伯爵令嬢は悪役令嬢の物語に触れる
森の中、また一人侵入者を捕まえた。例のごとく、ラクスボルンの者だ。舌を噛み切られないよう猿轡を噛ませ、馬に乗せる。先日送った者が帰ってきていないというのに懲りることなくラクスボルンは間者を送ってくる。資源の無駄遣いというのか、それとも自国の兵士以外は使いつぶしていいと思っているのか、定かではない。
後者であれば大した情報もきっと持っていないだろう。前回の二人と同様の情報量しか望めまい。ただ前回とはラクスボルンの状況も変わっているかもしれない。そう思い兵舎に連れ帰ることにした。
「団長、」
「まあたお前か。前と同じ牢屋に入れておけ」
面倒くさそうな顔をする団長はしっし、と追い払うようなジェスチャーをする。しかし先日男二人を捕らえた功績として団長にボーナスが出ていることは知っている。
男を引きずりながら、ふと思う。
「なんか牢屋とかきれいになりました?」
前回ここに男二人を放り込んだ時は、引きずった跡が付くほど埃がたまっていたのに、今はほとんど埃が落ちていない。それどころか汚れやシミもない。兵舎の牢屋は現王になってからはほとんど使われていない。少なくとも使われていたのは2,3代前の王政下だと聞いている。そのため牢屋やそこへ行くまでの通路はほとんど物置のようになっていて薄汚れていた。しかし今は新築もかくや、という様相だ。
「あー、陛下が来てらっしゃったんだよ。それで慌てて大掃除だ」
お前は牢屋に放り込んで終わりだったけどな、と言われ、なるほどと嘆息する。ただあの人は牢屋が綺麗だとか汚いだとか、そんな些末なことを気にしたりはしないだろう。
けれど牢の前まで来て気づく。
男二人が入っていた牢は既に空で、つい先日まで人がいたような気配もない。
「まあそういうことだ。吐かすだけ吐かせて、残りかすはポイ。……頼もしいが、恐ろしい人だよ」
苦々しく口元を歪めた団長に、ここで何が行われたを理解した。
情報を搾り取り、用なしとなれば速やかに処分。
牢の隅に置かれたいくつかのバケツに、形容し難い苦い感情が込み上げてきた。
本来なら捕虜の拷問など。国の元首が行うようなことではない。下っ端にやらせておけばいい汚れ仕事だ。にも拘わらず、陛下は手ずから行った。それも団長の口ぶりからして、処分まで自身の手で。
陛下はいったいこの牢屋で、どんな”楽しみ”を見出したというのだろう。
そしてこの会話は私に連れてこられたラクスボルンの男も聞いていた。
顔を青くさせ、縋るような目で何事か猿轡の下から言葉を吐こうとする。何を言っているかはわからなかったがおそらく、命乞いだろう。ただの雇われであるだけに誇りも忠義もなにもない。きっと知っている限りのことを話してくれるだろう。けれどそれ以後のことは、もはや私たちの手を離れる事象。
「恨むなら馬鹿なことをしたラクスボルンを恨むんだな」
憐れみを含んだ声色で団長は男に吐き捨てた。
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ラクスボルン王国。数百年以上王家ラクスボルン家が王政を執っている国家である。国土は決して大きくはないが、人口との釣り合いは取れており、また自然が豊かであることから農業や林業が盛ん。木材を使った家具や小物などの技術が発展しており、他国からの需要も大きい。鉱山などの資源はほとんどないに等しいが他国との交易で賄えている。
ラクスボルンとは長くそういった認識であった。しかしここ1年ほどですっかりその印象は塗り替えられている。
不可思議な国であった。
今まで小さいながら堅実な国であったのに、不可解な点が現れていた。王位継承権第1位の王子の婚約破棄、教養のない男爵令嬢との婚約、有力貴族である公爵家の一人娘の追放、ダーゲンヘルム領への侵入。正気を失ったとしか思えない。
それに加え、物語の国ダーゲンヘルムもかくやという勢いで語られる多種多様な物語たち。それを生み出すのは第一王子ミハイル・ラクスボルンの婚約者カンナ・コピエーネ男爵令嬢。
あまりに異様だった。
たった一人の男爵令嬢を中心に広がる狂気。それはまるでラクスボルンという国自体がカンナ・コピエーネの物語に感染し、侵されていくようで。
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噎せ返るような血の匂いに顔を顰めずにはいられない。鼻につく、舌の付け根に匂いがまとわりつくようだった。
首のない死体。
赤い床。
倒れたバケツ。
転がる首。
あの牢屋でも、きっと陛下はこうしたのだろう。だから牢屋は使った形跡すらないほどきれいに掃除され、牢屋には必要のないはずのバケツが置いてあった。今更ながら、知りたくはなかった。
きっとここにいる人間の数だけ、首とバケツは転がるのだろう。そして私が片手で引きずっているこのラクスボルンの男も。
「アコニート、よくやった」
振り向いて笑う陛下の顔は凄絶で、あの日見た顔とよく似ていた。けれどあの時とは違う。あの時は愉悦と高揚感で溢れていた。けれど今はそれに加え明確な怒りが見て取れた。赤い目はバケツに残った血の色を流し込んだようであった。
恐ろしいと、思わずにはいられない。仲間である私でさえ恐怖を感じるのだ。ここに並べ座らされたラクスボルンの者たちの恐怖とはいったいどれほどのものだろう。
何が悪かったといえば、それはただ”運”だろう。
ダーゲンヘルムの侵攻は魑魅魍魎が通ったよう、などと呼ばれるが、正しくそれなのだ。災害や事故そのものともいえる。理不尽なまでに蹂躙され、何も残らない。
情はないが、憐憫はある。けれど彼らにはどうしようもないのだ。ラクスボルンは、ただ息をひそめ災害が通り過ぎるのを待つほかに道はない。
陛下はラクスボルンの上層部のすべてを”罪人”と呼ぶ。
けれど私は彼らを罪人だとは思わない。
彼らは騙されたのだ。罪があるとすれば少女の証言を鵜呑みにし、捜査を怠ったことだろう。怠惰とは、罪深い。その怠慢により、一人の少女はすべてを失った。
それでもその罪を命を以て贖うのは、国の未来を以て贖うのはあまりにも重い。
私は裁定者ではない。中立の立場には立っていないし、一片の穢れのない正義を持っているわけではない。であれば、陛下の言うことがもっとも正しいことなのだ。少なくとも私たちが従っている間は。
低くかたい音が転がったバケツから響く。一瞬、すべての声がなくなった。
譫言のように、口々に
「カンナ・コピエーネは悪魔の子だ」
「すべてはあの女のせい」
「私たちはあの女に嵌められたのだ」
誰のことを言っているかは明白だった。
諸悪の根源、男爵令嬢カンナ・コピエーネ。
まだ成人すらしていない少女のことを次々に口にする。声にすればするほど、言葉にすればするほど、怒りは増幅する、絶望は寸の間、憎悪で覆い隠された。
男たちは話した。なぜシルフ・ビーベルをラクスボルンに呼び戻そうとしていたのか、その計画を。




