107.浅葱色
二巻が発売しました。
こっちは猫祭です。
缶詰を近くの飲食店から借りた小皿に中身を移して食べやすくする。
その様子を見ていた仔猫は何度も総司を見上げる。食べていいのか確認するように。
「どうぞ、食べてください」
そう言われて恐る恐る餌を口に入れてみる。そのあと、仔猫はがっつくように食べ始めた。
空腹のせいなのか、餌が美味しいからなのか、或いはどちらも含んでいるのか。それは今の人間の姿のオリーヴには分からなかった。
「すまんね、ソウジ君。こんなことに巻き込んでしまって」
「いえ、猫は大好きですから」
猫の舞踏会のテントからやや離れた人気のない場所。そこのベンチに座って総司とオリーヴはいた。総司の足元ではラインの黄金猫の子供が一生懸命餌を食べ進めている。
仔猫は総司に小さな頭や背中を撫でられても怖がる気配がない。ずっと総司の鞄の中にいて、彼の匂いに無意識の内に慣れてしまったからなのかもしれない。
「でも、いいんですか? この子をうちの役所でお預かりすることになって……」
「うん、流石にラインの黄金猫となると僕たちが面倒を見るわけにはいかないのでね」
アイオライトは役所に一度戻って行った。魔物生態調査課にこの件を伝えに行くためだ。
魔物生態調査課は絶滅が危惧されている動物の保護も行っている。まずはそこに黄金猫を預け、最終的にフレイヤに送り届けることになったのである。
猫の舞踏会は、どの国にも属していない自由な団体。だが、だからこそ飼育が禁じられている黄金猫を保護という名目でも預かることは出来ない。
「本当は今すぐにでも役所に連れて行くべきだと思ったのだけれど……」
オリーヴは餌を食べ終えて毛づくろいを行う仔猫を、優しげな色をした瞳で見詰めた。
報告だけしに行って欲しいとアイオライトに伝えたのにはわけがある。仔猫の父親のことだ。
「もしかしたら、この猫の父親がウルドに辿り着いているかもしれない。他の家族と離ればなれになってしまったんだ。せめて父親には会わせてあげたいとボクは思っているんだ」
「僕もそう思います。独りぼっちは寂しいですからね」
アイオライトが戻ってきたら仔猫を役所に引き渡されなければならない。あと一時間もないのは分かっているが、それまでに父親が仔猫を見付け出せないかと、密かに希望を抱いているのだ。
ひょっとしたら母猫たちを捕まえた密猟者がいるかもしれない。そう言って反対したアイオライトの言葉が正論だと分かっていた。それでもオリーヴは一縷の望みを捨てられなかった。
そこで見張り役を申し出たのが総司だ。自分がオリーヴが黄金猫を連れ去ってしまわないよう監視する。
そんな名目で残ってくれた少年に、オリーヴは深い感謝を覚えた。アイオライトも総司の提案にしばし悩むも、「目を離したら駄目だからな!」と行って役所へ向かっていった。
「ソウジ君は聖剣殿にとって特別な存在なのかな?」
「そういうわけでもないと思いますけど」
「ああ、君がそういう風だからかな」
「………………」
「ソウジ君?」
「やっぱり猫の餌は人間が食べてもあまり美味しくないと思います」
うーん、話がイマイチ噛みあわない。
足によじ登ろうとする仔猫を抱き上げる総司に、オリーヴは思わず苦笑した。
「みゃー」
総司の膝に乗せられた黄金猫が甘えるように鳴く。まだ仔猫にとって、この世界はあまりにも広大で危険だ。仔猫を守るための母親は誰かに連れ去られ、父親も行方不明。
総司がたまたま側にいなかったら、仔猫も今頃は誰かに捕まっていただろう。空腹が満たされ、膝の上で腹を見せるように仰向けに寝転ぶ仔猫を見るオリーヴの瞳に昏い光が宿る。
人間はいつでも自分勝手だ。人一人の命と猫一匹の命を天秤にかけたところで、どんな時であっても傾くのは前者。
(ボクには理解出来ないな。この世の摂理なんて)
人間か猫か。命が命であるのに変わりはないのに、何に生まれたかによって重さが変わるのは間違っている。
いっそのこと、壊れてしまえばいい。不公平な天秤なんて。
「オリーヴ君」
「あ……ああ、すまないね。少し考え事をしていた」
「なるほど」
総司は一つ頷いてオリーヴの眉間に寄った皺を人差し指で押し広げるように撫でた。
「そういう顔してると子供らしく見えないから、しない方がいいですよ。アイオライトさんも時々そうしてますけど」
「彼女もボクも長生きなのでね。特にボクは君が想像出来ないくらい途方もないほどの時間の針を刻んでいる。ただの猫でいたのは三、四年ぐらいだったというのに」
「? 元々オリーヴ君は妖精だったんじゃないんですか?」
「ケット・シーは死んだ猫がまれに妖精化して生まれるんだよ。ボクにもただの飼い猫だった時代があった」
病気で早く死んでしまったが、飼い主はオリーヴを愛してくれたし、亡骸を抱き締めて涙も流してくれた。
そうやって猫だけではなく、ペットを大切に見てくれる人間もいる。
だが、その反対もいるのは確かだ。そんな連中をオリーヴもたくさん見てきた。
「……ソウジ君、もしの話だ。もし、この仔猫から家族を奪った人間が見付かった時はボクから目を離さないでもらいたい」
「それはどうしてですか?」
「ボクがそいつらを残酷な方法で殺してしまうかもしれないからだ」
総司がきょとんとした顔でオリーヴを見る。人殺しをする、と言っている者に対して見せる表情ではない。
驚くか、嫌な顔を見せるかのどちらかと思っていた。眠ってしまった仔猫を撫でながら、不思議そうに視線を向けてくる少年にオリーヴの中で静かに燻っていた炎が消えていく。毒気を抜かれた、と言っていいかもしれない。
「……何でもない。冗談さ。忘れてくれ」
「はあ」
「さて、そろそろ聖剣殿がこちらに来る頃かな……」
オリーヴが苦笑気味に呟いた時だった。二人の頭上から黒い布が降ってきた。
避ける暇もない。オリーヴはそれに包まれた瞬間、強烈な睡魔に襲われ瞼を閉じてしまった。
少なくとも三人分。意識を失う瞬間、こちらにやって来る足音を聞いた。
遡ること、数十分ほど前。アイオライトは愛らしい見た目からは想像のつかないようなしかめっ面で役所から出てきた。
(あんのサキュバス! こんな時に何してんだよ……!)
魔物生態調査課の課長はリリスである。彼女がいれば話もすんなり進んだろうに、よりにもよって課に残っていたのは、まだ働き始めてから二週間ほどの新人。
確かリリスも今日はいたはずなのに、と首を傾げたアイオライトに、新人からの「リリス課長は所長とデートっす」と非情な言葉。しかも、新人も「黄金猫ってなんすか?」と話にならないので、撤退を余儀なくされた。
とりあえず黄金猫だけでも回収しに行こう。そう決めたアイオライトだったが、こちらに向かって一人の人物が現れた。
「……?」
それは浅葱色の羽織を身に着けた男だった。下は黒い袴を、羽織の中には袢纏を着込んでいるようだった。その腕には藤色の巾着袋が大事そうに抱えられている。
オボロが生まれ育った地域でよく着られている衣服と似てはいるが、どこか違う。
さらに顔面は白い包帯で巻き付けられて分からない。男だと判断したのも、肩幅が男性らしかったからだ。
この夜、一番関わりたくない変質者の出現にアイオライトは顔をしかめた。
そんな彼女の思いとは裏腹に、男はアイオライトに近付いてきた。
「ふむ、こんな時間に幼女が外出してはいけないではないか。怪しい人物に声をかけられたらどうするのだ」
彼が懸念していることがたった今起きている。声がまだ若いところを考えると少年か。
「アタシは役所の……」
「いや、しかし、貴様を保護する前に一つ聞かなけらばならないことがある」
「話し聞けよ!」
「今夜はこのウルドで蛸の舞踏会という団体による猫の展覧が行われると聞いていたが」
「蛸って何だ!? どうしてそこ間違えた!?」
「この猫を保護して欲しいと思ってな」
人の話を一ミリも聞く気がない少年は巾着を広げた。そこにあった、いや、いたものにアイオライトは驚愕した。
「にゃー……」
そこにいたのは、右脚を血で滲ませた黄金猫だった。




