160.ヒルダ
魔王が戦争を引き起こす前のニーズヘッグとは面識こそなかったが、彼の噂をヘルはよく聞いていた。
スルト山を守る黒竜の中でも最も強い力を持ち、長として君臨する存在であった。そう、ニーズヘッグは元々あのような粗暴な心を持っていたわけではなかった。人間を無闇に襲おうとはせず、人間がスルト山に入り込むことがあっても決して彼らを殺そうとはしなかった。
それが魔王が人間たちの虐殺と世界の破壊を始めた時、その配下となり残虐な行為を行うようになったのだ。かつては温和で慈悲深いとされていたのに、ヘルが出会ったニーズヘッグは荒々しく獰猛なドラゴンに成り果てていた。
その強さは本物ではあったものの、まるで中身だけが別の魂にすげ替えられたようにも思えた。
あの話は真実ではなかったのか。ヘルは自らが聞いた話が嘘であったのか疑ったくらいだ。
「……ですが、あの子竜が肉体を失ったニーズヘッグの傀儡として選ばれたのは分かります。同じ黒竜として魂の同調がしやすかったのかもしれません」
だが、ニールはドラゴンとしてはまだまだ幼い。黒竜の力を取り戻そうとしていたのかもしれないが、肉体がない状況に焦りを感じていたのだろう。
ニールがどうやってニーズヘッグから解放されたのか。それは灰色のドラゴンが目覚めたことにより、まだ聞けずじまいだが、大きな収穫はあった。
現在、ニーズヘッグが大国オーディンに囚われの身になっていると判明したのである。
「……何だ、もう少し動揺すると思っていたぞ」
情報源のクォーツはヘルの反応に怪訝そうな顔付きになる。焦るどころか、むしろ安堵しているヘルに彼の方が戸惑っていた。
「魔族……というよりレイラ様としては、現在人間と魔族との間に余計な争いを起こしたくありません。二つの種族が歩み寄ろうとしている時にニーズヘッグに馬鹿なことをされては困ります。逆に奴が身動きの取れない状況になっていると分かり、一安心したくらいです」
「いいのか? オーディン魔族にとっては勇者を召喚したとされるノルンに次いで厄介な国だったのだろう? あちらもそう易々とニーズヘッグを貴様たちに引き渡さないと思うが」
「そこは私も考えています。今のアレは一匹だけであれば非力な存在に過ぎませんが、何に利用されるか分かりません。オーディンも何故、ニーズヘッグを完全に消滅させず引き取ったのか……」
「少し前に某国の大臣の誘拐事件があってな。それにかつての魔王に仕えていた魔族が関係しているとされている。レイラが人間と友好的関係を築こうと尽力しているのは俺も分かる。だが、あの国にとって魔族は今でも敵という認識が強いぞ」
本来なら決して口外してはならないニーズヘッグの情報やフレイヤで起こった誘拐事件について話すのは、クォーツがレイラたちを信用しているからだ。
だからこそ、人間の国にはいまだに魔族への憎悪が残っているところもあるのだと忠告しているのだ。
「オーディンにはあとで密偵を送って探りを入れるとして……今はあのドラゴンですね」
現在、総司たちは灰色のドラゴンを村から大分離れた場所にある丘まで連れて行き、そこで話を聞いていた。気絶していたドラゴンが目を覚ましたことにより、村人を怯えさせないためである。
「……それにしても、あのニールという子竜はどのようにしてニーズヘッグの呪縛を解いたのか気になります。あなた、オーディンの件を知っていながら、それは把握していないのですか?」
「いや、それは流石に俺も……」
「はあ、役に立たない」
「だから、何故貴様は生ゴミを見るような目で俺を見る!?」
そして、丘の上では完全に意識を覚醒させた灰色のドラゴンの巨体があった。
『あなたたちには迷惑をたくさんかけてしまったわね。そのお詫びになるかは分からないけど、知っていることは何でも話しましょう』
総司、レイラ、ニールを前にして、ドラゴンは落ち着いた口調で告げた。理知的な雰囲気は先ほど総司たちを連れ去っていた時には微塵も感じられなかった。
「そうだな……まず、お前は何者かを尋ねていいか」
『ええ。それが分からないと話が進まないものね。……私はヒルダ。混血の黒竜』
「こんけつ……ってオイラとは違う黒竜なの?」
『私の中には半分しか黒竜の血は流れていないの。スルト山を守っていたのは純血の黒竜だけではなくて、私のような混血もいたわ。……昔は』
「それはつまり、お前もかつてはスルト山に棲んでいたということか?」
『そう。あの頃は山から離れることは決して許されなかった。皆使命のために……』
丘からもスルト山は見えた。現在は死の山と称されているが、彼女にとっては大切な故郷だったのだろう。海のように深い青色の瞳はどこか懐かしむように山を見詰めた。
『それでも、楽しい日々には変わりはなかった。たくさんの仲間と妖精、精霊に囲まれて私たちは笑っていたわ……』
ヒルダの姿がニールにはとても美しく……そして、寂しげに感じた。
「だったら、ヒルダさんはどうして山を離れたんですか?」
『離れるしかなかったの。使命も果たせなかった私たちには残された道は死だけだと思っていたわ。だけど、深い傷を負った黒竜たちは、生き残った私たちにはせめて生きてて欲しいと自らの命と引き換えに山から逃がしてくれた……』
同じだ。ニールはヒルダの境遇に自分の過去を重ねた。このドラゴンもニールと同じように守られた命を持っている。
「では次の質問だ。二十年前にスルト山に何があった……?」
『私たちにもあの日、何が起こったかはよく分からない。ただ、異様な強さを持った魔物の大群が一気に押し寄せてきたの』
倒しても倒しても無限に湧いて来る魔物たちに、ヒルダは底知れぬ恐怖を覚えた。どこからやって来るのかも不明のまま、とにかく魔物を山の最下層に近付けてはならないと戦い続けた。
初めのうちは魔物を次々と返り討ちにしていた黒竜たちにも、次第に疲労の色が滲み出した。一瞬でも隙を見せれば魔物はそれを見逃さず、容赦なく襲いかかった。
魔物の大群が人間が放ったものであるとヒルダが知ったのは、多くの黒竜が死に絶えたあと。多くの死骸にまみれた山を何食わぬ顔で進み、最下層へ向かう人間たちを見付けた時だった。
「人間が!? どういうことだ!?」
スルト山が荒廃したことに人間が関わっているというのか。レイラの顔が険しくなった。
『彼らは全員強い魔力を有していたわ。万全の状態であれば、追い払えたでしょうけど、傷付きながら歯向かった黒竜はあっけなく殺された。……そして、私は怖くて逃げた』
混血より強いとされる純血の黒竜が人間に虫けらのように殺される光景。ヒルダにできるのは、ドラゴンの身でありながら人間に背を向けてスルト山から飛び立つことだけだった。
更なる恐怖はそこから始まった。戦意を喪失し、仲間を犠牲して逃げ出したヒルダたちへ人間たちはまたしても無数の魔物を放った。奴らは純血、混血問わず黒竜を一匹残らず殺すつもりだったのである。
『私たちはもう誇り高い黒竜ではなく、知性を持たない魔物どもに狩られるだけの獲物と化していた。皮肉ね、ニーズヘッグ様の言い付け通り人間は殺さずにいた私たちが人間に殺されるなんて……』
「ヒルダお姉ちゃんは、ニーズヘッグを知ってるの!?」
『知ってるも何も、彼は黒竜の長よ。厳しいお方だったけど、冗談を言って皆を笑わせることもある気さくでとても優しいドラゴンだったわ』
ニーズヘッグは魔物が攻め入った時、先頭に立ち果敢に戦っていた。ヒルダたちに逃げろと真っ先に命令したのも彼だ。
だからヒルダは信じられなかった。アスガルドの全てを壊そうとする魔王の忠実なる部下の中にニーズヘッグが入っていたことに。
そんな彼が勇者に討たれたと聞いた時は安心した。これ以上罪を背負う前に死んでくれたと。
『さっきの話、ちょっとだけ聞かせてもらったけど、彼は今人間の国にいるのね』
「だが、奴は本来はニヴルヘイムにいなければならない。お前には言いにくいが、どうにかしてニーズヘッグを取り戻したあとは……」
『気遣いは結構。もう一度世界の脅威となって、皆から憎まれるあの人はもう見たくないもの……』
二十年経った今でも、一族から慕われたニーズヘッグの豹変に悲しんでいる。どうして、と問い詰めたい気持ちもある。
だが、それすら叶わないなら暗く冷たい檻の中に戻って欲しかった。
「ニーズヘッグさんにも色々あるようですね」
『さん付けなんてしなくていいのよ。おかしな人の子ね』
ヒルダは小さく笑った。
『さて、あと聞きたいことは?』
「そうだな。黒竜が何を守っていたかを知りたい」
『神、というべき存在かしら』
「か、み?」
予想していなかった単語にレイラはぽかんと口を開ける。
『どんな姿をしているかはニーズヘッグ様以外は誰も知らない。けれど、スルト山の最下層には古来に封じられたアスガルドの神が眠っていて、黒竜はその神を守っていた。焔神と呼ばれていたわ』




