裏切り1
本作品は他サイトに掲載していたものの転載です!
果てなく続く赤土の荒野に、乾いた風が吹きすさぶ。風は戦場の匂いを運んでくる。すえた血肉の……死の匂いだ。
そのおぞましさに、オディーリアはぶるりと身体を震わせた
漆黒の闇に向かって、彼女は歌う。祈りの歌だ。穢れを洗い流すような清らかな声が夜空に溶けていく。
オディーリアは南の大国ロンバルに生を受けた。傷ついた人々を癒やす〈白い声〉を持つ聖女だ。
月光のように優しい銀の髪と神秘的な輝きを放つ紫の瞳。象牙のようにすべらかな肌に薔薇色の頬と唇。ロンバルの真珠とうたわれる美貌の持ち主でもある。
なぜ、彼女がその可憐な身に似つかわしくない戦場の宿営地にいるのかというと、婚約者であるロンバルの王太子イリムに連れてこられたからであった。
(イリムは無事なのかしら。なんとなく……嫌な予感がする)
この戦は負け戦になる。オディーリアにはそんな予感があった。
イリムがいま相手にしているのは、北の新興国ナルエフだ。イリムは「歴史もなにもない辺境の蛮族だ。戦にもならないだろう」と豪語していたが、勢いのある新興国家が恐ろしいことは歴史が証明している。
実際、宿営地に戻ってくる兵には重症者が多く、負傷していない者も疲弊しきった顔をしていた。
歌声を捧げ続けるオディーリアにも疲れが見えはじめていた。
小さな砂塵を巻き上げて、オディーリアの元に数騎の馬が駆けてくる。
「あなた達……イリムはどうしたの?」
馬から飛び降りオディーリアの前に立ったのは、見知った顔だった。イリムを守る精鋭兵だ。
彼らはオディーリアを見て、ほんの一瞬表情を曇らせたが、次の瞬間には彼女に飛びかかりその身体を拘束した。
「な、なにをっ」
「俺達を恨むなよ」
「あぁ。聖女の存在はありがたいが、王太子の命には代えられない」
どういうことなのか。オディーリアは説明を求めたかったが、彼らのうちのひとりにみぞおちを蹴りあげられ、とても言葉を発することはできなかった。
男は、地面に倒れこみ意識を失いかけていたオディーリアの髪を乱暴につかむと無理やり顔をあげさせた。
「とはいえ、ナルエフに〈白い声〉は渡せないしな」
そうつぶやくと、オディーリアの口に小瓶を押しつけ中身の液体を無理やり流し込んだ。
ごくりとそれが喉を通った瞬間、焼けつくような痛みがオディーリアを襲った。
強烈な熱さと地獄のような痛みで喉が潰されていく。
薄れていく意識のなかで、オディーリアは必死に歌った。自分のために歌を捧げるのは、オディーリアの人生で初めてのことだった。
ぱしゃりと顔に冷水を浴びせられて、オディーリアは目を覚ました。
鉛でも詰められたかのように頭は重く、視界には白いもやがかかっていた。さきほどの焼けつくような痛みは消えていたが、喉にははっきりとした違和感が残っていた。
(声……が……)
「あっ……うぅ……」
かろうじて、声は出た。飲まされた液体は完全にオディーリアの声を封じるためのものだったのだろうが、自分のために使った治癒の力が多少は効いたようだ。だが……その声は老婆のようにしゃがれていて、元のオディーリアの清らかな声とはまるで別物だった。
オディーリアは自分が〈白い声〉を失ったことを悟った。
「目が覚めたか?」
オディーリアの前にかがみこみ、その顔をのぞきこんだのは、彼女のまったく知らない男だった。
松明の明かりのみの薄暗いなかでも、太陽のように明るく輝く金の髪と瞳。顔立ちは女性的といえるほどに端正だが、よく日に焼けた浅黒い肌には無数の刀傷があり彼が軍人であることを物語っていた。
否が応でも人目をひく、なんとも華のある男だ。まるで獅子のようだとオディーリアは思った。
彼はレナートと名乗った。身なりから察するに、ナルエフ軍のなかでもかなり高位の将校だろう。
「ほら、生きていただろう。約束通り、さっさと俺を解放してくれ」
レナートに向かって吠えるその声は、オディーリアにも聞き覚えがあった。
(イリム……)
オディーリアの婚約者である彼は、手足を縛られた状態で拘束されていた。腰の短剣に手をかけたナルエフの兵達が彼の周囲を取り囲んでいる。
おそらく、戦いの最中に敵兵につかまり捕虜になったのだろう。
馬鹿のひとつ覚えのように解放しろとわめき散らすイリムとは対照的に、レナートはゆったりとした動作で立ち上がり椅子に腰かけた。
金色の瞳が、じっとオディーリアを見据える。
「……なるほどね、たしかに滅多にお目にかかれない美人だ。いいのか、お前の女だったんだろう」
後半の台詞は、ちらりと横目でイリムを見ながら言った。
イリムは待ってましたとばかりに、こくこくと何度もうなずく。
「あぁ。助けてくれるなら、こんな女はいくらでもくれてやる! だから早く俺を助けてくれっ」
なるほど、自分はイリムに売られたのか。オディーリアはまるで他人事のような冷静さで、自身の置かれた状況を理解した。
(そういうことだったのね)
そう思うだけで、大したショックは受けていなかった。イリムの部下達の言葉から薄々感づいていたせいもあるが、そもそもオディーリアとイリムの間には、壊れてショックを受けるほどの信頼関係はなかったからだ。




