42.菫青剣
甲の男の笑みに満ちていた顔がみるみる内に鬼のような表情に変貌していく。どうしてだよ意味わかんねーよ的な事を考えているのだろう。
小刻みに震えている拳の隙間からはぽたぽたと赤い鮮血が零れ、地面を濡らしていった。爪が掌に食い込んでいるようだ。怒りのあまり力を制御出来ていないらしい。
まだ戦っていない内に軽傷を負った戦士にヘリオドールはごくり、と生唾を飲み込む。馬鹿だ。あれは我があまりにも強い馬鹿なのだ。
「何故だ……何故某と戦わぬ!?」
「いや、何故と言われても。あと手痛そうなんですけど、大丈夫ですか?」
「これは某の心の痛み……貴様に裏切られた某の心の痛みだ!!」
総司の気遣いの言葉が火に油を注ぐ形となったらしい。もはや山火事。馬鹿がよく分からない事を言い出した。恋人に浮気をされて錯乱した男のような事を言い出した。
勝手に目を付けられて勝手に喧嘩を売られても困るだろう。安くても買いたくない。
それでも顔色一つ変えない総司にヘリオドールとオボロの視線が向けられる。アイオライトは「こいつ馬鹿じゃねーの」とひたすら笑っていた。
「僕達急がないといけないんで、操られていないなら戦う必要もないんです」
「某にはある! 貴様という好敵手と拳をぶつけ合わなければ居ても立ってもいられぬ!!」
「そんな事をしてないで蟲人さん達の心配しましょうよ」
「あんたの言葉にこんなに共感出来る事もあまりないわよね……って言いたいけど、蟲人ほぼ全員戦闘不能にした原因が言う事なの総司君」
「でも、やっぱりおっかしいんだよあの筋肉馬鹿。ソウジにまともな事言わせちゃあ駄目だよ」
「つーかよ、どうしてもソウジと戦いたいならまずオボロと戦って勝ってからにしてくれよ」
「ちょっと! 待て!! おいッ!!!」
スピーディーな会話の中にオボロにとっては大変聞き捨てならない台詞が乱入する。お? と自分の方を見てきた甲の男の視線から逃れるように、木に隠れながら発言者を睨み付ける。発言者であるアイオライトは笑い過ぎたのか、目尻に涙が浮かんでいた。
「ソウジが戦いたくないってんだから仕方ないだろ。そんでも、お前があいつと戦って負ければ、お前の仇を取るっていう戦う理由が出来るじゃないか」
「仇って何だ仇って! 最初から僕が負けるような言い方しおって!」
「アイオライトだってそこまでは思ってないわよ。ほら、あんたが勝てば一番丸く収まるんだから!」
「うるさいッ! 結局はただの生贄じゃないか!!」
援護射撃をかましてくるヘリオドールに文句を吐き捨てるように言いつつ、オボロはもう諦めたように掌から蒼い光を生み出す。ここでいつまでも誰が馬鹿の相手をするかを話し合っている時間はない。早く祠に行かなければならないのだから。
それに女傑二人が自分にやれと言っているのだ。もう逆らっても無駄に思えてきた。
「あのオボロさん、すみません僕のせいで……」
「……そう思ってくれてるならこれは貸しにしておくよ。後でちゃんと返してもらうから、ね。……蒼き焔が誘うは裁きの煉獄。解き放て『露草』」
流石に申し訳なく思っているのか謝ってきた総司に少し救われたと感じながら、オボロは蒼い光を炎に変えて前方に投げ付けるように放った。その先にいた甲の男を『露草』の炎が包み込む。
だが、甲の男が苦悶の表情を見せたのは一瞬で、その太い両腕を横に振り広げると炎は消滅していった。想定内だったのか、オボロはさほど驚く事はなかったが、辟易したように溜め息をつく。
「中途半端な詠唱で撃ったとしても威力は結構あるはずなんだけどな……」
「じゃ、本気で撃てば結構いけるんだな! 頑張れよオボロ!」
「頑張ってねオボロ! 後で何か奢るから!」
「この戦いが終わったらみんなでまたクエスト依頼引き受けましょうねオボロさん」
「やめて最後のやめて! 何かすごい縁起が悪い感じがするから!!……と、そうだ」
言いたい事だけを言って先に進もうとする三人を見送ろうとしたオボロは、咄嗟に総司の襟首を捕まえて引き寄せた。
そして、無言で先頭を走るフェイを目で捉えながら耳打ちをする。
「あの村長が何かしたら君が止めるんだ」
「……フェイさんは何も悪い事はしないと思いますけど?」
「うん、その逆の事をするつもりかもしれないから止めるんだよ。会ったばかりとは言え、知り合いに何かあったら気分悪いの」
ぱっ、と総司を離すと同時にオボロの掌が淡い緑色に光る。青年の頭上には高く飛翔した甲の男。蹴りを喰らわせようとしている。
それをギリギリのところで回避しながら詠唱を始める。甲の男の脚が地面を抉る光景に馬鹿力と呆れている暇はない。
「嘆きの慟哭を掻き消す風を、不浄なる穢れを連れ去る風を。風乙女が誘うは清浄なる大気。吹き荒べ『常磐』」
緑色の風がオボロへ迫ろうとする甲の男を容赦なく吹き飛ばした。
「あいつだけみたいね……蟲人の中で平気だったの」
再び静寂の空気の森を駆けていたヘリオドールは安堵したように言う。あんな面倒臭いものにばんばん出てこられたら堪らない。結果的に戦わずに済んだ傀儡剣に操られている昆虫族の方がまだいいような気がする。
「でもオボロさん一人に任せて良かったんでしょうか。僕も何も力になれないかもしれないけど、残った方がよか」
「いいんだよ。あいつあれでも強いんだから何とかなるだろ。それにお前があそこに残ったらヘリオドールも残る事になるし」
「当たり前でしょ。この子一人にあんな馬鹿危なくて任せられないわよ……」
二十代前半という年齢を疑うような発言をするヘリオドールだったが、肝心の本人には届いていない。総司はまっすぐフェイの後ろ姿を見詰めていた。そんな様子を見たアイオライトがからかうように少年の手をぺしぺしと叩く。
「なんだよ、フェイに惚れたか? ヘリオドールとフィリア嬢が泣くぞ」
「フェイさん、どうするつもりなんですか?」
ヘリオドールの怒号を警戒してか、小声で話し掛けたアイオライトに対し、総司もまた小声で聞く。アイオライトの表情が僅かに強張る。
「ベンケイさんを止めるのは自分でするって言ってましたけど、どうやって止めるんですか?」
「……そういやオボロもそれを気にしてたみたいだな。そうだな、あいつの考えてる事で大体当たりだ」
「?」
「大丈夫。あいつは村長としてケジメをつけなきゃとか考えてんだろうけど、そんな事はさせないぜ。あいつにはさせない」
安心させるように不敵な笑みを浮かべる少女だったが、総司はそれを見た後に首を横に振った。ちょっとは信じてくれとアイオライトが言葉を付け足そうとした時だ。
「僕はアイオライトさんにもさせたくないです。何の事かは分かりませんけど」
「………………」
アイオライトの笑顔が崩れ、何かを焦がれるような、耐えるような表情に変わる。フェイの足が止まったのはその直後の事だった。
「着きました。……ここが祠です」
一同の前に静かに聳え立つ円錐形の巨石。単なるオブジェにしか見えないそれに、ヘリオドールは口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。
石から感じ取れる凄まじい魔力。かつて出会ったあのニーズヘッグと同等とも思える程の強さ。杖を握る手が無意識に震えてしまう。
村人の剣を全て吸収した男がこの中にいるという明確な証拠だった。
「この中にベンケイとかいう奴がいるのね……」
「はい……ですから、ここから先は私が」
フェイが詠唱を終えた後に自らの体内から剣を抜き出す。傷一つない美しい刃に纏わり付く紫の電流。
刃を祠に刻まれた斬り口へと差し込もうとするフェイの手を掴んだのは総司だった。
「あの、オボロさんがあなたの事を随分心配していたようなので」
「……何の話でしょうか?」
「何の話も何も、お前ベンケイを殺すつもりなんだろ?」
図星だったらしい。アイオライトの指摘を受けてフェイが視線を彷徨わせる。ヘリオドールは両者を交互に見て、フェイではなくアイオライトに問い掛けた。
「殺すって……どういう事?」
「そのままの意味だよ。村の中から忌まわしい罪人が出た時のためにミーミル村の村長には代々ある術が受け継がれている。――二度と劔族が復活出来ないように剣を破壊するために」
「ま、待ちなさいよ。あんたベンケイを止めるって言ってなかった!? 殺すだなんて一言も」
「村が出来てから約五百年間の間、この術を使った事は一度もありませんでした」
ヘリオドールの言葉を遮ったのはフェイだった。硬く張り詰めた声。総司が手を離しても剣を再び構える事はなく、祠を見据える瞳は陰を帯びていた。
「それはこの村が平和だったから。ですが、その平穏は一人の愚者によって全て奪われました。虎徹に取り込まれた劔族は二度とヒトの姿になる事はなく、虎徹の呪縛から逃れた者も死の淵にいます。……私はベンケイを許すわけにはいきません」
「いいね、やっぱりアタシが次期村長に選んだだけの事はある」
「……アイオライト?」
からからと笑う少女にヘリオドールは不安を覚える。フェイの気持ちと、ベンケイの犯した罪を考えれば「殺すな」とははっきりとは言えない。この心優しそうな女性に咎を負わせたくという思いは単なるエゴに過ぎない。
何が正しい分からない状況なのにも関わらず笑うアイオライト。どうして、こんな時に笑えるのだろう。
ヘリオドールの疑問を余所にアイオライトが胸に手を置く。
「我が魂、我が思い、我が剣。滅したまえ、死を撒き散らす邪悪なる意思。救いたまえ、深き闇に囚われし哀しき魂を。我は破壊と創世の導き手なり。『菫青剣』」
夜明け前の空のような、深い青色の光と共にアイオライトから放たれる剣。神々しい白銀の光を帯びる刃。
しかし、その刃は大きく欠けていた。半分程が折れてしまっている。フェイが半壊した剣を見て唇を震わせた。
「アイオライト様!?」
「なあ、お前ベンケイを殺した後に自分も死ぬ気だったんだろ?」
「それは」
「代わりにアタシが引き受けてやるよ」
アイオライトが剣の刃を祠の斬り口に差し込む。直後、祠から生まれた白い光がアイオライトの小さな体を包み始める。
「やめてくださいアイオライトさ……うぐっ!」
菫青剣を抜き取ろうと柄に触れようとしたフェイの体が吹き飛ばされる。剣とその持ち主を守るように張られた結界によるものだった。見えない障壁の中でアイオライトが「ごめんな」といつもの口調で謝る。
彼女が何をしようとしているのかは分からなくても、止めなければならないのは分かる。ヘリオドールは杖に自らの魔力を注ぎ込みながら叫ぶ。
「死ぬって……あんた何しようとしてるの!?」
「ヘリオドール、フェイの事頼んだぜ。オボロにはおばあちゃん呼びは二度とすんなって言っておいてくれよ」
「馬鹿! そんなの自分で言いなさい!!」
何とか結界を破壊しようと魔法で氷の刺を放つものの、あっさり弾き返される。それでも何度も魔法を撃ち続けるヘリオドールにアイオライトは困ったように笑った後、一人だけ静かな少年を見た。駄目だとは分かっているはずなのに、結界の中に入ろうとしている。無表情のまま、吹き飛ばされそうになる体を踏ん張りながら手を突っ込もうとしている。
僅かではあるが、結界の中に指が侵入していた。
「流石にお前も痛いだろ。アタシの結界は普通の結界と違うからな。手千切れるかもしれないからやめときな」
「アイオライトさん……」
「じゃあな」
小さく手を振った後、アイオライトの姿は光に完全に包まれ、光と共に消えていった。
鬱展開にはさせませんのでご安心を。




