34.少年と菫
冬の夜を思わせるような冷たい空気が闇の中を彷徨い続ける。全てを、音すらも呑み込んでしまいそうな深い黒の世界に踏み入る者は誰もいない。
ここは時の彼方、或いは次元の狭間と呼ばれる場所。様々な世界との隙間に存在する『何か』。ある次元の世界から別の次元へ渡ろうとした者が稀に迷い込む。二度とそこから抜け出す事は叶わない。
時の彼方に訪れた者は透明な闇の腕に肉体を、魂を、精神を囚われる。自分が自分であると認識する事すら忘れ、ゆっくりと消滅する。苦しみや恐怖すらも失う、ある意味幸福な最期を遂げていく。
闇と無だけが存在するはずの空間で煌めく微かな光。それは剣だった、ものだ。闇に呑まれる事なく白銀の光を帯びる剣の刃。しかし、それは時折、姿を消失させて暫くすると再び輝いた。
力を失いかけ、黒の空間へ完全に取り込まれようとしているのだ。そうした時、時の彼方はまた透明で純粋な闇で満ちるだろう。
その時を待ち侘びるように、刃はひたすら孤独の時を過ごす。全てを諦めてしまったかのように。希望の光から逃げ出してしまったかのように。
ティターニア来訪から一ヶ月経った頃、フレイヤの国から一枚の手紙がウルドの役所に届けられた。差出人は妖精国の美しく可憐な姫君ティターニア。受取人は役所にやって来てからまだまだ日の浅い藤原総司という少年。同世代の二人の手紙のやり取り。傍目から見れば恋文だと思われるだろう。
総司は手紙を受け取ると休憩所で椅子に座って封筒を開けた。休憩所の外では大勢の職員が少年の様子を窺っている。無理もなかった。都市の中心である役所で働いていればそれなりの生活は保証されるものの、王族と関わり合う事はほとんどない。
それも他国のハイエルフの姫。雲の上の存在の人物からの手紙に総司ではなく他の職員達がどよめいた。まさか総司にティターニアが惚れてしまったのではないかと。
『漆黒の魔手』に狙われたティターニアを総司が助けた。あの日役所にいなかったほとんどの職員はそうとしか聞かされていないのだ。
二人の関係を恩人を経た恋仲であると直結させるのも仕方なかった。
表情を変えずに手紙を読み進める総司を覗き見ていた職員は歯軋りをした。何と書いてあるんだ。驚いたりにやついたり悲しんだりしない、徹底したノーリアクションのため全く内容が想像出来ない。
「くそ……気になって仕方ねえ! 何だ? 何て書いてあるんだ……?」
「思い切って聞いてみるか?」
「いや、でも……それであいつ怒らねえかな? 漆黒の魔手のリーダーを半殺しにしたのあいつだろ」
お前聞いてみろよ。嫌だよ、お前行け。誰があの総司へ内容を聞き出すという大役を勤めるのか。自分は怒られそうだから他の奴に任せたい。そんな他力本願精神の集まりだったため、言葉にせずとも誰かが行くように皆さりげなくそれっぽい発言をする。
「ソウジ、それティターニア姫からの手紙?」
その甲斐あって一人の男が昨日何食べた?的なノリで総司に話し掛けた。もっとも、狐耳の彼は姫の起こした騒動や事件の真実を知る数少ない人物で手紙に何が書かれているかは大体想像がついていたが。少し長めの黒髪を指で弄りながら聞いてきた友人に総司は素直に手紙を見せた。
「こちらは元気にやってます、お父様。と書かれています」
「君もう完全に彼女の父親だね……」
呆れが混じった笑みを浮かべるオボロの後ろで仰天しているのは覗き見軍団だ。身分差の想い人へのラブレターと思いきや、お父様という謎のキーワードが出てきて彼らを混乱の渦に巻き込む。
秘密を探るべく二人の会話に耳を傾けようとした時だ。お父様とやらが入り口の方にあの虚ろな眼差しを向けた。それから手招き。
「あ、皆さん僕達に構わず入ってきてゆっくり休んでくださ……」
「失礼しました! ごゆっくりどうぞおおおおおお!!」
一斉に逃げ出す連中にオボロは肩を竦めた。ティターニアが本人が知らない間に『漆黒の魔手』に狙われていた事も、そのリーダーであったバイドンを倒した事も事実だ。以前からそれなりに魔術師としては有能な所長の魔法をものともしない新人として恐れられていた。しかし、今回の件で総司の名はより広い方面に知られるようになった。
もう役所内では彼を知らない者はいないだろう。いや、役所だけではなく酔っ払い改心事件に加えて今回の件で街での知名度が上がっている。
(でも、単に強いだけじゃないんだよなぁ)
ヘリオドールが可愛がり、ジークフリートが一目置き、あの保護研究課の美少女や鑑定課のオーガが慕い、オボロが唯一認めた人物。そんな彼に次に惹かれたのは異国の姫だった。
「ティターニアさん元気にしてるみたいですね。ライネルさんとも仲がいいようです」
「そりゃ姫だって好きでもない男よりはずっと好きだった奴の方がいいもんね」
最後の最後で初恋の相手と再会出来た後、ティターニアは覚醒した。総司とブロッドと三人で街巡りをしている間に彼女は本来の明るさを取り戻していき、ライネルを抱き締め合った事で色んな意味で吹っ切れた。
役所にライネルと腕を組んでやって来たかと思えば、オベロンに「あなたとの婚約を解消しますわ!」と宣言した。当然言い争いになった。オベロンによるティターニア称賛話を延々と聞かされて死にかけていたオボロも、姫と帰還した魔女と若作りの爺もぽかんと口を開けていた。せっかく条件を出す事で了承してもらった婚約の破棄。オベロンは食い下がった。
そして、禁断の言葉を口にした。
『ティターニア!! オーガなんて君には似合わない!!』
爽やかに笑いながらご乱心の姫を宥めようと婚約者は奮闘する。たった今、火に油を注ぐ禁句を口にした自覚すらなかった。
その結果、ティターニアは鬼のような形相で飛んだ。飛んでドレスから太ももと下着が露になるのも構わず、オベロンの顔面に飛び蹴りを喰らわせた。ゴーレムとの戦いで総司が見せた蹴りと同じフォームだった。
『何ですってえええええええええ!?』
ティターニアの怒りは収まるところを知らない。ライネルとジークフリートに押さえ付けられた姫君に一人での説得は不可能と判断したオベロンがヘリオドールやオボロに助けを求める。
二人の職員は無言で頷いた。このままではオベロンは本当に結婚を破棄されてしまう。何とかオベロンのフォローをしなきゃ!
『落ち着いてくださいティターニア姫様! オベロン様は初対面の私に『これは……美しい魔女だ』とか言って突っ込んできましたけど、悪い人ではないんですよ!?』
『そうですよ、ティターニア姫。オベロン様はリリスってうちのセクシー系美人の職員の太ももや胸を所長と一緒になって触りながら、あなたがいかに素晴らしいかお話ししていました。良い婚約者ではありませんか』
ヘリオドールとオボロの素晴らしいフォローを聞いたティターニアが男二人の拘束を解いて「二人とも素敵だった! でも一番は君だティターニア!!」と発言するオベロンの元へ疾走していった。
念願のフレイヤの姫君の姿を見た所長は「怖い……わしの夢見たお姫様が……」と咽び泣き、リリスは所長をあやすように頭を撫でていた。
『ティターニアさん魔法より格闘技の素質の方がありますよ』
『本当ですかお父様!?』
『せっかくだから色んな技を教えます。オベロンさんには実験台になってもらいましょう。まずはコブラツイストから……』
『はいお父様!』
正気とは思えない提案をする父を、それを嬉々として受け入れる娘のコンビを止められる者は誰もいなかった。爽やかに「死んでしまう! 死んでしまう!!」と訴えるオベロンが本当に死なないようと祈るしかなかった。
「ライネルさんが今はティターニアさんのお母さんを説得中だと言ってましたけど……大丈夫でしょうか」
「彼女のどこに心配する要素があると思ったの君」
ボコボコにしたオベロンを肩に担ぎ上げ、絶対にライネルと結婚してみせると豪語したティターニアにもう心配は無用に思えた。そのライネルもいい女に成長した等の呟きを漏らしていた。ブロッドは隅で縮こまっていたので、オーガ=勝ち気な女性が好みというわけでもないようだった。
結果として今回も総司は様々な影響を残した。ティターニアの想い人が働く宝石店には連日大勢の客が訪れ、フレイの国のエルフからも高く評価されている。こちらの国でもゴブリンなどの小人族による宝石細工の技術の高さが認識され始めていた。数人の宝石細工の見習い職人は既に小人族が住む辺境の地へ修行のために赴いた程だ。
だが、一番変わったのはやはりティターニアだろう。何とかオベロンの婚約の話を戻そうとする女王と日々ぶつかり合っているとの事だ。
「ティターニアさんいつかお母さんと和解出来るといいですね」
「……姫が幸せになれそうなのはいい事なんだろうけど、あそこまで暴力て……漢らしくなっちゃって流石に亡くなった国王も居たたまれないんじゃ」
「そうでもないぜ」
オボロの懸念を否定したのはいつの間にか総司の背中に張り付いていた藍色の幼女だった。総司の黒髪を弄くりながら思い出を語るような口調でその根拠を述べた。
「あの王様ね、自分は結構病弱だったから妻や娘には常に強くいてくれって思ってたんだよ。その旦那さんの願いを叶えるべく女王様は強くて正しい母親を目指して、娘に相応しいって思った相手と無理矢理結婚させようとしたのさ。それが娘の幸せに繋がるとは限らないというのにも気付かずな」
「で、姫は姫で本当に強い人に出会って肉体的にも精神的にも……何でフレイヤの王の事に詳しいの君」
オボロの素朴な疑問にアイオライトはにっと笑ってみせた。
「長生きしてると色んな情報が入ってくんの」
「アイオライトさんはもしかして僕より年上なんですか」
「何百倍も生きてるぜ。そこで人生の先輩からの命令だ。休憩終わったらクエスト申請課に手伝いに来てくれ。オボロも」
「は? 僕課違うじゃん」
急な話にオボロは目を丸くした。総司も不思議そうに首を回して後ろにいるアイオライトの顔を見ようとする。
二人の反応は予想済みだったのかアイオライトが微笑んでいる。総司の頬に自分の頬を擦り付ける姿は無邪気な子供そのものだ。これでもアイオライトはクエスト申請課の課長であり、オボロがこの役所に来る前からの古株なのだが。
「アタシがニーズヘッグのお守りをしばらくやってたせいでヤバい事になってたんだよ。何とか最低限の仕事は終わらせてるらしいけど、書類とかは山積みになって放置されてんの。そんでお前らにはそれを整理して欲しいの」
「ヘリオドールさんはこっちには来ないんですか?」
「あいつには申請の受付やってもらってる。美人が受付嬢だと男の冒険者が喜ぶからな」
ヘリオドールはそういえば顔は良かった。その事をオボロは思い出してなるほど、と頷いた。
「しょうがないなぁ。うちの課も書類整理が仕事の一つみたいなものだから手伝ってあげるよ。ただし、ちゃんとお礼は欲しいかな。ね、ソウジ」
「え、僕は課のお手伝いが仕事なので」
「ね」
「……それじゃあ、ちょっとだけお礼ください」
ちょっとだけ。その言い方に何かを感じたらしいアイオライトは破願して総司の黒髪をくしゃくしゃにしてから首に手を回した。
「するする! あーもう、お前かっわいいなぁ!! ちょっとだけじゃなくていくらでもしてやるよ!!」
「アイオライトさん首絞まってます。息が上手く出来ません」
その微笑ましい光景を眺めながらオボロは思った。
(見た目は兄妹なのに話の内容は近所のおばちゃんと子供だ)




