42歳、息子とテントを張る
陽介の庭活動が、ホットサンドの「映え」やハーブの「実用」といった形で、家族の日常に浸透し始めていた。
特に咲のストレートな関与とは対照的に、息子の翔は、依然として一線を引いているように見えた。彼は父の活動を静かに「承認」はしているが、積極的に「参加」するまでには至っていなかった。
翔の意識の中では、庭は父の趣味の空間であり、自分はロードバイクの整備に利用する「作業場」という認識だった。
父の趣味が家族の生活を豊かにしていることは認めていたし、以前のように父を疎ましく思う気持ちも消えていた。しかし、多感な高校生にとって、父の趣味にべったりと付いていくのは、まだ少し気恥ずかしいことだった。
そんななかの週末だった。
翔が所属する自転車部の強化合宿、つまり週末の遠征が、急遽、合宿先の台風の影響で中止になったのだ。ロードバイクの整備は前日に終えており、日曜の丸一日、翔は自宅で暇を持て余すことになった。
リビングでスマホを弄る翔の耳には、庭から微かに聞こえてくる、芝生を刈る陽介のエンジンの音と、ハーブの爽やかな香りが届いていた。
陽介は、佐々木や桜井慎の動画で得た知識と、咲から学んだ「演出」を意識しながら、庭を整えている。その活動は、もはや単なる「作業」ではなく、陽介自身の充実した「生活の表現」となっていた。
翔は、父の活動を窓越しに眺めていた。あのミニ焚き火台で淹れるコーヒーの香り、夜のランタンの温かい光。それらは、陽介一人だけの楽しみだったはずなのに、今は家の外から、家族の生活をじんわりと温めているように感じられた。
(別に、あそこに行くのは、ダサいことじゃないのかもな…)
翔は、暇を持て余す自分自身と、庭で充実した時間を過ごす父の姿を比較し、ある種の「羨望」にも似た感情を抱いた。
そして、父の趣味の道具の一つである、物置の奥に片付けられた家族用テントの存在が、ふと頭をよぎった。
その瞬間、翔はついに、父の庭活動に飛び込む、予想外の「具体的な提案」をすることを決意する。彼の「庭」への意識は、ついに「利用」から「関与」へと大きく傾き始めていた。
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陽介が芝刈りを終え、汗を拭いていると、リビングの窓が開く音がした。振り返ると、翔が立っていた。
いつもならスマホを操作しながら通り過ぎるか、せいぜい「お疲れ」と声をかけるだけの息子が、今日はまっすぐに陽介を見ていた。
「お父さん」
翔の表情は、いつになく真剣だった。
陽介は剪定ばさみを置き、反射的に背筋を伸ばした。何か部活でトラブルでもあったのか、と身構える。
「どうした、翔。遠征が中止になって暇を持て余してるんだろう」
陽介が冗談めかして尋ねると、翔は一瞬視線を芝生に落とした後、意を決したように口を開いた。
「あのさ、今週末、庭でテント張って寝てみない?」
陽介の思考は、一瞬フリーズした。
芝刈りの振動で耳がおかしくなったのかと思った。
「……え? テント、、、だって?」
「うん。遠征なくなったし、どうせ家でゴロゴロしてるだけだし。前に、お父さんが焚き火やってるときに、キャンプできたらな、みたいなこと言ってたじゃん。あのテント、まだあるんでしょ?」
翔の口から出た言葉は、陽介がずっと心の奥底に秘めていた「憧れ」、すなわち「庭キャンプ」の実現を具体的に誘うものだった。
それは、これまで父の活動を遠巻きに見ていた翔が、ついに父の趣味の空間に、最も大きな「道具」であるテントを設置し、時間を共有したいという、陽介の予想をはるかに超える「具体的な提案」だった。
「あるよ! あるに決まってるだろ!」
陽介は、驚きと興奮で声が上ずった。
かつて、孤独な庭で、どうにかして家族との接点を作ろうと必死になっていた自分が、今、息子の方から最高の形で誘いを受けている。
翔は照れくさそうに、再び芝生の方を見て言った。
「まぁ、たまにはいいかなって。家の外で寝るの、結構、非日常っぽいじゃん」
それは、思春期の息子からの精一杯の歩み寄りであり、父の趣味の空間を「利用」するのではなく、「体験」し、共有したいという素直な気持ちの表れだった。
陽介にとって、この一言は、これまでコツコツと庭を整え、火を扱い、家族の視線に耐えてきた全ての努力が報われた瞬間だった。陽介の顔には、自然と満面の笑みが広がった。
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翔の提案は、陽介の体内の血流を一気に加速させた。驚きの波動が収まると、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
それは、ただの「趣味の承認」ではなく、自分の孤立した活動が、家族の、しかも多感な時期の息子の心に、新しい「楽しみ」の種を蒔いたことへの、計り知れない感動だった。
陽介は感極まって、翔の肩に思わず手を置いた。翔は少しだけ身を引いたが、嫌がるそぶりは見せなかった。
「どのテントにする? タープも張るか? ランタンの配置も考えなきゃな。焚き火台は、今日は使わないほうがいいか? いや、焚き火がないと雰囲気が出ないか……」
陽介の頭の中には、一瞬にして完璧な「庭キャンプ」の配置図が広がり始めた。
芝生の上には、光を浴びたテントが立ち、その横には焚き火の炎が揺らめく。そして、その温かい光の中に、翔と自分がいる。かつて、リビングの端で燻っていた頃には、夢にも見なかった光景だった。
「タープとか、別にいらないだろ。めんどくさいし。とにかく、テントを張って、寝てみるだけ」
翔は冷静だったが、その口調にはどこか楽しそうな響きがあった。
陽介はすぐに家の中へと飛び込んだ。目指すは二階の奥、使わなくなった荷物が詰め込まれた押入れだ。
「あった、これだ!」
埃を被ったその大きなバッグは、十年ほど前に家族四人でオートキャンプに行った時に購入した、ドーム型のファミリーテントだった。
陽介が会社でのストレスに潰されかけ、家族旅行どころではなかった時期から、ずっとこの押入れの奥で眠り続けていた、いわば「家族の休止符」を象徴する道具だ。
重いバッグを階段から庭まで運び出し、ファスナーを開ける。中から出てきたテントの生地は、陽介の記憶よりも色褪せて見えたが、その素材に触れた瞬間、過去の楽しかった記憶が一気にフラッシュバックした。
美和が慣れない手つきでペグを打とうとして失敗し、大笑いしたこと。
咲がテントの中でぬいぐるみたちを並べて秘密基地を作ったこと。
そして、幼い翔が、テントの中で小さな懐中電灯の光に目を輝かせながら、夜の虫の音に耳を澄ませていたこと。
「随分と古いな。ちゃんと張れるかな」
翔は冷静にテントのポールを持ち上げ、陽介は嬉しさを隠せずに言った。
「大丈夫だ。道具っていうのはな、使ってこそ価値があるんだ。陽の目を見ない道具ほど可哀想なものはない。
こいつだって、また家族を繋いでくれるのを、ずっと待っていたんだよ」
この古いテントが、高橋が言う「効率」や「無駄」とは真逆の、「感情」と「思い出」という、自分にとって最も大切な価値を運んでくれる。
陽介は、このボロボロのテントを、最新の高価なキャンプギアよりも尊いものだと感じた。
「じゃあ、さっそく張ってみるか。お前と二人でやるのは、初めてだな」
陽介の言葉には、自然と「父親としての喜び」が滲んでいた。庭という空間は、今、彼と息子が初めて共同で取り組む、大きなプロジェクトの舞台になろうとしていた。
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陽介と翔が古いテントの設営準備に取り掛かる様子は、リビングから一部始終、美和と咲の視界に入っていた。
まず、陽介の尋常ではない熱意が伝わってきた。
彼は、普段の仕事の疲れを微塵も感じさせず、埃っぽいテントを広げ、熱心に説明書を読み込んでいる。
その隣で、翔は口数は少ないものの、真剣な眼差しで父の指示に従い、ポールを組み立てていた。父と息子の間で、久しく見られなかった「共同作業」の空気が流れている。
美和は、コーヒーカップを片手に、その光景をじっと見つめていた。陽介が引っ張り出してきたテントは、美和にとっても思い出深いものだった。
(あのテント。最後に使ったのは、咲が小学校に上がる前だったかしら。陽介さんは、仕事が忙しくなってから、ああいう「家族の遊び」を遠ざけていった。庭遊びを始めた頃は、また一人で籠ってしまうんじゃないかと心配したけれど……まさか、こんな形で、あのテントがまた日の目を見るなんて。)
美和は、陽介の趣味が、孤立を深めるどころか、逆に止まっていた「家族の思い出」を再起動させ、父子の間に新しい繋がりを生み出していることに、静かな感動を覚えた。
庭は、陽介一人の「避難所」から、今や家族の「記憶を共有する舞台」へと変貌しつつあった。
「なんか、楽しそうだね。男同士でテントとか、秘密基地みたい」
咲の言葉には、羨望のニュアンスが混じっていた。彼女は、父の活動を「映え」の視点から指導し、その成果を共有したばかりだ。父が自分の技術を受け入れてくれた喜びを感じているからこそ、兄と父が二人きりで、自分には未知の「非日常」を共有しようとしていることに、わずかなジェラシーを感じていた。
「お兄ちゃんだって、部活が休みじゃなかったら、こんなことやらないくせに」と茶化す咲に、美和は微笑みながら答える。
「そうね。でも、陽介さんが庭を整えていなかったら、翔だって誘わなかったわ。陽介さんの地道な努力が、こういう『きっかけ』を作ってくれたのよ」
母の言葉は、陽介がこれまで積み重ねてきた「非効率」な時間こそが、家族間の「効率的なコミュニケーション」を生み出す土台となったことを示唆していた。
美和は、今夜の庭キャンプが、陽介と翔の関係を決定的に変えるだろうという予感を抱きつつ、静かに二人の見守り役に徹することにした。この庭は、確実に家族全員にとっての「期待の場」となっていた。
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「よし、やるぞ!」
陽介は、テントの収納バッグから、色褪せた生地と、バラバラになったポール、そして説明書を取り出した。説明書は古く、紙が黄色く変色していた。
翔はロードバイクの整備で培った冷静さと器用さで、プラスチックのジョイント部分などを確認する。
「これ、どうやって組むんだっけ?なんかポールが多すぎるぞ」
十年以上前の記憶をたどり、陽介は組み立て方を思い出そうとするが、若い頃のようにすぐに身体が動かない。
そこで、翔の得意分野である「構造」の理解と「道具」の取り扱いを頼ることにした。
「翔、このポールと、この袋に入ってるショックコードの色を見比べてくれ。テントの屋根になる部分と、壁になる部分で、長さが違うはずだ」
翔は言われた通りに、几帳面な性格を発揮し、ポールを色分けして並べ始めた。翔は、自分の持つ「専門的な知識」が、父の活動に役立っていることに、隠せない満足感を覚えているようだった。
「これ、多分、この銀色のやつがクロスして、一番テンションがかかるところだ。この青い紐は、この端の穴に入れるんだね」
翔は、陽介が昔苦戦していたポールとテント本体を繋ぐ工程を、まるでパズルを解くかのように、正確にこなしていく。陽介は、息子の成長ぶりに目を細めた。自分が一方的に教えるのではなく、息子が持っている別の「知識と技術」を受け入れることで、作業は驚くほどスムーズに進んだ。
テントという「大きな道具」を通じた、父子の初めての共同作業。
陽介は、単に設営を手伝ってもらっているだけでなく、翔に設営のコツを教えたり、テントの歴史について話したりすることで、久しぶりに父親としての「役割」と「経験」を共有できていることに、深い満足感を得た。
「昔、家族でキャンプに行った時、このテントの中で、お前はカブトムシの絵を描いていたんだぞ」
「そんなの覚えてないよ。…でも、この布の感じ、なんか懐かしいかも」
陽介と翔の間に交わされる会話は、道具の使い方や過去の記憶という、具体的な「素材」に彩られていた。
それは、かつて陽介がリビングで求めていた、抽象的な「心の繋がり」ではなく、物理的な道具と行動を通じて得られる、確かな「共有感」だった。
日が傾き始める頃、芝生の上に、あの古いドーム型テントが堂々と立ち上がった。陽介の庭のシンボルだったミニ焚き火台と、ランタンの光は、今やこの巨大なテントの脇役となり、その存在感を強調していた。
「できたな、翔。最高の秘密基地だ」
「まあな。思ったより、庭でかいんだな」
翔の言葉に、陽介は笑った。
庭は、今夜、彼ら父子にとっての、特別な「非日常」の空間として完成したのだ。




