42歳、庭へ出る(上)
佐藤陽介、42歳。中堅メーカーの営業部員。
時計の針は午後9時を指していたが、オフィスの蛍光灯は氷の刃のように冷たく煌めいていた。
一日の終わりは、いつもこの重苦しい疲労感と共に訪れる。彼は営業部の島で、自身のデスク周りだけが、まるで真空のように静まり返っているのを感じていた。他の若手や残業組の雑談やキーボードの音は遠い残響にすぎない。
「佐藤くん、来月のノルマ、厳しいのはわかってるわよね?
A社の案件、絶対に逃さないように。それと、明日の午前中までに資料の数字、もう一度クロスチェックして」
背後から突き刺さるような、効率重視の透徹した声。上司、高橋直子の声だ。
陽介は反射的に、顔に張り付いたままの「営業スマイル」を向けた。
「もちろんです、高橋さん。問題ありません。完璧に仕上げます」
陽介の言葉は滑らかで、一切の感情を乗せていない。長年の営業経験で身につけた、心と裏腹な返事。彼は高橋が満足したのを確認し、すぐに目線を資料に戻す。
彼女の監視下にあるというプレッシャーは、彼の心臓を常に締め付けていた。
この会社に入って二十年。人付き合いは得意だ。取引先や同期との飲み会では、場を和ませる話題を提供できる。
しかし、それは全て、陽介の心のタンクからエネルギーを抜き取る行為だった。社交的な仮面の下にあるのは、ただひたすらに休息を求める、疲れ切った本質の自分。今日も、そのタンクは完全に底をついていた。
デスクを立つ。スーツの上着を羽織る動作すら億劫だ。エレベーターを降り、会社の外に出る。
冷たい夜風が、彼の火照った顔と、心に残る営業スマイルの残滓を洗い流していく。夜の空気は、オフィスとは違う、排気ガスとアスファルトの匂いが混じった、どこか寂しい現実の匂いがした。
電車に揺られ、最寄りの駅から自宅までの道を歩く。この時間が、彼にとって最も孤独を感じる瞬間だった。誰とも話さず、頭の中を空っぽにする時間。
家の玄関の鍵を開ける。カチャリ、という音が、静かな夜に響いた。
「あ、お父さん帰ってきた」
廊下を抜けた先にあるリビングダイニングから、長女・咲の活発な声が聞こえた。
しかし、それは陽介に向けられた歓迎の言葉というよりは、単なる「出来事の報告」だ。
その直後、テレビのバラエティ番組の笑い声と、それに釣られて笑う妻・美和と長男・翔の団欒の音が、陽介の耳に飛び込んできた。
暖かい光に満たされたリビング。ソファに並んで座る家族の姿。美和はパートの疲れも見せず穏やかに微笑み、翔と咲は学校での出来事を話しているのだろう、楽しそうだ。
――普通の家庭の、ごく当たり前の風景。
しかし、今の陽介にとって、その風景は、まるで分厚いガラスの向こう側にある、遠い異世界の出来事のように感じられた。彼は玄関で立ち止まり、家族の団欒の音を、ただ聞いていることしかできなかった。
「ただいま」
そう、か細く呟く。その声は、テレビの音や笑い声にかき消され、誰の耳にも届かなかっただろう。陽介も、それを強く主張する気力はなかった。
体力の消耗だけでなく、心のエネルギーもゼロだ。今の自分には、あの暖かい輪の中に入って、にこやかに「今日はこんなことがあってね」と話す「フリ」すらできない。無理に笑えば、表情筋が引きつるのがわかる。
「お疲れ様」
美和の声が、ようやく玄関の方へ向いた。しかし、彼女も彼の疲弊した様子を察したのだろう、それ以上の会話はなかった。
陽介は「うん」と短く返し、風呂に入る準備をするため、無言でリビングを通り過ぎた。
家族も、彼の疲れを知っているからか、特に引き止めたり、話しかけたりはしない。この「気遣い」が、時には陽介の孤独感をさらに深めていた。
彼は自分の殻に閉じこもる以外に、休息を得る方法を知らなかったのだ。
リビングを通り抜ける間、彼は目を合わせることもなく、そのまま階段下の物置スペースへ向かった。彼の心は、誰にも触れられたくないという、強い自己防衛本能で覆われていた。
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陽介は風呂場へ向かうため、廊下の奥へと進んだ。その途中、階段下の小さな物置スペース――家族全員が使う頻度の低いものを押し込んである、雑然とした空間――の前に差し掛かる。
彼の視線は、そこに無造作に立てかけられていた、黒い布地の物体に吸い寄せられた。それは、ホームセンターで先週、衝動買いしたまま、一度も使われていない折り畳み椅子だった。
パイプフレームのシンプルな構造で、座面はナイロンメッシュ。いかにもアウトドア用品らしい、機能一辺倒のデザインだ。価格も手頃で、陳列棚の前でふと立ち止まり、「これさえあれば、いつかまたキャンプに…」という、過去の残像と、未来への薄い期待が混ざり合って、カゴに入れてしまった一品だ。
帰宅後、美和に見せると、彼女は呆れたように言った。「またそんなもの買って。どうせ使わないでしょ。ただでさえ狭いのに、どこに置くのよ」。美和の言葉は、いつも的確で現実的だった。
そして、その通り、椅子はただ廊下の隅で埃を被っている。
陽介は立ち止まった。彼は今、あの暖かすぎるリビングにも、身体的な休息のためだけの寝室にも行きたくなかった。
彼に必要なのは、誰にも邪魔されない、「自分だけの空白の時間と空間」だ。
あの椅子を、外に出そう。
衝動的な思いつきだった。
疲労と、家族の輪から外れた疎外感が、陽介の背中を押した。
美和の「どうせ使わない」という言葉を、今夜、否定してやりたかった。それは他者への反抗というよりも、「まだ自分には、何かを始める力がある」という、弱々しい自己証明に近いものだった。
彼は椅子を手に取った。想像よりずっと軽く、薄く畳まれたパイプフレームは、手に馴染んだ。
椅子を抱えて、彼はリビングを避けるように、キッチンの勝手口から外へ出た。
そこが、佐藤家の「庭」だった。
郊外の一戸建てにありがちな、ごく普通の、しかし少しばかり手入れのされていない小さな庭。面積としては、車一台を駐車できるスペースと、それを取り囲むように設けられた、小さな芝生と花壇。
しかし、今の陽介の目には、その庭は「荒廃」と映った。芝生は斑に禿げ、ところどころから雑草が伸び放題になっている。コンクリートの叩きには、夜露と湿気で苔が薄く張り付いていた。花壇は美和が手入れしているが、それ以外は陽介が昔少し手をつけて以来、放置されている。
この庭は、家族の誰も積極的に利用しない、半ば忘れられた空間だった。
陽介は、アスファルトの叩きの上に椅子を運んだ。車を停めていない空間の一番隅、窓から少し離れた位置を選ぶ。
彼は無意識のうちに、家族の視線から最も遠い場所を探していた。
カチッ、という音と共に、折り畳み椅子が展開された。椅子の脚が、苔むしたコンクリートに立つ。
陽介は、まずスーツのジャケットを脱ぎ、椅子に放った。ネクタイを緩め、Yシャツの第一ボタンを外す。一日の間、自分を縛り付けていた衣類の圧迫から解放される。
そして、その椅子に、そっと腰を下ろした。
ナイロンメッシュの座面が、疲れた体重を予想外にしっかり受け止める。背中を預けると、フレームがわずかにたわむ。その感覚が、陽介の全身に「緊張を解いていい」という信号を送った。
彼は深呼吸をした。肺に入る夜の空気は、ひんやりとしていて、昼間のオフィスとは全く違う。
夜風が、彼の髪をかすめていく。
コンクリートの叩きから伝わる冷たさが身体を震わせ、芝生から微かに香る土の匂いが生物としての本能を掻き立てる。
彼は、自分が今、「家の外」という、完全に独立した空間にいることを実感した。一歩外に出ただけで、家の構造物や家族の笑い声、仕事のプレッシャー、全ての現実が、背後へ押しやられた。
陽介は、ただ椅子に座っている。それだけの行為なのに、まるで世界と自分との間に、透明な壁が築かれたような、不思議な開放感に包まれていた。
彼は知った。
自分が求めていたのは、高価な娯楽でも、派手な趣味でもなく、ただこの「何もしない時間と空間」だったのだと。
この椅子こそが、彼にとっての最初の「避難所」になった。




