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42歳のすみかは庭になりました  作者:
第1部 第3章「息子との交流」

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28/85

42歳、ハーブを植える

 前回の週末、陽介は芝生への本格的な愛情を自覚し、すでに目土や肥料をオンラインで手配した。芝生という「生き物」を育てるという、長期的な目標ができたことで、彼の庭活動はさらに奥行きを増した。


 芝生の手入れ用品が届くまでの間、陽介は庭の他の生命にも目を向ける余裕ができた。

 そこでふと目に入ったのが、以前、娘の咲が「お父さんの庭の殺風景なアクセント」として、配置をいじってくれた小さな鉢植えのハーブだった。


 陽介がこれまで興味を持っていたのは、火を起こすための「道具」、そして火で調理する「食」という、やや男性的な側面が強かった。

 しかし、このハーブの鉢から漂ってくる、清涼感のある香りは、彼の五感を穏やかに刺激した。葉のグリーンは鮮やかで、手入れも比較的容易そうだ。


(ハーブか…焚き火やコーヒーとは違う、もっと日常に近い、柔らかな「癒し」があるな)


 陽介は、ハーブを育て、その香りを生活に取り入れることに魅力を感じ始めた。

 そして何より、妻の美和や、娘の咲が、料理や飲み物といった「実用的な」形で、自分の趣味の成果を享受してくれるのではないか、という期待があった。


 週末の午後、陽介はホームセンターへ向かった。園芸コーナーで、彼は数種類のハーブの苗を吟味する。


 選んだのは、定番のミント。これは清涼感があり、飲み物にも使いやすい。次に、料理によく使われるバジル。そして、リラックス効果が高く、さわやかな香りのレモンバーム。


 陽介が選ぶ基準は、明確に「実用性」に傾いていた。「見て楽しむ」だけでなく、「使って楽しむ」ことで、家族との接点を作ろうという戦略的な意図があった。


「これなら、美和の料理にも使えるし、咲も何かと活用できるかもしれない」


 レジでハーブの苗と、植え付け用の小さなプランター、そして新しい土を購入した陽介の心は、芝生への「投資」とはまた違った、家族の生活に彩りを与えることへの「投資」の喜びで満たされていた。彼の庭活動は、着実に、家族の日常の中へとその領土を広げ始めていた。



---



 陽介は、ホームセンターから持ち帰ったミント、バジル、レモンバームの苗を、庭のコンクリートの叩きの上で並べた。小さなプラスチックのポットに入った苗は、土の中ですでに根を張り始めており、陽介がこれからプランターという新しい「住処」を用意してやる番だった。


 彼は、芝生用の重厚な目土や肥料とは違う、軽い培養土を大きなバケツに入れ、小さなスコップでプランターへ移していく。


 土を触る感触。

 それは、剪定バサミや火打ち石といった硬質な道具を触るのとは全く異なる、柔らかく、温かい感触だった。土の微かな湿り気や、有機的な匂いが、陽介の指先に伝わってくる。


 デジタルな情報を常に追いかけ、数字と論理に縛られる平日の仕事とは、最も遠い場所にある時間。五感、特に触覚と嗅覚が支配する、穏やかな時間だった。


 陽介は、苗を優しくポットから取り出し、根を崩しすぎないように注意深く新しい土に植え付けた。


 特にレモンバームの葉をそっと触ると、ふわっとした柑橘系の爽やかな香りが陽介の鼻腔をくすぐった。ミントはさらに強く、一瞬で頭の中の雑念を吹き飛ばすような清涼感がある。


(生命そのものの香りだ)


 全ての植え付けが終わり、陽介はプランターに水をやった。水が土に染み込み、プランターの底から澄んだ水が流れ出る。その様子を見届けると、陽介はレモンバームの葉を数枚摘み取り、家に戻って熱いお湯を入れたマグカップにそっと浮かべた。


 「ハーブティー」と呼ぶにはあまりにも素朴な、ただの「ハーブ入りのお湯」。


 それを庭に戻り、焚き火台の横に座って飲んだ。熱い湯気と共に立ち上る、レモンバームのピュアな香り。一口飲むと、かすかな酸味と、口の中に広がる柔らかな甘みが、彼の全身の緊張を解きほぐした。


(これが、自分で育てたものの力か…)


 陽介は、道具や火遊びが与えてくれる「非日常の興奮」とは違う、「生命の成長」と「香り」がもたらす「穏やかな癒し」を発見した。この素朴で平和な時間が、疲れた陽介の心を静かに満たしていくのだった。



---



 陽介がハーブの植え付けをした日の夕食。美和は、いつもの定番であるトマトサラダに、陽介が摘んだばかりのバジルの葉を添えて食卓に出した。


 食卓を囲む四人。咲はスマートフォンを触りながら、いつものように無関心を装っていたが、トマトサラダにフォークを伸ばした瞬間、わずかに顔を上げた。


「ん?」


 咲は、トマトを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。そして、もう一口、今度はバジルを葉ごと口に含む。


「これ、バジル?」


 咲は、美和でも陽介でもなく、独り言のようにつぶやいた。その口調には、いつもの冷めたトーンではなく、どこか純粋な疑問と興味が混じっていた。


 美和が答える。


「そうよ。お父さんが今日、庭に植えたばかりのバジル。採れたてだから、香りがいいでしょう?」


 咲は、陽介の方を一瞥したが、すぐに視線をサラダに戻した。しかし、次に放たれた言葉は、陽介にとって予想外の、具体的な肯定だった。


「…うん。このバジル、美味しいね。いつもと香りが違う」


 その言葉は、陽介がこれまでスーパーで買ってきた、あるいは乾燥させたバジルと、自分の庭で、自分の手で植えたバジルとの間に、娘が明確な「差」を認めたということだ。


 陽介は、焚き火道具やコーヒーミルといった「無機物」への投資とは異なり、「生命」を育てるという活動の成果が、初めて娘から具体的な形で認められたことに、静かな感動を覚えた。


(火遊びや道具だけじゃなく、「育てる」ことも、ちゃんと家族に届くんだ…)


 翔は、相変わらず無言で食事を続けていたが、咲がバジルを評価したのを見て、自分もバジルを添えたトマトを口に運び、「ああ、確かに」と短く同意した。


 この日、ハーブという「実用的な趣味の成果」が、陽介と咲、そして家族の間の距離を、わずかだが確実に縮めた。咲が、初めて父の趣味の成果に対して「美味しい」「香りが違う」という、具体的な言葉で関心を示した瞬間だった。

 それは、娘の「食」への興味を通じて、父の庭活動が家庭生活に一歩踏み込んだ証拠だった。



---



 バジルの一件から数日後。

 陽介は、週末の朝、庭でレモンバームのプランターを点検していた。新しい葉が出てきていないか、水やりは適切か、まるで幼い子どもを世話するように、一つ一つの変化を丹念に観察する。この「育てる」作業は、陽介に深い満足感を与えていた。


 その時、リビングの掃き出し窓がガラリと開き、娘の咲が顔を出した。


「ねえ、お父さん」


 陽介は、驚きと共に、期待で胸を高鳴らせた。これまでは、美和を通じてしかコミュニケーションをとろうとしなかった咲が、自ら物理的な距離を詰め、話しかけてきたのだ。


「どうした、咲?」


 咲は、窓枠に肘をかけ、庭のミントの鉢を指差した。


「あのミント。ちょっと切ってくれる?」


 陽介は一瞬、言葉を失った。てっきり「うるさい」「邪魔」といった苦情か、せいぜい「水やりを手伝って」という程度の依頼かと思っていたからだ。


「ミント? 何に使うんだ?」陽介は尋ねた。


 咲は少し照れくさそうに、しかし明確な声で言った。


「今日、友達と家でタピオカドリンク作る約束してるの。あのミント、トッピングに使いたいから。市販のじゃなくて、お父さんが育ててるやつがいい」


 陽介の頭の中には、かつて自分が一人で淹れたコーヒーや、土鍋ご飯といった「自己完結型」の趣味の成果しかなかった。

 それが今、娘の日常の、しかも「友達との楽しみ」という、最も華やかな部分に、自分の育てたハーブが組み込まれようとしている。


 これは、陽介の趣味が、娘の「実用的な用途」での依頼を受けた、記念すべき瞬間だった。陽介の活動が、娘の生活の「楽しみ」の一部として初めて具体的に組み込まれたのだ。


 陽介はすぐに立ち上がり、ハサミを手に取った。


「ああ、いいぞ! どれくらいの長さがいい? 新鮮なのが一番だ」


 陽介は、最も葉が生き生きとしたミントの枝を、丁寧にカットした。その枝を美和を通じて咲に手渡すと、咲は「サンキュー」と短く言い、すぐに部屋に戻っていった。


 陽介は、ミントの香りが残る指先を見つめながら、庭の真ん中に立ち尽くした。道具や焚き火といった「非日常」の要素だけでなく、「育てる」という静かな活動も、家族との距離を縮める、これほど有効な手段になるとは。


 ハーブは、単なる植物ではない。それは、陽介と咲の間の、新しい「共通の素材」になりつつあった。



---



 咲からの依頼は、陽介にとって大きな出来事だった。彼は、娘の要望に戸惑いを覚えつつも、すぐにミントの枝を丁寧にカットし、美和を通じて咲に渡した。

 咲はミントを受け取ると、さっとリビングへ戻り、友人のための準備に取りかかったようだ。


 陽介は庭で、改めて自分の趣味の方向性を再認識した。これまでの焚き火やコーヒーは、彼自身の「孤立したリフレッシュ」のための行為だった。

 しかし、ハーブの栽培は、娘の「実用」というフィルターを通すことで、陽介の「自己満足」から、家族の「楽しみ」へとシームレスに転用された。


(道具集めや火遊びだけが、家族との距離を縮める手段じゃない。こうして、手をかけて「育てる」という行為も、ちゃんと家族の生活に入り込めるんだ)


 陽介の心には、強い確信が生まれた。それは、自分の趣味が、家族から「邪魔なもの」ではなく、「便利なもの」「楽しいもの」として認識され始めたという喜びだった。


 午後、リビングからは、楽しそうな咲と友人の声が聞こえてきた。しばらくして、美和が庭に出てきて、陽介にアイスコーヒーを差し出した。


「娘たち、ミントのトッピング、すごく喜んでたわよ。写真も撮ってた。お店で買うのより新鮮で香りがいいって」


 美和の言葉に、陽介は心が温まるのを感じた。


「そうか。それは良かった」


 陽介は、育てたミントが娘の「映える」写真の一部となり、友人との楽しい時間の「共通の素材」となったことを知った。このハーブは、父と娘の間の無言の壁を、心地よい香りで乗り越えさせてくれたのだ。


 ミントという小さな存在が、陽介と咲の間の「共通の素材」となり、二人の心理的な距離を、これまでになく縮めた。


 それは、陽介の趣味の価値が、彼の自己評価だけでなく、家族の実生活に根付いたことを示す、重要な一歩となった。


 陽介は、庭という場所が、単なる避難所から、家族と「幸福を共有する素材」を生み出す場所へと進化しつつあることを実感するのだった。

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