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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第3章「息子との交流」

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42歳、撤収作業と息子の成長

 陽介は深い眠りから覚め、時計に目をやる前に、まず全身を巡る感覚を確かめた。背中から足の裏まで、適度なハリと筋肉の軽いだるさが残っている。


 それはまるで、長距離フライトを終えた後のような、非日常的な空間に身を置いたことによる、心地よい疲労感だった。


 普段、仕事に追われる週末に感じる、前日のストレスを引きずったような「疲弊」とは、まったく質が違う。

 脳内がクリアになり、肉体だけが健全に疲労している、充実した朝だった。


 コーヒー豆を挽く軽快な音を聞きながら、陽介は庭に出た。

 まだ太陽は高くはないが、夏の終わり特有の湿気を帯びた光が、夜露に濡れた芝生をキラキラと照らしている。

 その中央には、昨夜の団欒の記憶を抱えたまま、大きめの家族用テントが誇らしげに鎮座していた。


「やれやれ、クライマックスはこれからか」


 テントの大きさを改めて見上げ、陽介は少しだけ気後れする。

 このテントの撤収は、購入してから数回経験しているが、いつも苦手意識が付きまとう。


 なぜなら、ただ畳むだけでは駄目で、四角形を崩さずに空気を抜き、規定の収納袋に完璧に収めるという作業が、彼の持病である「効率」への執着を刺激するからだ。

 少しでも畳み方が雑だと、袋のファスナーが閉まらない。

 それはまるで、完璧なプレゼンを終えた後に残される、誰もがやりたがらない煩雑な事務作業のようだ。


 「この非生産的な作業に、貴重な週末の時間をどれだけ割くべきか?」と、いつもの仕事の感覚で考えてしまう自分に、陽介は苦笑した。

 この庭活動で、やっと「時間の余白」や「非効率の価値」を学び始めたばかりなのに、長年染み付いた価値観は簡単には消えてくれない。


 しかし、その「効率」を巡る自己問答は、すぐに外部からの力で打ち破られた。


 陽介がコーヒーを一口飲み、腰を上げようとした瞬間、テントの奥側、メインポールが集中する場所で、規則正しい動きと、カチリ、カチリという金属音が聞こえた。


「おい、翔。もう起きてたのか?」


 陽介が声をかけると、テントの影から、すでにTシャツに着替えた翔が、素顔で振り返った。


 翔は、テント本体とフライシートを繋いでいた細いロープを、慣れた手つきでテキパルスライダーから解放しているところだった。

 彼の足元には、抜き取られたペグが小さな山になっており、一つ一つ丁寧に土を拭き取られている。


 その動きには、陽介が朝から感じていたような「面倒くさい」という感情の影は微塵もなく、ただ静かな満足感と清々しさが満ちていた。


「うん。テントのロープ、絡まると嫌だから、先にやってる」


 翔の言葉はぶっきらぼうだが、それは「手伝え」と言われたからではなく、彼自身の判断と意思による自発的な行動だ。


 その姿を見て、陽介は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 この自発性こそが、昨晩のキャンプが翔にとって心から楽しかったこと、そしてこの庭活動が彼の心にも確かに根付いた、何よりの証拠だった。


 陽介の中の「効率」の亡霊は、息子の純粋な「行動力」の前に、静かに消え去った。



---



 テント本体を芝生の上に広げ、いよいよ畳む作業だ。


 陽介と翔は、向かい合って、二人で巨大なシートを四つ折りにし始めた。


 この作業には、微妙な連携と、タイミングの共有が必要になる。

 陽介が「こっちを引っ張るぞ」と声をかけると、翔は無言でシートをピンと張る。

 そして、ポールを抜く段階になると、翔は陽介が動くタイミングに合わせて、次に抜くべきポールを支えたり、ロープを緩めたりと、完璧なアシストを見せる。


「せーの」


 二人がかりでテントの最後の空気を抜き、端から折り込んでいく。

 この時、シートの摩擦音と、空気がシュウシュウと抜けていく音が、庭の静寂の中に響いた。


 陽介は、仕事場でプロジェクトを成功させるために、互いの能力を探り合いながら、煩雑なタスクを分担する「チームビルディング」の瞬間を思い出した。


 だが、今のこの共同作業には、上司と部下の間に存在するような、目に見えない上下関係や、評価への意識は一切ない。


 ただ、目の前の大きなテントを、可能な限り小さくするという共通の目的に向かう、純粋な連帯感だけがあった。


 やがてテントは、規定の収納袋に滑り込ませるのにちょうど良いサイズに、きっちり四角く畳み上げられた。

 翔が畳んだ最終形は、陽介が一人でやった時よりも遥かに綺麗で、無駄な膨らみが一切なかった。


「すごいな、翔。俺が畳むといつも最後はパンパンになるのに」


 陽介が素直に感心して言うと、翔は照れ隠しのように視線を逸らしながらも、少しだけ胸を張って答えた。


「部活でタープの設営と撤収をやるんだ。大会の時とか、グラウンドが広いから、いかに早く、綺麗に畳むか訓練されてる。テントもタープも、ポールを抜いた後、空気抜きながら畳むのが、一番『効率』が良いんだよ」


 陽介は目を見張った。


 翔の言う「効率」は、陽介が仕事で追い求めるような、時間やコストを最小化する冷徹な論理ではない。


 それは、道具の特性を理解し、最短の手順で完璧な状態に戻すための「実用的な技術」であり、彼自身の「得意分野」だった。


 翔は、自分の技術が、父の趣味、そして家族の活動に貢献できたことに、微かな誇りを感じている。


 その瞬間、陽介の趣味の庭が、息子の技術と知識を受け入れる、新たな活躍の場となったことを実感した。


 父子は、言葉ではなく、道具を介した共同作業によって、新たな信頼関係を成立させたのだ。



---



 テントを収納袋に入れようと、最後にシート全体をチェックしていた陽介は、フライシートの目立たない隅に、小さな亀裂があるのを発見した。

 長さにして二センチほどの、薄い引っ掻き傷のような破れだ。


「ああ、これ……」


 それは、数年前、このテントを初めて使ったキャンプで、予想外の強風に煽られ、陽介が慌ててポールを固定しようと無理に引っ張った際にできた傷だった。


 その後、忙しさに紛れて修理を怠り、ずっとそのままにしてしまった。


「このままじゃ、次の雨で水が染み込む。ちゃんと直さないと、道具が可哀想だ」


 陽介は、道具を愛するキャンパーとして、また、趣味の空間を管理する者としての「責任」を強く感じた。


 これまでの彼は、テントをただの「消耗品」として捉え、使えるうちは使い、壊れたら買い替えればいいという、ビジネスライクな考え方を無意識にしていたのかもしれない。


 陽介が修理キットを探し始めようとした、その時だった。


 翔が、先ほどテントを畳む時に使った小さな軍手ポーチの中から、さらに別の小さなケースを取り出した。

 中には、チューブやパッチ、そして銀色のロール状のテープが収まっている。それは、翔が自転車に乗る際に必ず携行している、ロードバイク用のパンク修理と応急処置キットだった。


「これ。防水で強度もあるテープだよ」


 翔はそう言い、亀裂のサイズを正確に測りながら、ロールからテープを切り取った。


 その動きは、無駄がなく、流れるようだ。彼は、亀裂の裏側にテープを貼り付け、その上から陽介の方にも「表側からも貼る?」と尋ねる。


「裏側だけで大丈夫だ。防水テープなら、これで水の侵入は防げる。すごいな、翔。そのテープ、自転車のパンク修理だけじゃなくて、テントの補修にも使えるんだな」


 陽介は、ただ感心するよりも、目の前の息子の「実用的な知識」と、道具に対する深い考え方に驚愕していた。


「うん。道具は、使うものに合わせて専用のものを買うより、一つのもので複数の問題に対処できる方が、荷物も減るし、いいだろ。それに、道具って、消耗品じゃなくて、修理して長く使うのが基本だから」


 陽介はハッとした。


 翔の言葉は、自分のロードバイクという「聖域」を通じて、道具との関わり方を学び、それを自然と家族の道具にも応用していることを示していた。


 陽介が仕事の効率で道具を見ていたのに対し、翔は「長く使い続けること」に価値を見出していた。陽介は、翔の「道具への愛情」と「責任感」に、改めて深く感銘を受け、自分の趣味への向き合い方を反省した。



---



 テントの撤収と補修作業が終わり、陽介が重くなった収納袋を運び出そうとした時、リビングから美和が出てきた。


 美和は、撤収作業の汗で少し汚れた陽介と翔の顔を見比べ、柔らかな笑顔を向けた。

 そして、陽介が運ぼうとするテントの袋を見て、立ち止まった。


「陽介さん。そのテント、もう押入れの奥にしまうのはやめにしましょう」


 陽介は動きを止め、美和の顔を見た。

 美和は以前、キャンプ道具に対して「邪魔になるから早く片付けて」という無言の圧力をかけていた時期があった。


 それは、陽介の趣味が生活を侵食することへの警戒心だった。


「押入れの奥ではなく、玄関横の納戸にしましょう。掃除の道具や、季節の靴が入っているあの場所よ。あそこなら、汚れないし、出すのも簡単でしょ?」


 陽介は美和の提案の真意を瞬時に理解し、息を呑んだ。


「押入れの奥」とは、家族の生活から切り離された、「隔離された場所」の象徴だった。


 陽介の趣味は、以前はその「隔離空間」に押し込められていた。


 しかし、今回美和が提案した「玄関横の納戸」は、家族の生活動線に組み込まれ、いつでも出し入れ可能な「日常との接点」を意味する。


 これは、美和からの明確な承認だった。


 陽介の庭活動、そしてキャンプ道具は、一時的な「非日常イベント」のためのものではなく、「いつでも再開できる日常の一部」として、家族の生活空間に組み込まれたのだ。


「いつでも出せるようにしておくわ。また、すぐに庭キャンプやりたいもの」


 美和はそう付け加え、陽介に心からの笑顔を見せた。


 その言葉には、陽介の趣味を尊重するだけでなく、家族の楽しみとして受け入れた、妻としての深い理解と愛情が込められていた。


 陽介は、美和のこの積極的な行動が、自分の孤独な趣味の「境界線」を、家族側から広げてくれたのだと知り、感謝の念で胸がいっぱいになった。


 それは、仕事でどんな成功を収めるよりも、陽介の人生の「幸福度」を高める、確かな一歩だった。



---



 すべての道具を美和が指定した玄関横の納戸に収め終え、庭の芝生の上には、テントの重みで一時的に草が寝た、大きなシートの跡だけが残った。


 陽介と翔は、日差しが最も強く当たる場所を避けて、庭のパラソル付きの椅子に並んで腰を下ろした。


 美和が、キッチンからキンキンに冷えた麦茶を二人に差し出す。


「お疲れ様。二人ともよく頑張ったわね」


 美和が家の中に戻った後、庭には再び静寂が訪れた。


 二人とも、一口、また一口と麦茶を飲み干す。麦茶の甘さと冷たさが、汗をかいた身体に染みわたる。


会話はない。


 「疲れたか?」と陽介が聞く必要もないし、「楽しかった」と翔が言う必要もなかった。


 以前、陽介と翔の間にあった沈黙は、互いに関心を抱かず、相手の領域に踏み込まない「疎遠な沈黙」だった。


 しかし、今この椅子に並んで座る二人の間に流れるのは、大きな作業を協力してやり遂げた者同士が共有する、満たされた「充実の沈黙」だった。


 陽介は、ふと翔の横顔を見た。


 翔は、芝生の跡をじっと見つめている。それは、次にまたこの場所にテントを広げる日を、思い描いているようにも見えた。


「道具は、使うだけじゃなくて、直して長く使うのが基本だから」


 先ほどの翔の言葉が、陽介の頭の中で反響する。翔がロードバイクを通じて学んだ「道具への責任感」が、今、この庭という家族の空間の「道具」を通じて、陽介と共有された。


 この共同作業と、道具への愛情の共有こそが、陽介が求めていた息子との「言葉のいらない繋がり」だったのだ。


 陽介は、この庭で、孤独な趣味の時間を過ごすことから始め、妻の承認を得て、ついに息子の「技術」と「心」を統合することに成功した。


 テントという「大きな道具」の撤収は、陽介の趣味が、もはや「個人」のものではなく、家族全員の「幸福の基盤」として完全に定着したことを確信する、静かなる祝祭だった。


 陽介は椅子にもたれかかり、青い空を見上げた。


 仕事の効率や、上司の視線など、どうでもよかった。


 彼の「幸福度」を測る最高の尺度は、今、隣に座り、無言で麦茶を飲む息子の横顔と、いつでも出せるように納戸に片付けられたテントの存在だった。

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