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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第3章「息子との交流」

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32/85

42歳、家族と晩御飯を食べる

 週末の土曜日。

 陽介は、慣れた手つきで焚き火台に薪を組み、火を起こした。最近の庭活動は、芝生の手入れやハーブの栽培といった「育てる」作業と、「火を使う」料理の時間が半々になっている。


 この日の陽介のメニューは、土鍋で炊く鶏肉とごぼうの炊き込みご飯に、鉄板で焼いた厚切りベーコン。コーヒーミルで挽いた豆で淹れた食後のコーヒーまで含めれば、それなりに充実した「庭飯」のレパートリーになっていた。

 しかし、陽介はどこか物足りなさを感じていた。


(美味いことは美味いんだ。この非日常感も最高だ。)


 陽介は、焚き火の炎を見つめながら、自己評価する。だが、彼の作る料理は、どれもこれも「キャンプ飯」の域を出ていなかった。

 焚き火や七輪といった特別な熱源に頼った、簡単で、ワイルドで、手軽なものばかり。ホットサンド然り、ソーセージ然り。それはそれで楽しいのだが、家族の食卓の中心、つまり「日常の豊かさ」とは、まだ少しズレている気がしていた。


 美和や子供たちがリビングで食べる、美和が時間をかけて作った味噌汁や、丁寧に煮付けた魚や、栄養バランスを考えた野菜の小鉢。陽介が庭で作る料理は、それら「日常の食卓」の代わりになるような、精神的な満足感や家庭の温かさを満たす「ちゃんとした食事」とは程遠い。


「結局、僕の作ってるのは、ちょっと上等な『お遊び飯』なんだよな……」


 陽介は、土鍋の蓋から立ち上る湯気を見つめながら、そう独りごちた。

 家族との共有を目指してきた陽介の趣味は、道具や空間の面では深く浸透しつつあったが、「食」という最も日常的で重要な要素においては、まだ美和のキッチン、つまり「日常」の領域に及んでいない。


 陽介は、自分の「庭飯」が、美和の「手料理」と並び立つには、何か決定的に足りないものがあることを、肌で感じていた。

 それは、「日常」の温かみと、家族の生活を支えるための「愛情」かもしれない、と。七輪の上に置かれた土鍋の横で、陽介はぼんやりと、リビングの明かりと、そこから漏れる家族の楽しそうな声を眺めるのだった。



---



 陽介が、いつものように土鍋を七輪の上に据え付け、火加減を調整していると、リビングの掃き出し窓が静かに開いた。陽介は振り返らずに、「今日はベーコンが焦げないように、徹底的に火をコントロールするぞ」と意気込む。


「陽介さん」


 背後から聞こえたのは、穏やかだが、いつになく決意を秘めたような美和の声だった。

 陽介は七輪から目を離さず、「どうした、美和。また煙がこっちに来てるか?」と尋ねた。


 美和は、陽介のそばまで歩み寄り、庭のコンクリートの叩きの上に立った。彼女は陽介の「お遊び飯」の様子を、リビングの窓越しにずっと見ていた。

 そして、陽介が最近、自分の作る料理が「日常」に届いていないことに、少し落ち込んでいるのを感じ取っていた。


「今日はね、私も庭で食べようかな、と思って」


 美和の突然の提案に、陽介は驚き、思わず七輪から顔を上げた。


「え?美和が?庭で?」


 陽介の顔には、隠しきれない高揚感が浮かんだ。美和は、これまで庭で陽介と一緒にコーヒーを飲んだり、火を囲んだりすることはあったが、「夕食」を庭で、しかも自分の作った料理で、というのは初めてのことだった。


「うん。庭で食べるものって、陽介さんが作る、ちょっとジャンクなものか、ホットサンドか、ばかりでしょう?」美和は少し意地悪な笑みを浮かべた。「たまには、ちゃんとした和食を、この場所で食べてみてもいいんじゃないかと思って。」


 美和は続けた。「今日は、お味噌汁と魚の塩焼き。七輪で焼く魚は美味しいでしょうし、お味噌汁なら外で飲んでも冷めにくい。それに、たまには、リビングから離れて、家族四人で新鮮な空気を吸いながらご飯を食べるのもいいと思って。」


 美和の提案は、単に場所を変えるというだけでなく、陽介の「非日常」の空間に、彼女の「日常」の料理を「持ち込む」という、明確な意図があった。

 陽介の趣味の境界線を越え、庭という空間を、家族全員の「食」の場として正式に承認する行動だった。


 陽介は、火を起こすための団扇を持ったまま、呆然と美和を見つめていた。彼の心の奥底で、何かが静かに、しかし確実に崩れていくのを感じた。

 それは、自分と家族を隔てていた、見えない壁の残骸だった。


「あ、ありがとう、美和。それは……すごく、嬉しいよ」


 陽介は、そう言うのがやっとだった。

 美和は静かに微笑み、「じゃあ、準備するわね」と言い、キッチンへと戻っていった。陽介は、目の前の七輪の炎が、急にこれまでとは違う、もっと温かい光を放っているように感じた。



---



 美和は、提案通り、リビングの食卓から食器を運び出した。

 陽介が庭で使うチタン製のマグカップやステンレスの皿ではなく、普段家で使っている陶器の茶碗や小鉢、そして木製の箸が、庭の小型テーブルの上に並べられていく。

 かつて、美和がマグカップを庭に持ち出した時よりも、もっと明確な「日常」の持ち込みだった。陽介の趣味の空間に、家庭の生活感が丁寧に上書きされていく。


 陽介は、焚き火台の横に七輪を移動させ、美和のために火を熾していた。美和はキッチンで下処理を終えたアジの開きを網に乗せ、七輪の上に置いた。ジュウジュウと、脂が落ちる香ばしい音と煙が、庭に立ち込める。陽介の作る「庭飯」とは違う、純粋な「夕食の匂い」だった。


 陽介は土鍋の蓋を開け、炊き込みご飯の出来を確認する。美和は、ステンレスの寸胴鍋に入れた熱々の味噌汁を、庭のテーブルまで運んできた。


 夜の帳が下り、陽介が点したオイルランタンが、食卓を温かいオレンジ色で照らす。庭の隅に配置されたランタンの光は、決して明るすぎず、陶器の食器と湯気の立つ味噌汁、そして七輪の炎を、情緒的に浮かび上がらせた。


「さあ、ご飯よ」


 美和の声に促され、翔と咲も、自然な様子で庭に出てきた。

 彼らは、いつものリビングの席順とは関係なく、それぞれ好きな場所に腰を下ろした。


 庭で食べる美和の「日常の、ちゃんとした和食」——ふっくらと焼けた魚の塩焼き、出汁の香りが立ついつもの美和の味噌汁、そして陽介が炊いた炊き込みご飯。それらをランタンの光の下で食べる。


 陽介は、魚を箸で分けながら、いつもの美和の味噌汁が、こんなにも格別に美味しく感じられることに驚いた。

 空気が違う。光が違う。

 そして、食卓が、たった数メートル外に移動しただけで、家族の間の距離感も変化したように感じられた。それは、単なる「非日常」ではなく、「日常の再発見」だった。



---



 ランタンの柔らかな光に照らされた庭の食卓で、家族四人は無言で魚の塩焼きと炊き込みご飯、そして美和の味噌汁を味わっていた。

 誰もが特別な感想を口にしないのは、それがいつもの「日常の味」であり、そこに過度な装飾が必要ないからだ。ただ、庭の空気と、七輪の赤火が、その「日常」を格段に美味しく、そして豊かに演出していた。


 静寂を破ったのは、いつも通り咲だった。


「ねぇ、お父さん」


 咲は、美和が焼いた魚の身を丁寧に崩しながら、陽介に顔を向ける。


「うん?」

「お父さんの焦げたホットサンドより、お母さんの魚の方が断然美味しいけどね」


 咲は、いつものように茶化した口調で言ったが、その笑顔には悪意はなく、場を和ませる明るさがあった。

 陽介は苦笑いしながらも、「そうだろうな。でも、ホットサンドも修行中だ」と返す。


「でもさ、この魚、すごく美味しい。外で食べるって、キャンプみたいでテンション上がるね」と咲は続けた。


 彼女が言った「キャンプみたい」という言葉は、庭が彼女にとって「非日常の楽しみ」を提供してくれる空間として機能し始めていることの証だった。


 翔も、黙々と食事をしていたが、静かに美和に向かって声をかけた。


「お母さん、味噌汁、温まるね。美味しいよ」


 翔の言葉は短いが、その素直な賞賛に、美和は嬉しそうに微笑んだ。


 特別な料理ではない。豪華なディナーでもない。

 しかし、この瞬間、陽介の趣味の場所であった「庭」という空間が、家族の「会話」と「笑顔」を生む、新しいリビングルームとして機能していることを、陽介は実感した。

 リビングの堅苦しい空気や、食卓でのスマホいじりとは無縁の、開放的で、自然体な時間がそこにあった。


 陽介はランタンの炎をじっと見つめた。

 火の揺らめきは、家族の会話のリズムと同期しているようだ。この空間が、形式的な挨拶や義務的な会話ではなく、本音と笑顔を引き出してくれる。庭は、陽介一人のシェルターから、家族全員の「心のリセットボタン」へと、その役割を変化させていた。この空間にいる家族の表情は、家の中にいる時よりもずっと柔らかく、親密に感じられた。



---



 食事が終わり、片付けを終えた後も、家族はすぐにはリビングに戻ろうとしなかった。

 翔はランタンの光の下で静かに水を飲み、咲はハーブの鉢植えに手を伸ばして香りを嗅いでいる。美和は、七輪の火が落ち着くのを見守りながら、満足そうな表情で陽介を見た。


「美味しかったわ。ありがとう、陽介さん」


 陽介は「いや、美和の料理のおかげだよ」と素直に返した。

 彼の心の中には、かつて美和に遠慮して、庭の活動をひっそりと行っていた頃の空虚さが、完全に消え去っているのを感じていた。


 庭は、非日常の道具や火遊びを楽しむ場所から、明確に「日常をより豊かにする場所」へと変化した。

 その決定的なきっかけは、美和が持ち込んだ「日常の料理」だった。

 美和の味噌汁が庭のテーブルに置かれた瞬間、陽介の趣味の境界線は、家族の生活の中心である「食」へと深く食い込んだのだ。


 これまでの陽介の活動は、孤独な男の「自己満」から、家族の「楽しみ」へと昇華してきた。

 そしてこの夜、美和が家庭の温かい和食を持ち込んだことで、それは「家族の幸福の共有」という、最も深いレベルに到達した。特別なことをしなくても、ただいつもの食事が、いつもの家族が、場所を変えるだけで、これほどまでに満たされた時間になるのだという発見。


 陽介は、焚き火台の小さな炎を見つめながら、美和に尋ねた。

 「また、庭でご飯、食べてくれるか?」


 美和は陽介の目を見て、微笑みながら言った。


「ええ、もちろん。時々ね。お味噌汁が冷めないうちに食べられる季節の間に」


 その言葉は、陽介の趣味を「期間限定のイベント」ではなく、「家族の選択肢の一つ」として正式に認めたものだった。

 陽介にとって、これは何よりも大きな承認だった。家族団欒の光景が、彼の庭活動によって生み出されている。


 この瞬間、陽介の趣味は、ただの道具や空間の確保に留まらず、家族の生活の質を高め、コミュニケーションを円滑にするための「装置」としての役割を確立した。「家族の関与」は、この「日常の食卓」という形で、一段階深く、確固たるものになった。

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― 新着の感想 ―
陽介が始めたちょっとした事が趣味になり家族との繋がりになり、温かみが取り戻せる とてもいいお話ですね こうした状況でも不器用に黙り込む父親って、きっと多いと思います もうちょっとでも家族とちゃんと対話…
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