72.妖精霊の町
パラケルススに行くために総司が選んだ扉は、今は使われていない空き部屋のものだ。誰かに見付かると大騒ぎになるから、という理由からだった。
「皆さんに内緒で行くのは、少し心苦しいような気もしますけどね」
「………………」
「フィリアさん、さっきからずっと顔が赤いんですけど風邪ですか? 体調が悪いなら今度でも……」
「わ、わ、悪くないです! ちょっと熱いだけなんです! 大丈夫です行きましょう!!」
気遣う総司に、フィリアは耳まで真っ赤に染めながらも必死に叫んだ。
そう、決して体調は悪くない。むしろ憧れの場所に、想い人と行ける嬉しさに興奮状態にはあったが。
(ごめんなさい、ヘリオドールさん! ソウジさんとデートさせてください……!)
心の中で憧れの人に謝りつつ、フィリアは総司が鍵穴に鍵を差し込んで開くのを待った。
一体どんな場所なのだろうか。それについては、どんな本にも記されていない。自分の目で確かめろ。そういうことなのかもしれない。
「では、行きましょう」
総司がついにドアを開いた。
その瞬間、向こうから流れ込んできたのは、涼しげな風と、風に乗って流れてきた花の香り。迷うことなく、扉の向こうに進んでいった総司を追いかけるようにフィリアも歩き出す。
パタン、と扉が閉まる音が背後から聞こえる。振り返ると、鍵と同じ色をした扉が浮遊していた。その鍵穴からは金色に光る魔法の糸が伸びており、総司が持つ鍵に結び付けられている。
糸はどこまで行っても切れることはなく、扉から離れれば離れるほど伸びていく。フィリアが何度か糸に触れようとしたが、するりと手をすり抜けてしまう。
「もしかして帰り道が分かるようにしてくれてるんじゃないですかね」
「し、親切ですね……」
アスガルドに帰るための道しるべがあるということは、初めてここに来た二人にとってありがたかった。
妖精霊の町とも呼ばれているパラケルスス。ここは正しく彼らの町であった。
空は夜明け前、或いは日没のような黒に近い藍色に染まっており、様々な色を帯びた光を放つ星たちが散りばめられている。中心では、雪のような白さを持つ月が、太陽とは異なる穏やかな光を地上へ絶えず降り注いでいる。
光と闇が静かに共演している空だが、地上にもこれまた幻想的な光景が広がっていた。
石畳の街には人一人歩いていないというのに、多くの民家が存在していた。花、茎、葉など植物で作られた家や、ダイヤモンド、ルビー、サファイアなど美しい宝石のみで建てられた家。湖の近くには淡い色の貝殻で出来た家が並んでいた。
「あれ……?」
「どうしました、フィリアさん?」
「あの時計……針の進み方が逆になってます」
街の大通りには水晶で出来た時計台が設置されている。細長い枝のような形をした針は、本来の時計とは逆の方向に回っていた。アスガルドとは時間の概念が違うのだろう。
「不思議な場所……ですね」
「はい。本当に妖精や精霊以外は見かけませんね」
背中から小さな蜻蛉のような羽根を生やした妖精や風の精霊シルフ。
下半身が青い魚の尾びれになっている水の精霊ウンディーネ。
全身毛むくじゃらのドワーフと似た容姿の土の精霊ノーム。
触れると火傷しそうなくらい熱く赤い鱗を持った蜥蜴の姿をした火の精霊サラマンダー。
その他にもフィリアでも名前を知らないような精霊が、このパラケルススにはいる。彼らは突然現れた人間の少年とエルフの少女が、街にやって来たことに気を害している様子もなく、のんびりと漂っているようだった。
「……………」
まるで二人だけの世界のようだ。夢心地になりながら、フィリアは隣を歩く総司を本人に気付かれないようにそっと見た。
そのどこまでも深い闇色の瞳には、この世界はどのように映っているのだろうか。そんなことを考えていると、総司がフィリアの方を向いた。
「……僕に何か?」
「な、何でも! ただ……ソウジさんとこんな素敵な場所に来ることが出来てすごく幸せだなって」
ものすごく恥ずかしいことを言っているような気がする。緊張のあまり、足が上手く動かなくなってフィリアはその場に立ち止まってしまった。
総司は先に進むことなく、ちゃんと自分に合わせて足を止めてくれた。たったそれだけのこと。彼にしてみれば、些細なことでしかないかもしれない。
だが、フィリアにとってはとても大きなことだ。誰に対しても向けられる総司の優しさ。その一欠片であっても大切に、大事に胸の奥の宝箱にそっとしまって置きたいと思う。
「私をここに連れて来てくれてありがとう……ソウジさん……」
「……どういたしまして、です」
いつも凪いだ波のように静かな表情ばかりをしている彼の心に、少しでも響いて欲しい。今なら何を言っても許されるような気がして、フィリアは勇気を掻き集めて叫ぶように言った。
「わっ、私これからもずっとあなたの側にいたいです!!」
言ってしまった。とんでもないことを言ってしまった。フィリアの茹で蛸よりも真っ赤に染まっていた顔は、どんどんクールダウンしていって青ざめていく。
あなたの側にいたい。まるで愛の告白である。浮かれていた、では済まされない問題発言である。
「え……」
「えっ!?」
目を丸くして固まっている総司に、フィリアは驚愕の声を上げる。これは今の言葉を深く考えようとしている。あっさり受け流してくれれば良かったのに、と思ってもどうしようもない。
フィリアはこの気持ちが総司に知られてしまった時のことを何度も想像した。そして、想いを拒絶された場合にどう対応すべきかもしっかりと考えていた。
だが、所詮はイメージトレーニング。そんなもの役に立たないのだ。フィリアの頭がどんどん真っ白になっていく。
「あ……あ……」
「フィリアさん大丈夫ですか? 顔色がとても悪いことに……」
「ご……ごめんなさい!!」
恐慌状態に陥ったフィリアがとったコマンドは『逃げる』だった。妖精霊が何だ何だと集まる中、一刻も早く総司から離れなくては、と走り出す。
「ごめんなさい! 今は無理です! 私に悩む時間をください!!」
「悩むって一体何を……あっ」
追いかけようとした総司の動きがピタリと止まる。黒曜石の瞳は、突然逃亡を始めた少女の前方を歩いていた『人物』に向けられていた。それに気付かずにただ目の前を走っていたフィリアだったが。
「きゃっ!」
足元に転がっていた石に躓いて、バランスを崩してしまう。そして、そのまま前へ倒れ込みそうになり、フィリアは衝撃と痛みを恐れて瞼を瞑った。
「止まれ!」
瞬間、耳に届いた女性の強い口調。フィリアを襲うはずだった衝撃も痛みも一向にやって来ない。
フィリアはゆっくりと瞼を開いた。
「……………!」
フィリアの体は地面に倒れる寸前のところで、文字通り止まっていた。動かそうとしても指一つ動かせず、その場で不自然な格好でいることしか出来ずにいた。
「え? え?」
「大丈夫か、エルフの娘!」
困惑するフィリアの元に駆け寄ったのは、紅蓮色の髪に、漆黒のドレス姿の美女だった。その美しさに、同性であるはずのフィリアも思わず見取れていると、彼女に抱き抱えられた。
フィリアは奇声を発した。
「ひゃあ!?」
「すまない、今魔法を解くから待っててくれ。……動け」
その短い命令と共にフィリアの体に自由が戻る。重力に従って再び前に倒れそうになるのを、紅い髪の女性が支えた。
「ありがとう……ございます……」
「気にするな。それより、お前はここに棲むエルフか? この場所には妖精霊以外はほとんどいないと聞いていた、が……」
「?」
女性の言葉はそこで止まった。気になってフィリアが、その深紅の瞳の視線の先を追うと、そこにいたのは総司だった。
「ソウジ……?」
女性はフィリアから離れると、ゆっくりと総司へと近付いていく。切なげな表情と震える声。
「ソウジ、覚えているか? 以前、ノルンで出会った。私は一日でもお前を忘れたことはなかった……」
あれほど会いたかったというのに、いざその時が来ると歓喜と共に不安も沸き上がった。ひょっとしたら忘れられているかもしれない、と。
だが、それは杞憂に終わった。総司は丁寧に頭を下げながら言った。
「お久しぶりです、レイラさん」
それを聞いた美女――レイラの中であるものが弾けて甘酸っぱい香りを撒き散らした。
その『あるもの』とはずばり恋心。
「会いたかったぞ、ソウジ!!」
自らの欲求に従い、レイラは恩人であり、心から愛する人間の少年を勢いよく抱き締めた。
フィリアが二人の抱擁に半泣きになっているとも知らずに。




