167.クォーツとヘル
「総司君、ちょっといいかしら」
「はい。何でしょうか、ヘリオドールさん」
現在、医務室には世紀末のような雰囲気が流れていた。優しい声音で質問するヘリオドールの目は決して笑ってはいない。いや、目どころか顔が笑っていない。この質問に答えなければ「殺す」。そんな思いに満ち溢れた悪鬼の形相である。
対して総司はぽりぽりとひよこボーロを貪り食っていた。彼にとっては上司からの圧力より、目の前のお菓子であった。
空気を読まない総司のせいで、医務室の負の空気がさっぱり浄化されない。こんなところにいたら、良くなるものも良くならないと休みに来ていた職員が逃げ出す始末。
安らぎと癒しの空間は、病人にとってキツい場所と化していた。
普段、何だかんだで総司に甘いヘリオドールが、何故このように豹変してしまったのか。それは医務室の一番奥のベッドで眠る人物にあった。
悪鬼となったヘリオドールが、そのベッドを囲む白いカーテンをしゃっと開ける。
ベッドの中で寝息一つ立てず眠り続けているのは、常磐色の髪をした幼い少女であった。総司が夜になるか、ならないかギリギリの時間に、見知らぬ灰色のドラゴンに乗せられて役所に帰ってきた時、大事そうに抱き抱えていたのだ。
それから一週間。少女はいまだに目覚めない。
「総司君、この子誰?」
「誰ですかねぇ」
「連れてきたのあんたでしょうが!」
「まあ、そうなんですけどね」
少女の頭をくしゃくしゃにならないように程度に撫でる総司の姿に、ヘリオドールは小刻みに震える。
これだ。総司は暇さえあれば、医務室に立ち寄って少女の様子を見に来ているのだ。名前も知らず、更にヘリオドールには少女とどこで出会ったかも教えてくれない。
他の奴らには内緒にしておきなさいよ。でも、私にくらいは教えなさいよ。そんな切なさは怒りへと形を変え、ヘリオドールを大いに狂わせていた。
「わ、わた……っ」
「綿?」
「私の存在ってあんたにとってその程度のもんだったの~~~~ッッ!?」
「ヘリオドールさん、正気を取り戻してください」
もう最悪としか言いようがない。ハンカチを噛み締めて号泣するヘリオドールに、ひよこボーロを完食した総司は動揺一つしない。この役立たずめ。
この刃物沙汰が起こってもおかしくない状況を打破すべく、ついに一人の人物が立ち上がった。
「いい加減静かにしなさい。ここは医務室ですよ」
二人の間に割って入ったのは、先日この医務室に配属された女医だった。灰色の髪を後ろで束ね、少し痩せぎみな細身の体を清潔な白衣で包んでいる。
今までにはない潔癖そうな雰囲気を漂わせる彼女に、役所の男たちが虜になったのは言うまでもない。何度も医務室に訪れては、その美しさにため息をつく毎日だ。
ただし、性格のほうも今までにはないタイプだった。特に怪我もなく具合も悪くない、単なる恋の病発症者に対して女医は冷徹だった。奴らへの制裁はあまりに恐ろしく、ここには記せないものばかりである。その様子を見ていた総司に「わぁー」と棒読みながら悲鳴を出させたほどだった。
「さ、騒いだりしてすみません、でしたぁ……」
先ほどまで怒りMAXだったヘリオドールも一瞬で大人しくなる。この女医は決して悪人ではない。本当に体調が悪い職員が来たならば、献身的に接してくれる。
それでも、ヘリオドールは女医が苦手だった。『あの』えげつない制裁を行ったくらいだ。魔力はまずまずあるようだが、それとは別に彼女の側にいるだけで背筋が凍るような寒さに見舞われるのである。体感的に寒いわけではない。ヘリオドールの本能が訴えているのだ。
この女には逆らってはいけないと。
「ヘリオドールさん」
なるべく足音も立てずに医務室から逃げようとするヘリオドールを総司が呼び止める。総司はまだ医務室にいる気満々のようだ。
「……何よ」
自分より、あの幼女や女医のほうがいいのか。妬みからついつい返事もつっけんどんになる。
「今日、お仕事が終わったら役所の近くにあるケーキ屋さんに一緒に行きませんか?」
「行く行くぅ!!」
鮮やかすぎる手のひら返しであった。
スキップしながら、医務室を出ていく魔女の後ろ姿を眺めていた女医が静かに口を開く。
「……操縦がうまいですね」
「操縦とは?」
「いえ、私の独り言です」
「そうですか。それよりも、こちらでのお仕事は慣れましたか、ヘルさん?」
そう尋ねられて女医、いや、ヘルは「さすがに一週間程度では」と苦笑混じりに答えた。ヘルがこの役所の医務室の主になったのは、総司が少女を連れ帰った翌日。レイラによって命じられて、少女と総司の護衛としてやって来ていた。
「ですが、私の任務はあなたとレーヴァテインを守ることです。弱音は吐いていられません」
「この女の子がこの世界の神様なんですね。ラノベみたいですね」
「……ラノベ?」
ヘルの口から総司にはレーヴァテインについて、『一部』を除いて話した。人間、それも異世界の住人を巻き込むべきではないとレイラは渋っていたが、レイラの話を聞いたヘルがそんなことを言っている場合ではないと判断したのだ。
レーヴァテインは明らかに総司と認識があり、総司の中にレーヴァテインの一部が『いたのだ』。単にレイラの想い人で、あの男の親友で、以前ヘルを助けてくれた恩人、では済まない場所まで来ていた。
本当なら、どちらも魔王城に連れて行き、保護したいところだが、それでは総司の自由を奪ってしまうと反対したのはレイラだ。総司にご執心なくせに、肝心なところで総司の意志を尊重する誠実さが今回ばかりは枷となった。
総司と少女をどちらも魔王城に連れて行かないのであれば、両者を監視し、守る者が欲しい。そこで白羽の矢が立ったのが、レイラの側近であり、ニヴルヘイムの主であるヘルだ。
彼女ほどの強さを持っていれば、そこらの魔族や魔物など敵ではない。もっとも、敵は魔族とも限らないだろうが。
ヘルの唯一の懸念と言えば、ニヴルヘイムのことだった。ニヴルヘイムには転送魔法を使えば、現地点がどこであろうが、一瞬で迎える。罪人の魂への処罰も、ヘルの部下である魔族が代理で行っているので問題はない。
しかしながら、自らの本来の職場から長期で離れるのはどうも不安が残る。そう語るヘルに、レイラは「お前の部下を信じろ、ヘル。私も定期的にニヴルヘイムの様子は見に行く」と力強く言った。何か仕出かしそうな主の暖かな言葉は、ヘルの不安をさらに煽った。
「なんかすみません、ヘルさん。僕のせいでこうなってしまいまして」
「ソウジ様のせいではないでしょう」
「そう言っていただけるとありがたいです」
「……さて、ソウジ様。それより一つお聞きしたいことが」
「…………何でしょうか」
ちら、とドアへ視線を向けながら、ヘルがとんとんと机を指で叩き始める。本人すら自覚していない無意識の行動だった。総司がその指を見ながら質問に応じる。
「……あの男は今日は来ないのですか?」
「あの男とは」
「馬鹿王子のことです」
「ああ、なるほど。特に約束はしてないけど、今日はどうですかねぇ」
「それともう一つ。あれがここに来るときのことですが……」
総司が首を傾げた時だ。閉め切られていたドアが少しだけ開かれた。
開けたのはたった今、話題になっていた馬鹿だった。
「あっ、今日は藤原もいる! 失礼す……ヒエッ」
クォーツが医務室に入ってきて早々、殺気に満ちたヘルに睨み付けられた。
「どうして、あれはソウジ様がいる時しか、医務室に入ってこないんですか?」
「斎藤君はシャイな人見知りボーイなんです。だから、どうか見逃してあげてください」
「怖くて二人きりになれない」と、二日前にクォーツから相談された総司なりの最大級のフォローだった。




