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60.クッキー


「ん……」


 カーテンの隙間から室内に入り込む暖かな光。ヘリオドールはゆっくりと瞼を開いた。

 金色の瞳が最初に映したのは見慣れない天井だった。それをぼんやりと見詰めながら魔女は思い出した。


(あ……私の家昨日無くなったんだった……)


 そして、役所の職員専用の寮に急遽引っ越してきたのである。昨夜の死闘による疲労がまだ残っているようで体がだるい。

 のそ……とベッドから起き上がり、何をするわけでもなく部屋を徘徊する。その姿はまるで生者を求めて彷徨うゾンビのようだった。

 リビングまで向かうと、隅に黒い鞄が目立たないように置かれていた。総司がいつも持ち歩いているものだ。単独でいる所だけを見れば何の変哲もない鞄にしか思えない。消火器やドアが入るスペースはどう足掻いても無いはずだ。


「どうなってんのかしら……」


 気になるものは気になる。ちょっとだけ。ちょっと中身を覗いてすぐに閉めるから。台所から物音がしない事を考えると、総司はまだ夢の中にいるはずだ。チャンスは今しかない。

 (色んな意味で)気になる男子の鞄の中身を勝手に見る事への罪悪感と、何かおぞましい物を見てしまうかもしれないという恐怖感。ドクン、ドクンと脈打つ心臓。こめかみから流れる一筋の汗。

 だが、ヘリオドールは溜め息をついて鞄から遠ざかった。いくら中の構造がどうなっているのかを知りたくても、やっていい事と悪い事がある。今、やろうとしていたのは明らかに悪い事だ。


(ごめんね総司君……私間違っていたわ……)


 ヘリオドールが何とか上司としての威厳を守り抜いた時だった。鞄のチャックがジー…と音を立てながら独りでに開いた。


「え……」


 周囲の気温が二、三度どころか五度くらい下がった気がした。総司の世界には勝手にチャックが開くようになっている鞄が流通しているのだろうか。いや、そんなはずはない。それならどうして。

 あれほど見たいと思っていた鞄の中を今なら見られる。絶好の機会のはずなのにヘリオドールは逆に後退りした。


「な、何、何なの……? まさか中から手とかそんなのが出るんじゃないでしょうね……!?」


 ヘリオドールの言葉に反応するように中から白い物が出てきた。人間の手だ。ペンキで塗られたように真っ白なそれは五本の指を各自バラバラに動かしており、見る者に嫌悪感と恐怖を与えた。

 ヘリオドールが悲鳴を上げようとすると、鞄からにゅっと同じく真っ白な人間の脚が伸びてきた。それも二本。男性のものなのか、引き締まった脚だった。


「………………………」


 ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 二本の脚を使って鞄がヘリオドールを横切って窓へ向かっていく。そして、奇妙な動きを見せていた手が腕を更に伸ばしてカーテンをガッと掴み、開いた。室内を燦然と照らす神聖な早朝の光。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」


 平和かつ穏やかな朝をぶち壊す悲鳴。ヘリオドールは台所に向かって走り出した。


「総司君! 総司君!!」

「おはようございますヘリオドールさん」


 鞄の持ち主は既に起床して台所で何かを作っていた。材料を見るとクッキーのようだ。小皿に乗っているナッツ類やベリー系の果実は生地に練り込む具だろう。更に白い三角巾とエプロンを装備している女子力の高さ。ちなみにエプロンの中心には北斗七星がプリントされていた。お前はもう死んでいる。

 いつもなら気配を全く感じさせずに作っていた少年に引いている所だが、今日のヘリオドールはそれどころではない。大事件が起こったのである。


「鞄!! 鞄が!!」

「鞄?」

「あんたのよあんた! あんたの鞄がなんか、こう冒涜的というか禍々しい事になってるのよ!!」

「僕の鞄がですか?」


 こてんと首を傾げた後、総司はヘリオドールに腕を引っ張られてリビングへとやって来た。が、鞄は何事もなかったかのように元の場所に置いてあった。チャックは閉じられており、白い手足もはみ出していない。


「あ……れ……?」

「きっと寝ぼけていたんですよ。気にしないでください」

「え、あ、うん……私ったら幻覚でも見てたのかしら……」


 静かに台所に戻っていく総司の後ろ姿を見詰めながらヘリオドールは自分の頭をぺちんと叩いた。いくら疲れていると言っても幻覚を見るようになってはおしまいだ。

 自嘲しながら窓へ視線を向ける。閉め切っていたはずのカーテンは全開になっていた。


「も、もう! 私ってば自分でカーテン開けた事も忘れちゃったのね! 馬鹿馬鹿! 馬鹿な私!」


 そう自分に言い聞かせるヘリオドールの顔からは血の気が引き、手は小刻みに震えていた。あれは幻覚。寝惚けて見てしまった幻覚。心の中で必死に唱えていると、台所で作業をしていた総司が「朝ごはん食べますか?」と声を掛けてきた。


「ヒィィッッ」


 ヘリオドールはそれに過敏に反応した。


「……昨日夕ごはんをくれた人がまたやって来て、スープと朝焼いたばかりのパンをくれました。これでも食べませんか?」

「え!? ホントに!?」


 絶賛爆睡中の時に現れた食堂の職員が応対する総司を見てニヤニヤしていた事をヘリオドールは知らない。「お熱い夜を過ごしたのかしら?」と聞いてきた職員に総司が「換気で窓をずっと開けてたので寒かったです」とすっとぼけた返答をした事も。

 職員は若いのはいい事だと微笑みながら帰っていった。真実を知ったら彼女は恐らく哀れみの涙を流すだろう。


「……ん? そんであんたはどうしてクッキーを作ってたの?」

「昨日ヘリオドールさんのクッキーを食べてたら、自分でも作ってみたくなりまして」

「だからってこんな朝っぱらからやらなくてもいいじゃないの。いや、気付かなかったからいいけ……」


 台所から漂う甘い香りにヘリオドールは言葉を止めた。ぐうう、と代わりに腹が唸り声を上げる。

 凍り付く上司に部下は顔色一つ変えず「ごはん食べましょう」と言った。この少年の無表情が平常運転である事に、これほどまでに感謝する機会が来るとは思いもしなかった。ヘリオドールは顔を真っ赤にして何度も頷いた。





 ウルド中心部に訪れるのは随分久しぶりである。だが、以前と変わらない賑やかな街並みに笑みが零れた。娘が森を出てこの街で働きたいと言い出した時は心配もしたが、どうやら杞憂に終わったようだ。ここにはたくさんの笑顔が溢れている。


「おや、あなたは森の魔女さんだね。こんな騒がしい所に来るなんて珍しい」


 腰の曲がった白髪の老婆に声を掛けられる。柔和な笑みを浮かべる彼女からは強い魔力を感じる。という事は同業者だろう。

 杖を持たず、魔女の証であるローブも纏っていない所を見ると『元』が付くかもしれないが。


「ええ。今度この街に住む娘の家に遊びに行くんですけど、その前に一度来ておきたかったんです。しばらくこの辺りは来てなかったから」

「いい街だよ、ここは。いんや……前よりもっと良くなったかね。乱暴者も少なくなって、小人さん達がやってる宝石店も有名になって……」

「まあ、そうなんですか?」

「宝石店の件は一人の男の子が絡んでいるみたいだねぇ。ああ、ほら……あそこで可愛い魔女さんと一緒にいる子だよ」


 老婆の視線の先にいたのは見覚えのあるピンクの髪の若い魔女と、黒髪に黒い瞳のまだ幼さの残る少年だった。魔女の方は見覚えのあるどころの話ではない。

 あの少年とはどういった関係なのだろう。一緒に露店で果物を買っているところを見ると、随分と親密な仲にも思える。果物を詰めた袋を娘が持とうとすれば、少年は何かを言って自分でそれを持った。娘は頬を膨らませて文句を言っているようだが、どこか嬉しそうだ。


「あの男の子は少し前に役所にやって来たみたいでねぇ。色んな人に好かれてるようだけど、いつも一緒にいるのはあの魔女さんなんだよ」

「……そうみたいですね」


 先輩後輩というよりは姉弟のような雰囲気を漂わせている二人に安堵する。一生嫁の貰い手が現れないのではと本気で心配して眠れない夜もあったが、そういう訳でもなさそうだった。








 二週間後。総司がいつも通り家の近くの洋館からアスガルドへ行こうとすると、その扉の前にはヘリオドールが待ち構えていた。それも満面の笑みを浮かべて。


「やったわ総司君! 昨日お母さんがうちに遊びに来たんだけど、クッキーすっごく喜んでくれたの!」

「おめでとうございますヘリオドールさん」

「あんたのおかげよ総司君……!」


 引っ越した翌日。総司の普通に甘くて美味しかったクッキーを食べたヘリオドールはある事に気付いた。彼に作り方を教えてもらえば、常人が食べられるクッキーが自分にでも作れるのではないかと。

 それから母親が自宅に訪れる日がやって来るまでの間、ヘリオドールは総司に付き添われながら頑張った。アイオライトやフィリアにも味見をしてもらった。勿論、その前に男性陣に毒味をさせてから彼女達に食べてもらったが(総司は何でも美味いと言うので役に立たなかった)。


「こんなに美味しいクッキー初めて食べたって言ってくれたのよ! 私お母さんに料理とかお菓子で褒められたの生まれて初めてだったの!」

「前のも美味しかったですけど、もっと美味しくなりましたからね」


 いい方向に進化を遂げたヘリオドールのクッキーを食べたジークフリートの感想は「味覚が誤作動を起こしたかと思った。舌がおかしくなったんじゃなくて普通に美味しい」だった。そのぐらいヘリオドールは成長した。クッキー作りだけの話ではあるものの、彼女は大いなる一歩を踏み出したのである。


「でも変なのよ、お母さん……」

「どうしたんですか?」

「すごい優しい顔で『お母さんはあの子との事応援するわ』って言われたの……一体誰の事かしら?」

「さあ……」


 真実はわりとすぐ近くにあるのだが、ヘリオドールと総司はただ首を傾げるしかなかった。

感想でいただいていた分の誤字の修正は27日中にさせていただきます。

次回は番外編というかあの人のお話になるかと。

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