42歳、上司に非効率を説く
週末の庭での充実した時間によって、陽介の自己肯定感は着実に高まっていた。彼の心には、これまでになかった「余裕」が生まれていた。
週明け、会社に出勤した陽介の態度は、以前とは微妙に異なっていた。
以前は、高橋上司の冷たい視線や、山積みの営業ノルマが、帰宅後も彼の心を重く縛りつけていた。しかし今は、そのプレッシャーを真正面から受け止める必要はない、と感じられるようになっていた。
庭で土を触り、火を扱い、手間暇かけてコーヒーを淹れる中で、陽介は効率だけではない、非効率な時間の価値を知った。その価値観が、彼の中にしっかりとした精神的な防具を築いていた。
高橋に資料の不備を指摘されても、陽介は反射的に萎縮するのではなく、冷静に「改善点を直ちに修正します」とだけ答えた。
この冷静さは、高橋にとって予想外の反応だった。
陽介の中の不安や焦燥感が薄れたことで、職場のストレスは、まるで焚き火の煙のように、彼の頭上を通り過ぎていくようになった。仕事の重圧が減ったわけではないが、それを深刻に受け止めすぎず、一歩引いて対応できる心のスペースが、彼の内側にしっかりと確保されていた。
その心のスペースこそが、庭がもたらした最大の成果だった。
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火曜日の午後の定例会議。高橋上司は、いつものように険しい表情でプロジェクターに映し出されたデータ分析レポートを指し示した。
「見ての通り、このプロセスには無駄が多い。
佐藤くん、このデータ収集と分析における非効率な部分を洗い出しなさい。無駄な要素はすべてコストよ。削減が絶対だ」
高橋の言葉は、まるで鋭利なナイフのように、陽介の心を抉りにかかる。以前の陽介なら、ここで小さくうなずき、内心で高橋への不満と自己への無力感を募らせていただろう。
しかし、今の陽介は違った。庭で学んだ非効率性の中にこそ価値があるという逆説的な経験が、彼に反論する勇気を与えた。
もちろん、高橋を真正面から否定するような愚かな真似はしない。
彼はゆっくりと手を挙げた。
「高橋部長、失礼します。その『非効率な部分』として指摘されたデータ項目ですが、私はあえて『余白』として残すことを提案したいのです」
会議室に、わずかな沈黙が流れた。
「『余白』、、、ですか?」高橋が眉をひそめる。
陽介は落ち着き払って続けた。
「はい。効率的に顧客の顕在的なニーズを掴むことはできます。
しかし、非効率に見えるこれらのデータこそが、私たちが見落としがちな顧客の潜在的なニーズ、つまり、まだ顧客自身も気づいていない次の市場を示唆している可能性がある。
『無駄に見える時間やデータ』が、長期的に見れば『最高に効率の良い投資』になることがあると考えます」
陽介の提案は、彼自身の庭の経験—コーヒー豆を挽く「手間」がもたらす至福や、焚き火の「余白」がもたらす精神的な安定—を、ビジネスの言葉に変換したものだった。
彼の言葉には、過去の疲弊した陽介にはなかった、確かな自信と説得力が宿っていた。
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陽介の提案は、高橋にとって予想外の、そして論理的に即座に否定できないものだった。彼の言葉は、いつもの疲弊したサラリーマンの愚痴ではなく、確かな経験と考察に裏打ちされた「自信」を帯びていた。
高橋は眼鏡の奥の目を細め、陽介をじっと見つめた。そこには、以前の「どうせまた言い訳だろう」という冷めた視線ではなく、戸惑いが混じっていた。陽介は、以前ならこの上司の圧力に耐えられず、視線を逸らしていただろう。
だが今は、庭で炎を見つめ、静かに自分と向き合うことで培った動じない強さがあった。彼は高橋の視線から逃げなかった。
「...検討しましょう」
高橋の口から出たのは、驚くほど抑制された返答だった。
彼女のキャリアの中で、部下の提案に対して「無駄だ」と一刀両断せず、引き取ったのは極めて稀なことだった。高橋は、陽介の提案内容そのものよりも、その提案をした陽介自身の変化に戸惑っていた。
その表情には、以前の追い詰められた「負のオーラ」がなく、どこか遠い野外の匂いのような、清々しい余裕があったのだ。
高橋は、陽介がプライベートで何をしているかまでは知らないが、彼が発する新しいエネルギーが、会社の絶対的な価値観である「効率」に、真正面からではないにせよ、対抗できる論理を与えていることを直感的に感じ取っていた。
その日、陽介は高橋からの新たな叱責を受けることなく、会議を終えることができた。
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会議が終わると、高橋上司はそそくさと自席に戻り、陽介と目を合わせようとしなかった。その様子を見て、佐々木はすぐに陽介のそばへ歩み寄ってきた。
佐々木は興奮した面持ちで、小声ながら熱のこもった声で陽介にささやいた。
「佐藤さん、今の最高っす! 『余白の価値』、シビれましたよ!」
佐々木もまた、高橋の「効率至上主義」の重圧に日々晒されている一人だ。陽介が庭の経験をビジネスの場で応用し、理詰めで高橋を沈黙させたことに、佐々木は自分事のように胸がすく思いだった。
「いや、ただ庭でぼーっとしてるだけじゃ、意味がないなと思ってな。ああいう時間があるからこそ、逆に効率を追い求める高橋さんの考えも理解できるようになったんだ」
陽介は謙遜したが、その表情には充実感が滲んでいた。
「わかります! あれは庭で『精神の余白』を確保したからこその発言ですよ!
まさか、あんな正論で高橋さんを黙らせるとは...。さすがです」
佐々木の言葉を聞いて、陽介は改めて自分の変化を認識した。佐々木との間には、単なる職場の同僚というだけでなく、「庭遊び」という共通の価値観を通じた、確かな連帯感が生まれていた。
この連帯感は、会社という孤立しがちな空間で、陽介を支える目に見えない力となっていた。陽介は、佐々木という理解者がいることで、自分の趣味が単なる「道楽」ではなく、現実世界を生き抜くための哲学になっていることを再確認した。
それは、庭という聖域の外で得られた、初めての社会的な共感だった。
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会議室を出た陽介は、背広の下で、先ほど高橋上司と対峙した瞬間の心の動きを反芻していた。恐怖や焦りはあった。
だが、それらが以前のように、彼の精神全体を支配することはなかった。
それは、庭で培ってきた「自分の価値観」という確固たる核が、彼の中に生まれたからだ。会社が「効率」という絶対的な定規で世界を測るのに対し、陽介の庭には「手間暇」「余白」「非効率の美しさ」という、真逆の定規が存在する。
どちらの価値観も、今の陽介にとっては等しく重要になっていた。
高橋の厳しい言葉や営業ノルマの重圧は、庭で火を焚くときに使う小さな薪のように見えた。小さく、燃え尽きやすいもの。以前は、その薪の炎に飲み込まれそうになっていたが、今は、自分の中に確かな「防具」がある。
それは、芝生の手入れで得た肉体の疲労感、コーヒー豆を挽く儀式で得た精神の平穏、そして何よりも家族からの「無言の肯定」によって築かれた自己肯定感だ。
陽介は、ストレスを正面から受け止め、疲弊する代わりに、それを横に受け流す柔軟さと強さを獲得していた。
庭は、彼を現実から逃避させる場所ではなく、むしろ、現実世界で圧倒的な「効率」の暴力に対抗するための「精神的な武器」を磨き上げる場所になっていた。
彼は自分の席に戻り、明日提出の資料を開いた。




