42歳、余白の価値を考える
高圧洗浄機で庭の苔を吹き飛ばし、美和からの静かな承認を得た週末を経て、陽介は週明けのオフィスに出勤した。体は心地よい疲労感に包まれていたが、心は軽かった。仕事のストレスが、庭で浄化された証拠だ。
しかし、その穏やかな気持ちは、月曜日の朝礼直後、一瞬でかき消された。
「佐藤くん、佐々木くん。ちょっといいか」
高橋上司の冷たく低い声に呼ばれ、陽介と後輩の佐々木は、フロアの隅にあるミーティングスペースへと連れて行かれた。高橋は、二人を睨みつけるようにソファに座らせると、資料の端を指で叩いた。
「君たち、最近、昼休憩や休憩時間に無駄な雑談が多すぎる。先週も、庭の土がどうだの、炎がどうだの、聞いていて不快だった」
高橋の目は、陽介たちが週末を充実させていることに、まるで嫉妬しているかのように冷徹だった。
「いいか、会社は利益を生む場所だ。無駄な会話は生産性を下げる。無駄な時間はコストよ」
その言葉は、まるで鋭利なナイフのように陽介の心を深く抉った。彼は、庭での非効率で愛おしい時間--贅沢な「手間」の価値を知り始めたばかりだった。
高橋の言う「効率」こそが、陽介を追い詰めてきた元凶であるにもかかわらず、その絶対的な価値観が、今、陽介の唯一の逃げ場である庭の時間を否定しようとしていた。
陽介は、反論できずに唇を噛みしめる。佐々木も顔を青くして俯いていた。高橋の「無駄な時間はコスト」という言葉は、庭での活動そのものを否定する、重い呪縛となって陽介の心にまとわりついた。
彼は、会社の「効率」という強大な圧力と、庭で発見した「余白」という新しい価値観の、決定的な対立を感じずにはいられなかった。
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高橋上司の冷たい言葉は、陽介の心に深く刺さり、終日、頭から離れなかった。昼休憩に佐々木と庭の話をしようとするたびに、高橋の凍てついた視線がフロアの隅から向けられているような錯覚に陥った。
退社時刻。いつもなら家族の待つ家に帰ることに安堵を覚える陽介だったが、この日は違った。
家にたどり着き、リビングのドアを開けた瞬間、テレビの笑い声、翔と咲のゲームの電子音、美和が夕食の支度をする食器の音が、一斉に彼の耳に飛び込んできた。
賑やかなはずのその空間が、高橋の言葉のせいで、まるで「非効率な騒音」のように感じられた。
(会話…家族の時間…これらも、高橋にとっては「無駄なコスト」なのか?)
会社でのプレッシャーが、家庭という聖域にまで侵食してくる感覚に、陽介は耐えられなくなった。このままリビングにいたら、自分まで家族の賑やかさを「無駄」だと否定してしまいそうだった。
陽介は、ネクタイを緩めながら、迷わず勝手口へと向かった。「ただいま」と美和に声をかけるのも忘れ、庭に出る。
庭は、夕闇に包まれ始めていた。彼は折りたたみ椅子に腰を下ろし、慣れた手つきで、テーブルに小型のLEDランタンを置いた。ランタンの温かい光が、手入れを始めたばかりの芝生の一角と、コンクリートの叩きを、ぼんやりと照らす。
陽介は、冷蔵庫から持ってきた缶ビールをプルトップで開けた。
シュッ。プシュッ。
その静かな音が、会社での高橋の厳しい声や、ノルマのプレッシャーを、遠い世界のものへと変えていく。彼はランタンの光を見つめながら、ビールを一口飲む。
ここでは、誰も彼に「効率」や「コスト」を問わない。ただ、静かに座り、何も考えずにビールを飲む。その行為だけが、今の陽介にとっての唯一の現実逃避であり、そして最も必要な「心の防衛線」だった。
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庭の椅子に座り、ランタンの温かい光を浴びながらビールを飲む陽介の意識は、ゆっくりと、しかし確実に、高橋上司の冷たい世界から解放されていった。
ランタンが照らす範囲の外は、漆黒の闇だ。その暗闇は、彼にとって恐怖ではなく、むしろ「安堵」だった。この暗闇の中では、会社のデータ分析表も、高橋の冷たい視線も、営業ノルマの重圧も、一切意味を持たない。
陽介は、手入れされた芝生の一角を見つめた。苔を掃除し、土鍋でご飯を炊き、焚き火を楽しんだ、彼の活動の跡。ここには、「もっと早く」「もっと安く」という効率の概念は存在しない。あるのは、手間と時間をかけるという、非効率で豊かな「余白」だけだ。
(そうだ、この「余白」こそが、俺の精神を救っているんだ…)
陽介は、この庭の時間こそが、彼の心を削り取る会社での日々に対する、最も強力な「対抗手段」であると再認識した。仕事の緊張で張り詰めた心を、ここで解きほぐし、ゼロに戻す。明日、再び高橋の「効率」という強迫観念と戦うために、心のバッテリーをフル充電しているのだ。
ビールを一口飲むたびに、体の緊張が解け、頭の回転がクリアになっていくのを感じた。
「これは、最高に効率の良い充電時間だ」
陽介は、逆説的に悟った。無駄な時間だと否定されたこの行為が、結果として、彼を会社で潰れないようにするための、究極の自己管理であり、最高のパフォーマンス維持方法なのだと。
彼はランタンの炎を見つめながら、静かに息を吐いた。庭の暗闇が、彼の内側にある「効率至上主義」の残像を、ゆっくりと呑み込んでいくのを感じた。
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庭でビールを飲みながら瞑想的な時間を過ごしていた陽介は、二階のベランダの向こうから、かすかに人の気配を感じた。
見上げると、翔が、自室の窓を開け、ベランダの手すりに肘をついて、ぼんやりと庭を見下ろしているのが見えた。翔は、勉強に追われているはずで、普段ならこんな時間まで部屋から出てくることはない。
彼は、陽介の背中と、テーブルの上に置かれた小さなランタンの光を、いつもより長い時間、見つめていた。翔の顔は暗闇の中にあり、その表情は窺い知れない。
陽介は、ビールを飲む手を止め、息子を意識して少し姿勢を正した。どうせまた、「変なことしてる」と思われているのだろう。しかし、今日の陽介には、高橋上司の呪縛を破った「余白の価値」に対する確固たる自信があった。
すると、翔が、まるで独り言のように、静かに声をかけてきた。
「…お父さん、いつも何してるの?」
それは、翔が陽介の庭での活動に関して発した、初めての具体的な質問だった。以前は、美和や咲の視線が「監視」や「嘲笑」を含んでいたのに対し、翔のトーンには、純粋な「好奇心」と、答えを待つ「関心」が混じっていた。高橋の冷たさとは真逆の、温かい問いかけ。
陽介は、一瞬驚き、グラスをテーブルに置いた。この質問は、彼が家族との共有へと目的をシフトして以来、ずっと待っていた「兆し」だった。翔は、まだ庭に降りてくる勇気はないが、その質問は、心理的な距離が一歩縮まったことを示していた。
彼の庭の時間は、家族にとっての「奇行」ではなくなりつつあった。
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二階のベランダから投げかけられた翔の質問に、陽介はわずかに驚き、しかしすぐに喜びを感じた。
「…ただ、ここに座って、ぼーっとしてるだけだよ」
陽介は、ごまかすことなく、正直にそう答えた。この行為こそが、高橋上司に「無駄」と断じられた時間であり、しかし陽介にとっては、何物にも代えがたい精神の防衛そのものだったからだ。
翔は、父のその極めて簡潔な答えに、どう反応していいのか分からなかったのだろう。
「ふーん…」
そう言って、すぐにベランダから引っ込んでしまった。陽介は、息子にこの「非効率の価値」が伝わったかどうかは分からなかった。だが、それで十分だった。大切なのは、彼が会社の価値観から解放された「自分自身の言葉」で、息子の質問に答えることができたという事実だ。
その夜、陽介はビールを飲み終え、ランタンを消した。暗闇の中、庭を見回す。この庭は、彼の奇行を受け入れ、そして今、彼の家族の関心を引きつけ始めている。
「無駄な時間はコストではない。心を守るための投資だ」
陽介は心の中で、今日一日彼を苦しめた高橋の言葉に、静かに反論した。
彼は、自分の行動を家族に否定させないよう「防災意識の向上」などで合理化しようとしていた初期の段階から、さらに一歩進み、「ぼーっとしている」という非合理的な行為そのものに、普遍的な価値を見出し、それを息子に伝えることができた。これは、陽介の自己肯定感が次の段階へ進んだ証拠だった。
庭からリビングに戻ると、美和が「ずいぶんゆっくりしてたわね」とだけ言った。その声には、以前のような冷たさはなく、むしろ「お疲れ様」というねぎらいが含まれているように感じられた。
陽介は、明日もまた、この庭で蓄えた「余白」の力を盾にして、会社の戦場へ向かうことができると確信した。




