幕間:追跡
蛇の獣人ポ=カルが目覚めたのは、光がまったく無い、おそらくは小部屋の中、土の床の上だった。
やられたな──と、溜息を吐く。
自分の工房で、パトロンとなってくれるネルヴ男爵からの使いに店の商品を運んでもらうため幌馬車が来て、2,3会話を交わして……そこからの記憶が無い。
ネルヴ男爵は珍しい品が好きだと言っていた。だから北の国では見かけない鱗革の品を作る自分に声をかけてくれたのだと。
誠実でありたくて、自分が蛇の獣人である事も告げた。顔も見せた。
……おそらくその時から、自分もその『珍しい品』に入ってしまったのだろう。
憤りよりも、悲しみが先に来る。
信じていたのに……良い関係を築いて、喜んでもらいたかったのに。
初めて自分の作品を、高く評価してくれた人だったから……
けれど、そんな未来はもうどこにも無いのだろう。
ネルヴ男爵は自分の事を『珍しい生き物』としか見ていない。
諦めなければならない。
……悔しいのか、悲しいのか。ただただやるせなくて、空しくて。
それでも、ペットや剥製になってやるつもりはさらさら無いのだから、動かなければ。
耳を澄ます。
蛇の獣人は目よりも耳の方が良い。だからこそ、顔のほとんどを布で覆っても生活に支障が無い。
空気の音、周囲の物音、ずっと遠くの何かの音。声。音。そして体に感じる振動。
──ここは小部屋。自分以外には誰もいない。
ならば動いても問題ない。
横たえられていた体を起こす。
動きにくい。
体に縄が巻かれている。手首も足首も縛られている。
苦笑が零れた。
蛇の獣人をこんなもので捕らえられるとでも本気で思っているのか。
ずるずると数多の関節を動かす。
他の獣人には絶対に真似できない。そもそも骨格が違う。
柔軟に動く体を器用に捻じれば、縄なんて簡単に抜け落ちる。
本気で拘束したかったら、馬のように轡を噛ませて繋ぐか、体を貫くしかないのが蛇の獣人だ。
自由になった体を軽く動かして、着ている物の違和感に気付いた。
慣れ親しんだ民族衣装は取られてしまったらしい。裸に毛布のような物を巻かれているだけだ。
肌を全て隠していたから、周囲からは民族衣装=自分となっていたのだろうというのはわかる。確かにあれを剥いでしまえば、一見して自分だとはわからなくなるだろう。
まいったな……
これではどうしたって、走っている内に顔だの手足だのが出てしまうだろう。
ここがどこだかわからないけれど、もしも街中だったら騒ぎになるかもしれない。
……けれど、そんな心配は後だ。
壁をよじ登り、天井近くの空気穴を確認する。
ちょっと狭いが、どうにかなりそうだ。しかし毛布は諦めないといけないだろう。
まぁ仕方ない。
ずるずると関節を動かして隙間を通り、小部屋を脱出する。
逃げるのは、得意なのだ。
空気穴を通った先は、薄明るい物置のような場所だった。
ボロ布を見つけて、ありがたく拝借した。さすがに全裸で逃げるのは御免被る。
だが武器は無いかと物色している間に、人が来てしまった。
慌てて天上近くの小窓から外へ飛び出す。
「逃げたぞー!!」
まいったな……こうなったら闇雲に走って逃げるしかない。
壁を登るのも得意なので、さっさと賊の拠点の敷地からはおさらばした。
──けれど……どこへ逃げよう?
見覚えの無い荒れた家屋の並びは、治安の良くない区画のそれだろう。この辺りは土地勘が無いからよくわからない。
人気の無い場所を選んで走る。
そして……これからどうしよう?
相手は権力者。男爵だ。どこまで手が及んでいるのかわからない。
……ああ、また悲しいような、空しいような感情に襲われる。
もう駄目なのだろうか。
ヴァイリールフ王国の中央都市、フリシェンラス。
白灰色の石材で作られた、美しく整った大都会。
南方の小さな集落からやってきた自分には、夢のような場所だった。
熱帯の地で大きな樹木に囲まれて木造の家屋に住んでいた故郷とはまるで違う。
熱すぎない夏。雪というふわふわした不思議な氷が天から降ってくる、幻想的で厳しい冬。
様々な種族が入り乱れても秩序を失わない不思議な場所。
暮らす人々は誇り高く実力主義で、珍しい技術を持つ自分を暖かく受け入れてくれた。
ここで身を立ててみたいと思った。
ここを第二の故郷にしたいと思った。
けれど……もう駄目なのだろうか。
こんな騒ぎになってしまっては、迷惑な蛇の獣人だと印象付いてしまうだろう。
貴族に睨まれた厄介者なんて、ただただ遠巻きにされるだけだろう。
南の故郷へ、帰った方が良いのだろうか。
──そんな風に考えながら走っていたから、正面から誰かが接近している事に、すれ違うまで気付かなかった。
「お見事です。後はお任せください」
聞き覚えのある声。
柔らかく優しい女性の声。
だがその気配はいつもと違う、抜身の刃物のように鋭利で。
けれど警戒は、続く言葉で吹き飛んだ。
「まっすぐに長鉢荘へ。皆様心配してお待ちです」
──皆
すれ違った相手が伸ばす腕、黒い手袋に包まれた手だけが見えた。
示される指の先には一匹の黒猫。
迷わず、先導するその猫について走る。
そうだ、約束した。
去る時は、行き先を告げると。
あんなに仲良くしてもらったのに、その程度の約束も果たさないような不義理はしたくない。
こうして迎えにも来てくれた。助けに来てくれた。
自分が逆の立場でもきっとそうする。
だからちゃんと、無事に、長鉢荘に帰るんだ!
いつの間にか、人通りの多い見知った路地に走り抜けていた。
すれ違う人々が驚いて目を向けてくるが、今はそんなことどうでもよかった。
帰りたい。
ただそれだけを考えて走っていた。
脳裏に浮かぶのは長鉢荘の仲間たちの笑顔。
暖かい居場所。
ただただ友の元へ、導かれるまま、彼は走って行った。




