 普通のキッチンなら、換気扇の限界があるから、ニンニクやオイルの香りはすぐに天井へ逃げる。でも、庭なら、あの『ジュワッ』という音と、香り全体を、リビングにいる家族にも届けられる。それが、今回の『演出』なんだ」


「庭で、パスタの香り……」美和は、その言葉を反芻した。


 陽介の熱意と、単なる料理ではなく「五感を刺激するイベント」としての提案に、美和の警戒心は薄れていく。


「わかったわ。じゃあ、私は野菜のカットと、パスタを絡めるための大きなボウルを準備するわね。でも、本当に焦がさないでよ」


 美和は少し呆れながらも、最終的に笑顔で承諾した。


 陽介は心の中でガッツポーズをした。美和の承諾は、新しい道具を導入する許可であり、庭活動が「火遊び」から一歩進んだ「本格的な調理空間」へと昇華する道筋を示していた。



---



 土曜日の夕刻。

 気温は穏やかで、湿気も適度に引いている。絶好の庭飯日和だ。


 陽介は、早速購入したばかりのガスバーナーを庭のテーブルの脇にセットした。

 テーブルの上には、美和が準備してくれたニンニクのスライス、唐辛子の輪切り、オリーブオイルのボトル、そして茹で上がったパスタを絡めるための大きなフライパンが並ぶ。


 翔は、陽介の隣に立ち、新しいバーナーの「起動」の瞬間を待っていた。


「いいか、翔。家庭用コンロのツマミとは違う。これは一気に全開にすると、ちょっと危ないくらい強いから、最初は少しずつだ」


 陽介がバーナーのバルブをひねり、点火ボタンを押す。


 カチッ!


 小さな音と共に、バーナーヘッドから立ち上った炎は、最初は赤みがかった色だったが、すぐに青く、細く、そして猛々しいまでの熱量を放つ柱へと変化した。

 その炎の音は、通常の卓上コンロの「シュー」という音とは違い、「ゴーッ」という、どこかジェット機のエンジン音を思わせる、力強い轟きだった。


 翔の目が輝いた。彼は道具が発揮する「最大効率」の瞬間を愛している。

 ロードバイクが最高速度に達した時のような、無駄のない純粋なエネルギーの放出。このバーナーから噴出される炎は、まさにそれだった。


「すげぇ。こんな火力、初めて見た」

「だろう?これがプロ仕様、っていうやつだ。今回は、これで一気にパスタを茹でる。家庭のコンロだと、たっぷりのお湯を沸かすのに時間がかかって、途中で火力が落ちるだろ? でもこれなら、常に最強の熱量を保てる。パスタを茹でるという『単純作業』を、極限まで『効率化』するための道具だ」


 陽介は、翔の興味のベクトルに合わせて「効率」という言葉を使うことで、息子の心に確実に語りかけていることを知っていた。


 まず、パスタを茹でる。

 大型の寸胴鍋にたっぷりの水と塩。ガスバーナーは、家庭のキッチンで10分かかる沸騰を、わずか5分で実現した。炎の強さが、鍋底全体を覆い尽くし、水面は瞬く間に激しく泡立ち始めた。


 陽介はパスタを投入する。

 大量のパスタを一度に入れても、水の温度はほとんど下がらない。翔は、その様子を静かに観察している。


「パスタが茹で上がるまでの待ち時間も、庭では贅沢だな」


 陽介は、パスタを時々混ぜながら、ビールを一口飲んだ。


 パスタが茹で上がっていく湯気と、遠くで聞こえるセミの鳴き声。この何もしない「余白の時間」こそが、陽介がこの庭で求めていたものだった。しかし、今日は違う。

 この静寂の裏側で、熱源は休まず「効率」的に仕事を続けている。


 茹で時間が残り1分になった。陽介は翔に「いよいよだ」と声をかける。


 メインイベントは、パスタを茹でている間に横の卓上コンロで「音と香り」を立たせる工程だ。


 陽介は、美和のキッチンから持ってきた大きな中華鍋のようなフライパンを、卓上コンロの上に置いた。火力は、バーナーと比べて控えめだが、その分、油の温度を細かくコントロールできる。


 まず、多めのオリーブオイルをフライパンに注ぐ。

 油が熱せられ、表面が揺らぎ始めた時、陽介はニンニクのスライスと唐辛子を一気に入れた。


 その瞬間、庭の静寂が、一瞬にして破られた。


 ジュワアアアアアアアアッ!


 まるで、水を一滴、超高温の鉄板に落としたかのような、凄まじいシズル音が響き渡った。

 この音は、ニンニクの水分が一気に蒸発し、オリーブオイルの分子構造を揺さぶっている音だ。音と共に、強烈なニンニクの香りが立ち上り、一瞬にして庭全体を満たした。

 その香り、そして音は、リビングの窓を通して、家族全員の五感を強烈に刺激した。


 リビングでテレビを見ていた咲は、思わずソファから飛び上がり、窓に駆け寄った。美和は、手元で読んでいた本を置き、顔を上げた。


「何これ!すごい匂い!すごい音!」咲は興奮して叫ぶ。


 陽介は、フライパンのニンニクが焦げ付かないよう、鍋を振りながら、翔に向かって得意げに言った。


「どうだ、翔。これがペペロンチーノの醍醐味だ。家庭の換気扇の下でチマチマやるんじゃない。この匂いと音で、家族を庭に誘うんだ」


 翔も、目を丸くして、その調理の様子を見つめていた。

 彼のロードバイクでは、最高速度を出す瞬間や、精密なギアの噛み合う音が感動的だが、この調理の音と香りは、それとは違う、生命力と本能に訴えかける原始的な魅力を持っていた。


 炎と油とニンニクが織りなす「熱の魔法」だ。


 茹で上がったパスタを寸胴鍋から引き揚げ、陽介は水気を軽く切ると、そのままニンニクと唐辛子の香りが溶け込んだフライパンへ投入した。


 ジュッ、シャア!


 パスタが油と混ざり合う、第二のシズル音。


 陽介は、仕上げの茹で汁を少々入れ、乳化を促すためにフライパンを激しく振る。オイルと水分が混ざり合い、ソースが白濁し、パスタ全体を美しく包み込む。


 完璧だ。


 アルデンテのパスタは、猛烈な火力によって、一瞬で熱い油と絡み合い、最高の状態に仕上がった。



---



 熱々のペペロンチーノが完成し、陽介は美和が準備してくれた大皿に盛り付けた。しかし、陽介はすぐに家族に出す前に、キャンパーとして、味見をする責任があると感じた。

 フォークで一口分を巻き取り、庭のテーブルで味見をする。


「うん、悪くない。ニンニクの香りはバッチリだ。塩加減もいい」


 陽介は満足した。彼が会社で追求する「完璧な仕事」のように、彼の考える「完璧なペペロンチーノ」が完成したはずだった。


 その時、調理の音と香りに誘われて庭に出てきた咲が、陽介の隣に立った。


「ねぇ、お父さん、味見させて!」


 咲は、陽介からフォークを受け取り、一口食べる。そして、すぐに顔をしかめた。


「うーん……」


 陽介はドキリとした。彼が満足した味に、娘は明らかに不満顔だ。


「どうした、咲?ニンニク強すぎたか?」


 咲は首を振った。


「違う。ニンニクの香りとか、唐辛子の辛さはすごくいい。外で食べてるから、香ばしさが倍増してる。でもね、なんか『パンチが足りない』のよ」


「パンチ?」 陽介は戸惑った。「これだけ香ばしさがあれば十分じゃないか?」


 咲は、まるで自分の方が料理のプロであるかのように、両手を腰に当て、陽介をじっと見つめた。


「お父さん、料理はね、ただ美味しいものを『作る』だけじゃ駄目なの。食べる人の『感性』に訴えかけるのが大事なんだよ」


 そして、咲は陽介に断りを入れる間もなく、家の中へと走り去った。

 陽介と翔が顔を見合わせていると、数秒後、咲は両手にいくつかのアイテムを抱えて戻ってきた。


 一つは、美和のキッチンから拝借した、透明感のある岩塩のミル。

 もう一つは、陽介が庭で育てているバジルと松の実を使って美和が作り置きしている、鮮やかな緑色の自家製バジルソースの小瓶だ。


 咲は、皿の端に盛られたパスタに、まずミルで岩塩を少量削りかけた。


「パスタって、塩分が命でしょ? でも、味付けの塩と、最後に振る塩は役割が違うの。最後にこの岩塩をちょっと加えることで、『シャープな塩味』が立って、全体の味が締まるのよ」


 陽介は、娘の口から出てくる「シャープな塩味」という、まるでグルメ番組の審査員のような言葉に圧倒された。

 次に、咲はバジルソースの小瓶を開け、パスタの中央に、まるで絵を描くかのように、鮮やかな緑色のソースを数滴、優雅に垂らした。


「そしてこれ。ペペロンチーノは、ニンニクと唐辛子の『熱い香り』だけだと単調なの。そこに、このバジルの『爽やかな冷たい香り』を足すことで、味覚と嗅覚に『奥行き』が生まれる。

 料理は、ただ作るんじゃなくて、素材の香りやスパイスを足す『演出』が大事なんだよ」


 咲の言葉は、以前、陽介に「庭にもっと美的センスを」と要求した時と同じ、譲れない「感性の指導」だった。彼女にとって、料理も庭も、単なる実用品ではなく、五感を満足させるための「芸術作品」なのだ。

 咲は、満足げに自分の「演出」が施されたパスタを、陽介に差し出した。


「ほら、お父さん。もう一度食べてみて」


 陽介は、その盛り付けられたパスタを改めて一口食べた。その瞬間、彼の頭の中に、鮮烈な光が差し込んだような感覚が走った。


「ああ……」


 味が、まるで立体化したかのように変化していた。


 岩塩の粒が舌の上で溶けることで、味全体が引き締まり、ニンニクの香ばしさが際立つ。


 そして、追いかけてくるバジルソースの清涼感が、口の中の熱を優しくクールダウンさせる。


 単調だった「熱い」ペペロンチーノに、「冷たさ」と「シャープネス」という新たな次元が加わったのだ。


「すごいな、咲。これだ。この『パンチ』だ」


 陽介は、娘の味覚と美的センスが、自分の技術をいとも簡単に、そして決定的に超越したことを知り、素直な喜びと感銘を覚えた。


 庭活動は、彼自身の「技術」の向上だけでなく、家族の持つ「感性」という宝物を、彼に教えてくれる場でもあったのだ。



---



 陽介の技術と、咲の感性の指導を経て、最高の状態に仕上がったペペロンチーノを、美和がリビングの食卓へ運び、庭のテーブルにセッティングした。


 庭のテーブルの上には、料理以外にも、小さなランタンの明かり、美和が用意したキンと冷えた白ワイン、そして庭のハーブを活けた小さな花瓶が並ぶ。

 家族全員が椅子に座り、熱々のペペロンチーノを囲む。


「いただきます!」


 美和、翔、咲、そして陽介。

 四人がそれぞれフォークを手に取り、一斉にパスタを口に運んだ。


 まず、全員を襲ったのは、強烈な「嗅覚」への刺激だった。


 調理時にリビングへ漂っていたニンニクの香ばしさ、唐辛子のエッジの効いた刺激臭。


 それに加えて、パスタの湯気と共に立ち上る、バジルのフレッシュな清涼感が混ざり合う。


 これは、室内で食べるパスタの匂いとは一線を画す、開放的で、野生的な香りだった。


 次に、「味覚」と「食感」の満足感だ。


 アルデンテに茹で上げられたパスタは、絶妙なコシを保ち、表面は乳化されたオイルの滑らかさに覆われている。


 噛みしめるたびに、ニンニクと岩塩の旨味が弾け、時折唐辛子のかけらが舌をピリリと刺激する。


 そして、「触覚」が家族を包み込む。


 熱々のパスタを口に運ぶたびに、庭の夜風が頬を優しく撫でていく。


 この温度差のコントラストが、料理の美味しさを何倍にも増幅させる。


 室内でパスタを食べると、部屋全体の温度が上がってしまうが、庭では熱気はすぐに夜空へと解放される。熱い料理と、心地よい涼しさの無限の繰り返し。


「外で食べるパスタって、こんなに美味しいのね」


 美和が、心からの満足感を込めて、そう言った。彼女の顔は、ランタンの温かい光に照らされ、幸福に満ちていた。


「パスタなんて、家で食べるものだって決めつけてたけど……」


 美和は、フォークを置き、陽介に視線を送った。


「陽介さん。この匂いと音、そしてこの夜風。これ全部が、最高のソースね」


 美和の言葉は、陽介の庭活動への最高の賛辞だった。彼女は、陽介が目指していた「非日常の演出が、日常の幸福度を高める」という本質を、正確に理解してくれたのだ。


 翔は、パスタを頬張りながら、時折、先ほど陽介が使ったガスバーナーに視線を送っている。彼は、パスタの美味しさを生み出した「火力の効率性」と、調理の「醍醐味」を、五感で味わっている。

 彼の中では、最高の道具と、最高の技術が結びつき、最高の成果を生んだという、論理的かつ実用的な充足感があった。


 咲は、自分が「演出」したバジルソースの部分を大切に食べ、満足げに微笑んだ。彼女にとっての幸福は、美味しいものを食べるだけでなく、自分の感性が認められ、家族の喜びの一部となることだ。


 陽介は、ビールを一口飲みながら、庭のテーブルを囲む家族の姿を静かに見つめた。


 会話は、パスタの味についての感想や、明日の予定といった、ごく日常的なものだ。しかし、彼らの間に流れる空気は、格段に密度が濃く、温かい。


 この「家族が五感を共有する時間」こそが、陽介にとっての最高の幸福だと、彼は確信する。


 それは、仕事の成功や、昇進によって得られる一時的な高揚感とは違い、永遠に心の奥底に残り続ける、揺るぎない「生きた証」だった。


 彼は、自分が作ったのはパスタではなく、「家族の五感を結びつける体験」だったのだと理解した。


 そして、その体験を作り出すための「熱源担当」としての自分の役割に、深い誇りを感じた。



---



 ペペロンチーノを平らげ、食後のコーヒーを飲みながら、家族は庭のテーブルでしばらく団欒を続けた。


 陽介は、美和が自ら皿を下げ、フライパンや鍋をキッチンに運ぶ姿を見て、この夜の成功が一時的なものではないことを確信した。

 美和は、陽介の庭活動に対して、明確な認識の変革を起こしていた。


「陽介さん、あのガスバーナー、本当にすごかったわね。あれなら、もう家のコンロを使わなくても、本格的な料理ができちゃうじゃない」


 美和の言葉は、庭の役割の「再定義」を意味していた。

 以前、庭は陽介の「火遊びの場所」であり、非日常のイベントを行う「レジャー空間」だった。しかし、今回の成功体験により、庭は「本格的な調理が可能な第二のキッチン」として、家族全員に認識されたのだ。


 特に、美和の認識の変化は大きかった。

 彼女は、庭を「面倒な片付けが伴う場所」ではなく、「開放感と最高の火力を得られる、料理の可能性を広げる場所」として捉え始めた。彼女の言葉の端々から、次の庭飯では何を試そうかという、積極的な意欲が感じられた。


 翔は、撤収作業の時と同じく、黙々と卓上コンロやガスバーナーの清掃を手伝った。彼は、バーナーのヘッドを取り外し、油汚れを丁寧に拭き取っている。


「これ、ちゃんと手入れしないと、詰まっちゃって火力落ちるだろ?道具は、使った後の手入れが一番大事だ」


 翔の言葉は、道具への愛着と、その「効率性」を維持する責任感から来ていた。彼は、このバーナーが最高の火力を発揮し続ければ、また美味しいペペロンチーノを食べられることを知っている。

 彼の趣味であるロードバイクのメンテナンスと同じ論理が、家庭の調理器具にも適用されたのだ。


 咲は、夜空のランタンの光の下、庭のバジルを指差し、「お父さん、今度は、このバジルでジェノベーゼソースを作って、庭でパスタを食べたい」と提案した。 

 彼女の頭の中では、庭のハーブが、調理という「実用」と、美食という「感性」を結びつける、新たな「素材」として位置づけられていた。


 陽介は、この一連の成功体験を通じて、家族内での自身の役割が「熱源担当」として確立されたことを実感した。


 妻は「献立担当」と「素材の準備担当」。娘は「感性の演出担当」と「美的承認担当」。そして、息子は「道具の管理担当」と「効率化技術の提供担当」。

 その全員を束ね、最も大きな火力を、最も適切なタイミングで提供する陽介は、まさに庭の「熱源担当」であり、家族の幸福を沸騰させる「司令塔」となっていた。


 陽介は、この庭で、孤独なキャンパーから、家族の生活に不可欠な役割を担う「クリエイター」へと進化した。彼の趣味は、もはや彼の自己満足ではなく、家族の生活を多角的に支え、豊かさと幸福を生み出すためのプラットフォームとして、完全に定着した。


 庭は、今、火と土と空と、そして家族の五感が交錯する、本格的な「第二のキッチン」として、夜の闇の中で静かに、そして力強く輝いていた。


 陽介は、心の中で深く頷き、この幸福の循環が、これから始まる次の日常を、さらに豊かなものにしてくれることを確信した。

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