幕間:ヴァイリールフ王家の兄弟姉妹達
4番目の王子ラズオールはそれを一目見ると同時に全てを察し、毛足の長い高級な絨毯に両手両膝を着いて、高貴な銀毛に包まれた三角の狼耳をへにょりと垂れさがらせた。
「どうしたラズオール。王宮の団欒の間とはいえ突然膝を着くだなどと、政ばかりにかまけすぎて鍛練が足りんのではないか?」
「っ……カノーティア姉上はもう少し政治経済にも目を向けてくださいっ」
ヴァイリールフ王国の王都ヴォルガンディベイグ。舌を嚙みそうな名前だと王族からも評判の地である。
一年の半分が雪に閉ざされるこの地に建てられた荘厳な王宮の中。
王族が家族団欒を過ごす暖かい区画……ようするに肩の力を抜いて緩くただの親子に戻るための部屋がある。
2番目の王女カノーティアは、その部屋でせっせと刺繍に精を出していたのだ。
女性騎士と名高い彼女ではあるが、淑女として、姫としての教育はしっかりとされている。単に戦いや遠征の方が肌に合ったというだけで、真面目な彼女は刺繍も楽器もダンスも菓子作りだって一通りの腕前になっているのだ。教師に匙を投げさせたのは、何度やってもエキセントリックな鶏型に仕上げてしまった花の活け方だけである。
プライベート用のゆったりとしたドレスを纏い、高価な長椅子に腰かけて針を刺すカノーティアは一枚の絵画のように美しかった。
春には降嫁する予定のカノーティア。
やり取りを禁じられるわけではないとはいえ、家族として過ごす時間はそう多く残されてはいない。
ラズオールとカノーティアは母親が違う関係でそれなりに色々とあったが、仲が悪いわけでは無かった。
だから他愛もない会話でもしようかと思い近付いて……ラズオールは気付いてしまったのだ。
カノーティアの刺繍。
その刺繍糸の正体に!
「……チトセ嬢の糸、ですよねそれ?」
「そうだ。よくわかったな?」
「透き通る宝石のような糸を紡ぐ事ができる人物は現状彼女以外におりません!」
魔石は宝石でもある。だからそれをチトセ嬢が糸に紡げば、当然宝石の透明度と輝きを受け継いだ美しい糸になるに決まっている。
……そう、魔石なのだ。
ラズオールは一目でわかった。わかってしまった。
魔石にも様々な色がある。王家には当然各地から多種多様な魔石が集まってくるが、この姉は絶対に自分の所有物としては赤色以外を選ばなかった。
なんでも一目惚れしたコッコ侯爵家子息の鶏冠の色らしい。
どうしたって色恋沙汰とは無縁になりがちな妹姫達がキャッキャとはしゃいで姉姫カノーティアの恋の話をせがんでいたのを何度も何度も見かけたのだから嫌でも記憶に残っている。
そう……だから嫌でも気付いてしまったのだ。
その刺繍糸が、恋する乙女がせっせと集めていた魔石と同じ色だという事に!
「そうですか……魔石も糸にできるのですかあの方は……」
「うむ、我ながらよく思いついたと自負しているぞ。私が集めていたのは透明度が低めでそれほど魔力容量の多くない物ばかりだったのだが……全部まとめて同じ糸に紡がれてしまえば容量も連結されるのだな。実にありがたい」
ありがたいどころの騒ぎではない。
魔石は分割こそすれど、連結は不可能。それが常識である。現在の技術では再結晶化を試みてもただの宝石になってしまい魔石としての性質が失われてしまうからだ。
そして連結だけではない。
割れれば砕ける魔石と違って、糸には柔軟性がある。
武人のカノーティアが嬉々として戦装束に刺繍しているのだから、彼女なりの強度試験もパスしたのだろう。
ともなれば、その使い道は多岐にわたるだろう。魔道具界隈と魔石の価格に革命が起こる話だ。
「また、弟子が、増えるっ!」
カノーティアの降嫁は春。その時に走る激震はいかばかりか。ラズオールは今から積み上がる嘆願書の厚みを想像するだけで血の滲む思いだった。いや、軍事的な面を考えればもっと気にするところはあるのだが、なんといってもラズオールの脳内を駆け巡るのは直近で己が手掛けている案件である。やっと先日商人ギルドマスターと一緒になってまとめたばかりだったというのに……いや、もういっそ春に滑り込むであろう嘆願は期限切れという事で来期にしてもらおうそうしよう。
ラズオールが半ば自棄のような覚悟を固めて身を起こしたと同時、部屋に華やかな面々が入って来た。
「あら、ラズオールもいらしてましたの」
「お菓子を多めにお願いしてきてよかったですわ」
連れ立ってやってきたのは、5番目の王女フィーシェと7番目の王女エスティ。これで王家の姉妹が揃い踏みした。
フィーシェとエスティはそれぞれ刺繍セットの入った籠を持参している。
上二人の王女が花嫁支度をするので、エスティも一緒に遊ぶようなつもりで並んで刺繍をしようというわけだろう。
女三人の中に男一人はさすがに少々居心地が悪かったが、特に辞退する理由も無かったし、元々残り少ない団欒をするつもりだったのだから輿入れが決まっているフィーシェがいるのはむしろ喜ばしい事だ。
「フィーシェの刺繍糸は……例のエスティの蜜珠糸か?」
「ええ、お姉様のお嫁入りに糸を提供するなら、私にもぜひと贈ってくださったのですって」
「チトセ様は本当にお優しい方ですわ」
冬場は蜜珠糸の材料となるビー玉が取れなくなる。だから在庫は少ないはずなのだが……融通してくれたらしい。
王家としては勅令を出す前に動いてもらえて助かる、とラズオールは思う。
というのも、降嫁し王族でなくなるカノーティアが嫁入り支度に魔石の糸などという希少品を使うのだ。他国に輿入れする王女が、エスティで話題となった蜜珠糸も無しでは輿入れ先の国に対して失礼に当たってしまうではないか。
その辺りがピンとこないあたり、カノーティアは政治に向いていないし、エスティはまだまだ子供だ。
対して貴族らしい感覚が強いフィーシェは、先んじて気を利かせたチトセ嬢に好感度が高まっているようである。
しばし華やかな茶会のような刺繍の会を過ごしていると、やがて兄弟二人もやってきた。
1番目の王子ヴォルデンと3番目の王子ギリアム。
文官系のラズオールは狼の獣人男性にしては線が細めだが、兄二人は鍛練を欠かさない事もあって強靭でしなやかな体躯をしている。長兄は文武両道で絵に描いたような『王子様』だ。ギリアムは頭も体も武に注ぎ込んでおり、短く刈り上げた銀髪と固い表情は『王子様』というよりは『将軍閣下』というイメージである。
今日も手合わせでもしてきたのだろう、風呂上がりで生乾きの髪のままで、互いの動きについてああでもないこうでもないと意見を交わしながら部屋に入ってきた。
「お兄様方、まだ髪も尾も濡れておりましてよ! 冬なのですから、お風邪を召されては大変ですわ!」
エスティが可愛らしく怒って立ち上がり、自分の倍はありそうな長躯の兄二人を長椅子へと引っ張って座らせた。年の離れた可愛い末の妹には、たとえ腕が立つ二人であろうとも敵わないのである。
廊下で待機しているメイドからタオルを受け取ったエスティは、苦笑いする兄達の銀髪を、狼耳を器用に避けつつ拭き始めた。
「……で、これはいったい何の集まりだ?」
髪が短いので早々にタオルから開放されたギリアムが問う。
「刺繍をしていた」
「見ればわかる」
武人であるカノーティアとギリアムのやりとりは遠慮も回りくどさもなく簡潔だ。この二人は剣の方がよほど雄弁なのである。
簡潔すぎて続かない会話にふんわりと入っていったのはフィーシェだ。
「カノーティアお姉様と一緒に嫁入り支度をしようと思っていたら、エスティも練習がてら仲間に入る事になりましたの。道具を取ってきたら、ラズオールがいたので、そのままお茶会に参加してもらったのですわ」
ギリアムから『何をしているんだお前は』という目線を向けられて、ラズオールは苦笑いした。
朝から晩まで騎士として軍人として訓練に明け暮れるこの兄は女性の相手があまり得意ではない。彼からしてみれば女三人の中に男の自分が一人で入るなど正気の沙汰ではないのだろう。最初にここに来たのがギリアムだったなら、早々に撤退していたに違いない。
「こうして団欒できるのも、あとわずかですから」
嫁入りしてしまえば、今のように王宮で顔を合わせる事もなくなる。
暗にそう言えば、ギリアムは少しばかりバツの悪そうな顔で足を組んだ。
これがギリアムの大変分かりにくい『長時間腰を落ち着けるくつろぎのポーズ』だ。
そんなやりとりをしている間に、長兄ヴォルデンの視界からようやくタオルが消えた。
ヴォルデンはエスティに礼を言い、耳だけで聞いていた会話に出て来た刺繍に目をやり……真顔で3秒固まってから、顔を右手で塞いで天を仰いだ。
「……ラズオール」
「はい」
「誰が知っている?」
「ええっと……カノーティア姉上、エスティ、その魔石の糸の事は誰が知っているんだい?」
ギリアムはここでギョッとしたように身を起こして刺繍糸を凝視した。高魔力の王族がこれだけ揃えば、効果が低い魔石程度なら服の装飾にはあって当然。兄弟姉妹の中でも一際鋭いギリアムだが服飾には疎い。魔石を感知していても、装飾だろうと気にしていなかったのだろう。
カノーティアとエスティは当然顔色を変えない。
ふわふわと笑っているフィーシェは先に聞いていたのか表情を変えないだけなのか区別がつかない。
慌てふためくのは男ばかりだ。
「誰、ですか……? えっと……チトセ様の、ハルカ工房の皆様はきっとご存じですわ」
「私とエスティで直接工房へ赴いて依頼した。間に誰も挟まってはいない」
きょとんと小首を傾げながら答えるエスティに対して、カノーティアは兄弟の反応が予想の内だったのか刺繍枠から目を離さず涼しい顔だ。
ヴォルデンはやや厳しい顔でカノーティアに問い質す。
「緘口令は?」
「まだだ」
「何故?」
「降嫁する私が命ずるのは少し違うだろう。……それに、例の紡ぎ士……チトセ嬢はこの糸の軍事的な有用性も理解している。その上で、その方向で売り込むことはしていなかった。なら、そういうことだ」
眉を顰めたヴォルデンをちらりと見て、カノーティアは不敵に笑う。
「直接会って話した印象としては……我々が追い付くのを待っているようだった」
「……待っている?」
「彼女は軍事的な有用性を理解している。すなわち、どこかの国で、そういう使い方がされているのを知っているということ。……それはどこだ? 伝説の冒険者フェイが世界地図を書きあげた事により、我々は世界の形とそこにある国々を知っている。使い魔を用いて遠い国との情報のやりとりも行っている。だが、魔石を糸にして用いた兵士の話など聞いた事が無い。特に国境をまたいで命を張るのが常の冒険者達は、そんな便利な物があれば大枚はたいてでも求めるはずだ」
「お、お姉様。それは……」
「エスティ、これは地位が高い者には隠し通せる事ではない」
エスティがどこか無念そうに顔を伏せるのと同時に、他の兄弟姉妹達は得心のいった顔をしていた。
「世界樹の向こう側からの来訪者か」
「十中八九そうだろう」
ラズオールも深く頷く。そうだろうとは思っていたからだ。
異世界からやってくる未知の技術を扱う者は夢物語ではない。幅広い知識を持つ賢者ほど、それが現実だと知っている。
近年ではかつてエルフと共にヴィーレリリンを世に広めた男の話が有名所だ。その男は楽器の事しか伝えなかったので、実に平和な旅路だったと聞く。子供向けの絵本にもなっているくらいだ。
……では、今回は?
「……さっさと王宮専属にでもして囲った方が良いんじゃないのか?」
ギリアムが苦慮を滲ませた声で言う。
様々な物を糸にする、紡ぎ士。
衣装や魔道具に加えて、戦闘面にさえ有用性を示した技術の伝道者。
余所に行かれないためにも、身の安全のためにも、国で保護した方が良いのではないか。そう考えるのは当たり前の事。
だが……
「それは悪手だ。本人がそう望むのならともかく、そうでないなら望まぬ檻から飛び立つきっかけになるぞ」
「飛び立たないように囲うんだろう?」
「異世界の人間だぞ。我々の与り知らぬ技術で逃げ出さないと、どうして言える?」
世界樹の向こうから来た者というのは、何が入っているかわからない箱と同じなのだ。下手に扱い、機嫌を損ねれば、何が飛び出すかわからない。
「そんなことなさらなくても、チトセ様はこの国を気に入ってくださっておりますわ」
必死に訴えるエスティの、その言葉こそが来訪者を繋ぎ止める鍵なのだ。
カノーティアは微笑んで隣にやってきたエスティの頭を撫でた。
「そうだな、私もエスティの言う通りだと思う。為政者というのはどうにも権力で全てを解決しようとしていかんな」
「……カノーティア姉上もこちら側のはずなんですが」
「私は一抜けする側だ」
揃ってどこか納得のいかない顔になった男達をくすくす笑いながら、会話を見守っていたフィーシェが口を開く。
「女性を繋ぎ止めたいなら、この国のステキな殿方でも紹介なさってはいかが?」
社交界で『愛の天使』とまで囁かれた通称『仲人姫』は言う事が違った。
どこか緊張の漂っていた空気が霧散する。
仕事命の男達は「やってられん」と言わんばかりに背もたれに身を預けてしまった。政略結婚の話ならともかく、この王子達に愛だの恋だの駆け引きだのという話は門外漢なのである。
「……まぁいい。エスティが懇意にしているようだし、工房もこちらの援助で建てるのだろう? 根付いてもらえるのだから、せいぜい防衛に力を尽くすとしよう」
「その辺りは門の防衛を担う騎士団と冒険者ギルドと話を進めています」
「ならいっそ専属の護衛騎士でもつけるか?」
「兄上」
男達の話し合いを、しかしカノーティアは遮った。
「チトセ嬢の護衛は恐らく問題ない。どちらかと言えば、彼女と親しい周囲の人間を守るようにした方がいい」
「……何故?」
「彼女にはメイドが付いている」
メイド。
護衛と繋がらない単語にカノーティアを除く兄弟姉妹達は揃って『わけがわからない』という顔をした。
「メイドがどうした」
「チトセ嬢のメイド……アリアというそうだが、あれはただ者ではないぞ」
「メイドが?」
「そうだ。私も始めはただのメイドだと思っていたのだがな……隙の無さと、音を殺した動きもさることながら、警戒の仕方が完全に命のやり取りを経験した者のそれだ。そして何より……この私に、それらを意識させなかった」
最後の言葉で男達は顔色を変えた。
カノーティアはギリアムと並んで国内上位の実力者だ。王族のみが使える『転移』の魔法を使用できる今の内ならば、冒険者ランクに換算して余裕でSSとなる。
「……冗談だろう?」
「暇する寸前にそれに気付いた私が一番驚いたさ」
「間者か刺客の可能性は?」
「無いな。あのメイドがチトセ嬢を見る目は、家畜系獣人が父上を見る目と同じだ」
「そもそもチトセ嬢はメイドを伴いフリシェンラスにやって来たと聞いています」
「ならばメイドも異世界人……?」
「それも無いな。あのメイドはこの国と中央都市に根付いた言動をしている、こちらの生まれだろう。……私も気になって調べてみたんだ。私に気付かせない程の実力者ならば名も知れているだろうと」
……だが、とカノーティアは針を止めずに遠くを見るような目をした。
「ダメだった。冒険者、軍関係者、名高い武門の一派から他国の噂まで洗ったのだがな。アリアという女性、またはそれらしい女性の名前は見つからなかった」
パチン。
糸切狭の音が響く。
語る彼女の口元に浮かんでいるのは微笑みだ。
「……なに、忠誠は確かなんだ。ならばチトセ嬢と同じ事。守れば根付き、咲いてくれるだろう。雪ユリのように」
そう言いながら、刺繍枠から外した布の皺を伸ばし、兄弟姉妹達に掲げて見せる。
赤く煌めく糸で描かれたのは……炎を纏った猛々しい鶏の姿だった。
「どうだ?」
「ステキですわ!」
「さすがお姉様はお上手ね」
あっという間に緊張感の無い状態に戻ってしまった姉妹を横目に、兄弟は溜息を吐く。
「……まあ、わかった……ラズオールは警護関係を進めてくれ。必要ならギリアムにも相談を。私は念のため、今の話をまとめて父上に報告しておく」
「……はい」
「……ああ」
「あと……その魔石の糸だが……エスティと私の連名で、しばらくは王家の依頼のみの製作としてもらうよう書状を書く事にする」
疲れたような男達を見て、フィーシェはくすくすと上品に笑った。
フィーシェに言わせれば、家族団欒の場に仕事の話を持ち込む方が無粋なのだ。少し不安げな顔をしていたエスティを宥めながら、まったく殿方って仕方ないわね、と、彼女はいつも思っているのである。
* * *
魔石の糸と蜜珠糸。
エスティは二つの糸巻きを手にして、とある扉の前で途方に暮れていた。
ここは6番目の王子、ノーステラの私室の前である。
先程の家族団欒の後、エスティは思い立ってここへやってきた。
兄弟姉妹が王宮で気軽に顔を合わせる事ができるのはあと僅か。
それなら……あの場にノーステラ兄様もいればよかったのに、と名残惜しさを感じたからだ。
7人の王子と王女の内、部屋から出る事も出来ないほどに体が弱く生まれついたノーステラ。
それゆえ万が一に備えて面会できる者は限られている。主治医と専属侍女の他は家族でさえ例外ではなく、血族の中でノーステラに会えるのは王である父と、正妃を同じ母に持つ1番目の王子ヴォルデンと5番目の王女フィーシェだけだ。
エスティは一度もこの兄の姿を見た事はおろか、声だって聞いた事が無い。弱い体の負担にならないよう、不定期な手紙のやりとりを許されているだけ。それでも、家族を愛するエスティは、この兄の事だって好きだった。
……ノーステラは、もうかなり危ないらしい。あと数年生きられれば良い方だろうと、そう、悔し気なヴォルデンから教えられている。他の兄や姉達は、もうほとんど諦めてしまっているようだ。
そもそも銀狼の獣人は、それはそれは丈夫な体を持つ一族だ。
大病にかかることは極稀で、引退した前王である祖父は未だに半裸の早朝ランニングを欠かさないらしい。華奢に生まれたエスティでさえ、風邪ひとつ引いたことがない。
……にもかかわらず、王家からは時折ノーステラのように生涯を部屋で過ごし早逝してしまう者が出るのだ。
一族の中には『それは氷の神の呪いではないか』と言う者もいる。
『武芸で認められた』と言えば聞こえは良いが、言い方を変えればそれは『神の領地を力ずくで奪い取った』という事になるのではないか、と。
……そんなことはない、とエスティは思っている。
もしも氷の神が、戦いで負けた事を恨んでいるのなら、この地を治める王族に怒りを向けているのなら……雪に掘った穴の中があんなに暖かいはずがない。氷で作られた像が、あんなに美しいはずがない。
この国の冬は厳しいけれど、降り積もった雪のおかげで水が枯れた事は無い。民は豊かな水から育つ多くの実りをいただいて暮らしているのだ。
この国の神は、厳しいのと同じくらい優しい神だとエスティは信じている。
だから、ノーステラの虚弱体質にも、きっと何か別の原因があるのだと、思う。
「何をしている、エスティ」
「っ!?」
突然声をかけられて、エスティは跳び上がった。
振り向くと、そこにいたのは一番上の兄。
「ヴォルデンお兄様」
「そろそろ休む時間だろう。侍女が部屋で待っているのではないか?」
「あ、その……ノーステラお兄様にも、チトセ様の糸をお見せしたかったなと……」
気まずげにエスティは言う。
そもそも面会を許可されていないエスティは、ここへ来た所でどうにもできない。せいぜい侍女に偶然会えたなら言伝が頼めるかもしれない程度だ。それだって、この部屋の向こうに侍女と主治医の居室が完備されているのだから、めったにない事なのだ。
改めてそれらを自覚してしょんぼりと耳を伏せてしまったエスティに、ヴォルデンは苦笑して頭を撫でた。
「責めているわけじゃない。エスティのその優しさは美徳だ。だが、お前に何かあってはノーステラも喜ばんぞ」
そしてエスティの手の中から糸巻きを拾い上げた。
「俺もちょうど先程の事を聞かせてやろうと思って来たところだ。ついでに渡しておいてやろう」
「!」
パッと顔を上げたエスティの表情が綻ぶように笑みこぼれる。
「ありがとうございます、ヴォルデンお兄様!」
優しい長兄が扉を叩き、声をかけて入室するのをエスティは扉が閉じるまで見送った。
ひと目だけでもノーステラの姿が見えないかと、いつも扉の隙間に目をやってしまうのだが……ベッドは扉から死角になる場所にあるらしく、残念ながらその願いが叶った事は無い。
それでも、エスティは晴れ晴れとした気持ちで踵を返し、自室へと戻っていったのだった。
* * *
「…………すまんな、エスティ」
ぽつり、落とされたヴォルデンの呟きを。
静寂だけが、聞いていた。




