42歳、人生初コメ
週明け、会社に出勤した陽介は、佐々木に捕まった。佐々木は、興奮気味に身を乗り出してきた。
「佐藤さん、SNSで見ましたよ! 奥さんとお子さんたちと庭でご飯! それも魚の塩焼きとお味噌汁っていう、めっちゃ日常のやつ! 最高じゃないっすか!」
佐々木は、陽介が家族で庭を使っていることに、心底からの羨望を覚えているようだった。陽介は、家族のささやかな団欒を佐々木に伝えることに、以前は感じなかった誇らしさを感じた。
「ああ、七輪で魚を焼くとな、やけに美味いんだ。普通の味噌汁も、あのランタンの光の下だと、特別な味に感じるんだよ」
陽介はそう言いながら、ランタンの光の下で美和の味噌汁を啜った時の、温かな満足感を思い出していた。
佐々木は両手を合わせて拝むような仕草をした。
「いやー、ヤバいっすね。僕も先週、焚き火だけはやってみたんですけど、やっぱ寂しいっすよ。横で奥さんがお魚焼いてくれてるなんて、もう『家族キャンプ』じゃないですか!」
佐々木は興奮のあまり、声を潜めるのを忘れそうになり、周囲を気にして慌てて口元を覆った。
「で、佐藤さん、次の目標はこれっしょ!」
佐々木は、自分のスマホを取り出し、人気アウトドア系YouTuber、桜井慎の最新動画を陽介の目の前に突きつけた。
「桜井さんの最新動画で、次は庭でプロジェクターやってましたよ!
白い壁に映画を映して、芝生に寝転がって家族で観るんです。ビール飲みながら。家族で映画とか、最高じゃないっすか! 佐藤さんち、庭の壁、ちょうどいいじゃないですか!」
佐々木の熱量は、陽介の趣味への熱意をさらに掻き立てた。
かつては孤独だった趣味が、今や同僚との共通の話題になり、さらには憧れの存在である桜井慎の活動と結びついている。佐々木の提案は、陽介の次の「庭での家族との共有」への明確な目標となった。
陽介は「プロジェクターか…」と呟き、そのアイデアにワクワクする自分を認めた。
佐々木とのこの「庭談義」は、単なる雑談ではなく、陽介の庭活動が「外部」へと繋がり、社会的な承認と連帯感を生み出していることの証明でもあった。
孤独な趣味ではなく、共有され、発展していく「文化」になり始めているのだ。
---
佐々木と別れた後、陽介は自分の席に戻ったが、頭の中は「庭でプロジェクター」のアイデアで満たされていた。
帰宅後、彼は早速佐々木が見せてくれた桜井慎の最新動画を、改めて自宅のPCで視聴した。
動画の中で、桜井慎は、庭での映画鑑賞を紹介する傍ら、しみじみと語っていた。
「結局ね、人生って『効率』だけじゃないんですよ。仕事で成果を出すために、週末に必死で勉強したり、資格を取ったり。それも大事だけど、僕が思うのはね、『無駄な時間こそが人生のスパイス』なんです」
陽介はハッとした。
これは、彼が佐々木に熱弁した「余白の価値」と、ほとんど同じ思想だった。
自分の内側から生まれた感情や哲学が、憧れで、遠い存在だと思っていたトップクリエイターの言葉と響き合っている。陽介は、自分が単に流行を追っているのではなく、一つの確かな価値観の上に立って庭活動をしているのだと、再認識した。
陽介は、佐々木に言われた「庭での日常の和食」の経験を、誰かに伝えたいという衝動に駆られた。そして、思い切って、桜井慎の動画のコメント欄を開いた。これまで、動画を見る専門で、一度もコメントなどしたことのない領域だった。
指先が緊張で震える。
それでも、湧き上がる自己肯定感と、「家族との共有」への喜びが背中を押した。
陽介は、自分のアカウントで、簡潔に、しかし熱を込めて書き込んだ。
「桜井さん、いつも素晴らしい動画をありがとうございます。
『無駄な時間こそスパイス』、心に響きました。
私も最近、庭で育てたハーブを家族とシェアしたり、妻の日常の料理を庭に持ち込んで食べるようになりました。
小さな庭ですが、家族との距離がぐっと縮まり、生活に潤いが出てきました。道具を愛でるだけでなく、ハーブという『生き物』を、家族との『共通の素材』として共有できることが、何よりも幸せです」
陽介はコメントを送信した。
それは、桜井慎へのメッセージというより、自分のこれまでの軌跡と、家族との和解の成果を、一つの「社会的な場」に記録する行為のように感じられた。彼は、自分の内側にあるものが、確かに外部の世界と繋がったことを感じ、高揚感を覚えた。
---
翌朝、陽介は会社に着くとすぐにPCを立ち上げた。無意識にYouTubeを開き、昨日コメントを書き込んだ桜井慎の最新動画のページへ飛んだ。
コメント欄を見ると、陽介の書き込みの横に、見慣れないアイコンと「いいね」の通知が一つ増えている。そして、その通知を開いた瞬間、陽介の心臓は激しく高鳴った。
彼のコメントの下に、まさしく桜井慎の公式アカウントからの返信が書き込まれていたのだ。
Shin_Sakurai_Official:
Satoh_Yosuke_42さん、素敵な庭ですね!ご家族との時間、大切にしてください。ハーブを共通の素材に、という発想、最高にクリエイティブで羨ましいです。私も庭での和食、試してみますね!
「うそだろ…」
陽介は思わず声に出して呟いた。デスクの向こうにいる佐々木が、何事かとこちらを覗き込んだが、陽介はそれどころではなかった。
憧れの存在、一介のサラリーマンである陽介の「庭遊び」の師とも言える桜井慎から、直接メッセージが届いたのだ。
しかも、「クリエイティブ」という、仕事ではなかなか聞くことのない、最高の褒め言葉まで添えられている。
陽介の頬は熱くなり、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。これは単なる有名人からの返信ではない。自分の、誰にも理解されないかもしれないと思っていた「孤独な」趣味が、外部の、しかもトップランナーに「承認」された瞬間だ。
桜井慎の言葉は、高橋上司の「無駄だ」という批判を、一瞬にして打ち消した。
この「余白」の時間は、クリエイティブであり、家族との大切な絆を生み出している。陽介は、仕事中であるにもかかわらず、その高揚感を隠しきれず、そっと胸に手を当てた。
佐々木が興味津々で近づいてきたが、陽介は静かに画面を閉じ、熱を冷ますようにコーヒーを啜った。この喜びは、まず家族に伝えなければならない。
彼らの存在があってこその「承認」なのだから。
---
帰宅した陽介は、リビングでくつろぐ美和と咲に、今日の出来事を話すために、少し興奮気味にPCを開いた。翔は自室で勉強中だった。
「美和、咲。これを見てくれ」
陽介は、桜井慎からの返信が書かれたYouTubeのコメント欄の画面を、美和と咲に見せた。
美和は、陽介が動画にコメントしたこと自体に少し驚いたようだったが、すぐにその内容に目を通した。
「へえ、すごいね。あの桜井慎さんから、直接返信が来たんだ」と、美和は素直に驚きを口にした。「『素敵な庭』で、『クリエイティブ』か。あなたの趣味、外の人からもちゃんと評価されてるじゃない」
美和の言葉には、陽介がこれまで抱いていた漠然とした不安が払拭されたことへの、安心感が込められていた。陽介の活動が、客観的な「社会的承認」を得たことで、美和の安心感は確固たるものになった。
次に画面を覗き込んだ咲が、目を丸くした。
「え、あの有名な桜井さんから? マジか! お父さん、ちょっとすごいじゃん!」
咲の言葉は、美和とは違い、純粋な驚きと、父親への新しい評価を含んでいた。咲にとって「桜井慎」は、同年代の間で絶大な影響力を持つアイコンであり、そのアイコンから父親が認められたということは、陽介の趣味が「ダサいおじさんの自己満」ではなく、「イケてるトレンド」の延長線上にあることを意味した。
「この人、コメント全部に返信してるわけじゃないんでしょ? お父さんの庭、本当に褒められてるんだよ」
咲の、素直で偽りのない承認の言葉は、陽介にとって美和のそれ以上に響いた。娘の心の中で、自分の存在が、少し格上げされたように感じた。
陽介は、誇らしさと照れくささが混じった感情で、「まあ、庭でハーブを家族で使ってるって書いたからかな」とごまかしたが、心の中では確信していた。
この「外部からの承認」は、陽介個人の自己肯定感を満たしただけでなく、家族全員の意識に影響を与えた。陽介の趣味は、もはや「個人の領域」ではなく、家族の誇りであり、外部社会と家族をつなぐ「共有物」へと変化し始めている。
この経験が、陽介の自己肯定感を確固たるものにし、今後の家族への働きかけに、さらに自信を持って臨む原動力となった。
---
桜井慎からの返信と、それに対する美和と咲の反応を目の当たりにし、陽介は深い安堵と、確固たる自信を手に入れた。
「自己満足」という言葉は、しばしば趣味の活動を矮小化する。以前の陽介にとって、庭遊びはまさにそうだった。
家族に気兼ねし、高橋には軽蔑され、自分だけの殻に閉じこもるための「避難所」。しかし、今やその認識は完全に変わった。
佐々木という同僚との「共感」は、陽介の趣味に「コミュニティ性」を与えた。仕事のストレスや高橋の効率至上主義から解放されるための、連帯の場となった。
そして、桜井慎という「外部の権威」からの「承認」は、陽介の活動に「社会的価値」を与えた。
彼が庭で追求している「余白の価値」や「クリエイティブな時間」が、単なる個人的な逃避ではなく、広く肯定されるべき価値観であると証明されたのだ。
最も重要なのは、この「外部の承認」を、美和と咲が素直に受け入れたことだ。
美和は、「あなたの趣味は、世間から見ても意義のあるものなのね」と安心し、咲は、「お父さんの趣味は、私の知っているイケてる世界と繋がっている」と再評価した。
これにより、陽介の趣味は、家族内での地位を確立し、家族の生活の一部として「内部的な承認」も獲得した。
陽介の心境は一変した。高橋の効率論に怯える必要はない。
庭で土を触り、火を操り、ハーブを育て、家族と笑う時間は、次の営業目標を達成するための「戦略的な充電」どころではない。それは、陽介自身が人間として、父親として、そして夫として、充実した人生を送るために不可欠な「本質的な活動」なのだ。
単なる「自己満足」から、外部のコミュニティと家族という内部の両方で「社会的承認」を得たことで、陽介の自己肯定感は確固たるものになった。
この確信を胸に、陽介は「次は、咲の言っていた通り、もっと映えるホットサンドを極めて、その写真を桜井慎に送ってやろうか」と、新しい、遊び心のある目標を立てた。
彼の庭活動は、単なる道具の性能追求から、家族の感性や外部の評価をも取り込む、クリエイティブな領域へと深化し始めたのだ。




