42歳、後輩を迎える
週の半ば、昼休憩。陽介は後輩の佐々木と、いつものように会社の休憩スペースでランチを取っていた。以前は高橋上司の目もあり、私的な話は避けていたが、最近は陽介の心に「余裕」が生まれ、佐々木との庭トークもオープンになってきた。
「佐藤さん、この前の土鍋ご飯、マジで美味そうでしたよ! 写真見ただけで飯テロですよ」
佐々木は陽介が送った写真を見ながら、興奮気味に言った。
陽介は、佐々木に咲が配置を変えた鉢植えの話もした。無言の「センス介入」に戸惑いながらも喜びを感じたことを語ると、佐々木は自分のことのように笑った。
「すげー! 娘さんも興味持ち始めたってことじゃないですか! それって、もう一歩前進ですよ。庭が家族共有の財産になってるってことっすよ!」
佐々木の率直な賞賛は、陽介の自己肯定感をさらに高めた。
「そうかな。まあ、鉢の配置が変わっただけで、あいつらが庭に出てくるわけじゃないけどな」
陽介は謙遜しながらも、まんざらでもない顔をした。その時、佐々木が目を輝かせて、身を乗り出してきた。
「じゃあさ、佐藤さん! 今度、俺のほうから庭に行きますよ!」
陽介は耳を疑った。
「え? 佐々木、うちの庭にか?」
「はい! 土鍋ご飯は無理でも、ミニ焚き火台でソーセージでも焼いて、ビールでも飲みながら、ゆっくり語りましょうよ! 佐藤さんの庭遊びって、もはや『現代的な大人の隠れ家趣味』ですよ。俺、本物を見てみたいっす!」
陽介は一瞬躊躇した。佐々木は外部の人間だ。まだ「見られるだけ」というルールを暗に守っている家族に対して、社内の人間、しかも後輩を庭に招くのは、一種の「境界線の突破」になる。家族にどう思われるか。
しかし、佐々木の熱意と、「奇行」ではなく「現代的な趣味」として自分の活動が認められているという事実に、陽介の心は動いた。家族に、自分の趣味が社会的に認められたものであることを「証明」できるかもしれない。
「…分かった。じゃあ、次の土曜の夜、軽く一杯だけな。奥さんにも話してみるよ」
陽介は、家族の暗黙のルールを破るかもしれないという微かな緊張を感じながらも、佐々木の提案を受け入れた。庭が、「個人の聖域」から「社交の場」へと変化する、初めての出来事だった。
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土曜の夜。陽介は、佐々木を迎えるにあたって、いつも以上に庭の準備に力を入れた。咲の配置転換を尊重した鉢植えの周りに、新たにランタンを配置し、庭のミニ焚き火台と、手頃な七輪を並べた。
佐々木は、約束の時間ぴったりに、手土産の地ビールと、小型のクーラーボックスを持って佐藤家にやってきた。リビングで美和に挨拶を済ませると、すぐに陽介と庭へと向かう。
佐々木は庭に入るなり、「うわ、いいっすね! この空間、マジで落ち着きます!」と声を上げた。陽介は、自分の手で作り上げた「聖域」が、外部の人間から肯定的に評価されたことに、強い満足感を覚えた。
七輪でソーセージを焼き、ミニ焚き火台に小さな薪をくべる。二人は、会社の人間関係や営業目標、そして何よりも庭遊びの最新の道具やテクニックについて、遠慮なく語り合った。
陽介が語る土鍋ご飯の失敗談や、高圧洗浄機を使った時の爽快感に、佐々木は心から共感し、笑った。
外部の人間である佐々木の存在は、庭遊びの持つ意味を決定的に変えた。
これはもはや、陽介一人の寂しい現実逃避ではない。「現代的な趣味」を共有する者同士の、健全な「社交の場」として機能している。その事実が、家の中にいる家族に、否応なく伝わっていく。
リビングから漏れる陽介と佐々木の楽しそうな話し声と、七輪で肉が焼ける香ばしい匂いが、佐藤家の日常に、新しいノイズとして響き渡った。
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リビングは、普段の土曜の夜とは違う、ピリッとした空気に包まれていた。美和は夕食の片付けを終えた後も、時折、庭を気にする素振りを見せる。
咲は二階の自室で動画を見ていたはずだが、匂いと話し声に耐えきれず、階段を降りてきた。
ニ人は、まるで示し合わせたかのように、カーテンのわずかな隙間、またはキッチンとリビングを隔てるすりガラス越しに、庭の様子を熱心に「監視」していた。
美和の視線には、安堵と、主婦としての警戒心が混じっていた。
一方、咲の視線は最も厳しいものだった。「また父さんが変なことをして、会社の同僚に笑われたりしていないか」「趣味と言いながら、みっともない格好で騒いでいないか」という、娘としてのプライドと、父の活動に対する「審査」の意図が強く込められていた。佐々木が楽しそうに笑う様子を見て、咲は内心で「まあ、まだギリギリセーフかな」と評価を下した。
庭の陽介も、家族の視線を感じていた。家の窓が、まるで大きな「目」になって自分たちを眺めていることを知っていた。
その視線は、以前の「無関心」とは全く質が異なる。今は、「見られている」という緊張感と、それを上回る「趣味を楽しんでいる父親」として承認されたいという微かなプライドが、陽介の背筋を伸ばさせた。
彼は、佐々木に道具の説明をする際も、ソーセージを焼く手つきも、いつもより丁寧になった。佐々木という「社会的な証人」がいることで、彼の庭遊びは、単なる「42歳の奇行」から、家族に対しても正当化できる「公的な活動」へと昇華し始めていたのだ。
陽介は、佐々木との乾杯の度に、チラリとリビングの方を伺い、その「微かなプライド」を胸に、ビールを飲み干した。
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リビングのソファに座っていた翔は、ヘッドホンを外し、ゲームのコントローラーを膝の上に置いた。
父の笑い声が、以前よりも近く、具体的に聞こえてくる。彼はしばらく窓のそばに立って庭を覗く美和の背中を見ていたが、好奇心に負けて、そっと美和の隣に立った。
庭では、陽介が七輪の火力を調整し、佐々木が持参した小型のテーブルに、何やら道具を広げている。
佐々木の道具は、陽介が買い揃えるようなレトロで「手間のかかる」ものとは少し違っていた。そこには、メタリックでコンパクトな、高性能そうなガスバーナーがあった。
佐々木は陽介にそのバーナーを見せながら、熱心に説明している。それは、いかにも「効率」と「携帯性」を追求した現代的なギアだった。
佐々木が着火レバーを押すと、小さなバーナーヘッドから青い炎がすぐに立ち上がり、その上に置かれた小さなケトルの底を舐める。
翔の目は、そのガスバーナーの「即効性」に釘付けになった。彼は、父が時間をかけて新聞紙や着火剤で火を育てていたのを知っている。
だからこそ、そのバーナーが一瞬でお湯を沸騰させそうな、無駄のない機能美に、電子機器やゲームのメカニズムに通じる「合理性」を感じ取った。
翔は、父に直接話しかけることはしない。これまでのルールを無意識に守っているのと、単純に照れくさいからだ。彼は隣にいる美和の服の裾を小さく引っ張り、ほとんど声にならないほどの小声で尋ねた。
「ねえ、お母さん。あれ、佐々木さんが持ってきたやつ? なんか、すげえな」
美和は翔が庭のことに言及したことに驚き、静かに振り返った。
「ええ、佐々木さんのよ。なんか、キャンプ用品みたいね」
「うん。あれ、速攻でお湯湧きそうだな…。カップラーメン食う時とか、便利そう」
翔の言葉は、父の活動に対する初めての具体的な評価だった。それは庭遊びの「情緒」や「非効率な美しさ」ではなく、道具が持つ機能への純粋な興味だったが、翔の中で庭の活動が「自分の生活に接続し得る対象」として認識され始めた、決定的な瞬間だった。
美和は、その言葉を陽介には聞こえないように、しかし確かに受け止めた。彼女の顔に、静かな喜びの微笑みが浮かんだ。
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宴もたけなわとなり、佐々木は時計を見て、慌てて立ち上がった。
「佐藤さん、今日は本当にありがとうございました!最高でした!」
佐々木は心からそう言い、陽介が用意した七輪や焚き火台、ビール缶の片付けを手際よく手伝ってくれた。陽介は同期が自分の趣味の空間を心から楽しんでくれたことに、深い喜びを感じていた。
玄関先で佐々木は再び陽介に向き直った。
「失礼します、奥さん」と美和にも声をかけつつ、佐々木は続けた。「佐藤さん、庭って、やっぱいいっすね。都会だと、こういう『非効率な贅沢』が一番の心の栄養になるって、今日改めて実感しました。また絶対誘ってください!」
佐々木の肯定的な、かつ社会的な承認の言葉は、陽介の耳だけでなく、家の奥で様子を伺っていた美和、そして二階の廊下まで上がっていた翔と咲の耳にも、はっきりと届いた。
陽介の庭遊びは、もはや家族の中だけで完結する「父の奇行」ではなくなった。佐々木という「外部の第三者」によって、「リフレッシュのための健全な趣味」「現代的な大人の贅沢」として「社会性」を獲得したのだ。
佐々木が帰った後、陽介が庭の片付けをしていると、リビングから出てきた美和が、いつになく穏やかな声で話しかけてきた。
「佐々木さん、楽しそうだったわね。あんなに喜んでもらえると、あなたも張り合いがあるでしょう」
その言葉は、佐々木が陽介の活動に与えた「公的な評価」を、美和が「家族の評価」として受け入れたことを示していた。
そして、美和がキッチンに戻る際、陽介はふと、リビングの窓際に立つ翔の姿を見た。翔はゲームに集中しているようだったが、その手元のスマートフォンには、さっき佐々木が使っていた小型ガスバーナーの写真が写っていた。
陽介の趣味は、外部の承認を得たことで、家庭内の空気さえも変え始めた。家族の態度は、この夜を境に、「無言の肯定」と「微かな関心」へと質的に変化した。陽介は、次のフェーズへの確かな手応えを感じながら、静かに焚き火台の火を消した。




