第95話
「な、投げろじゃとぉっ!?何を馬鹿な」
返ってきたのは、予想通りの返事と表情。ブン投げてもらって川を越えようなどと、確かに馬鹿げた発想だ。他ならぬ自分でもそう思う。だが、不可能ではない。ミゥの力があれば、容易であるはずだ。
「出来るだろう?頼む。力を貸してくれ」
「……う、うむ。まあ、お主を向こうに投げ渡してやるくらいは出来るじゃろうが……それはそうとしてお主、どうやってこちらに戻ってくるつもりじゃ?」
言われて、はっとする。そうだ。投げ渡してもらっては、帰ってこれない。向こう側に行くことばかりを考えて、帰ってくる方法を考えていなかった。俺が頭を抱えると同時に、ミゥがため息を付いた。
「少し頭を冷やしたほうが良いぞ。あの娘を心配するあまり、平静さを欠いておるのではないか?」
「……そんな、ことは」
ないとも、言い切れない。俺は言葉を詰まらせる。
「…………愛して、おるのじゃな」
ミゥは岩に腰掛け、ため息混じりにどこかつまらなそうな呟きを零す。俺は轟々と唸る濁流を見つめ、肩を落とした。
「……俺は、俺たちは、無力だった。誰も、誰も守れなかった。そうしてただ死にゆく俺たちに、あの御方は手を差し伸べてくれた。立て、と。その手で守ってみせろ、と。……俺は、誓ったんだ。もう二度と、奪わせはしない」
「……」
ミゥはふんと息を吐いて岩から飛び降り、踵を返す。
「詮索するつもりはないがの。慌てるべき時にこそ、落ち着いて周りをよく見るべきじゃ。お主があの娘を大切に思っておるのなら、なおさらな」
「……そう、だな」
ふうと一息。少し、慌てていたのかもしれない。ミゥの言う通りだ。こんな時だからこそ、落ち着かねばなるまい。幸いにも、一刻の猶予もないほど切羽詰まっているわけではない。落ち着いて、周りをよく見て――
「(……あ)」
ふと、それに気づく。唸る濁流の向こう側。立ち並ぶ木々の合間に、朽ちて眠る巨大な倒木。あれならば、ひょっとして。
「さ、帰ろうギルバート。皆心配しておるでな。あぁ、川には見張りを立てよう。グランの花は、きっと遠からず手に入る。それまでは、あの娘の傍に居てやれば良い」
「待て、ミゥ」
「なんじゃ。まだ何か――」
振り返ると同時に、俺が指し示すほうを見たミゥはハッとして目を丸くする。
「……ま、まさかお主。あれを」
「ミゥ。ひとつ聞きたいんだが。森の倒木ってのは、好きに使って良いのか?」
「あ、あぁ。倒木や折れた枝は、木の実や草花と並ぶ森の神の恵みじゃ。小さなものは薪として、大きなものは建材や、道具の素材として重宝しておる。生きた木を切ることは許されておらぬゆえな」
「そうか」
川のこちら側に倒木が見当たらないのはそのせいか。なるほど。だが、それなら好都合だ。この状況を打破するための、文字通りの架け橋。まさしく、森の恵みではないか。
「……あの太さ。あの大きさなら、恐らくこの川に橋を掛けられる。俺一人でも、丸太を動かすことくらいは出来る。これで帰りの心配は無い。俺を投げてくれ。ミゥ」
「ほ、本気か?お主、中々強情じゃの」
「俺はやると決めたらやる男だ。何度も言わせるな。不安の種は、一刻も早く取り除いておきたいんだ」
「……し、しばらく待てば良かろうと言っておるのに……何が、お主をそこまで駆り立てるのじゃ」
「言う通りにしばらく待って、神樹の花が効いているうちに川が落ち着くという確証はあるのか?見ろ!今もなお、川は少しづつ広がっている。森に雨が降ったのは、少し前だと言ったな。にも関わらず、濁流の勢いは衰えていないんだぞ。それがあと数夜の間に治まると、何故言い切れる」
「……っ」
ミゥは言葉を詰まらせ、後ずさる。その背が、木の幹にぶつかる。俺はなおも詰め寄り、木の幹に勢いよく手を付く。その肩がびくりと震えた。
「…………頼む。力を、貸してくれ」
囁いたその言葉に、あどけない顔が真っ赤に染まる。
「……どうなっても、知らぬぞ。この、馬鹿者ぉっ!」
ズンと響く衝撃。振り抜かれたその拳が俺の胸を突き飛ばし、鎧の襟首を掴んで振り回す。細腕とは思えぬ怪力に俺の足は地を離れ、視界は二転三転して上を向く。どうせならもう少し優しく持ち上げてくれれば良いものを。なんて、文句は言えないな。
「頼むぜ。濁流に落としてくれるなよ」
「わ、わかっておる!じゃが、お主、受け身はしっかり取れるんじゃろうな!?」
「あぁ。衝撃には慣れてる。これでも、打たれ強さには自信があってな」
「……はあ。まったく……ほれ、行くぞ!!」
ミゥは俺を担いで少し後ずさり、勢いよく地を蹴る。一歩。二歩。力強く崖を踏みしめ、細腕が唸る。その瞬間、俺は虚空へと投げ出された。
「…………ッ」
一瞬の浮遊感。たちまち眼下に唸る濁流を越え、俺は地を跳ねる。激しく揺らぐ視界を閉ざし、衝撃に歯を食いしばる。そのまま俺はいくつもの石や木の根に全身を打ち付け、やがて巨木の幹が俺を抱きとめる。流石の腕力。期待を裏切らないな。
「あァ」
ちかちかと瞬く意識をどうにか脳裏に押し留め、泥を拭って身を起こす。
「……ふん」
唸る濁流の向こう。対岸に佇むミゥが、腰に手を当てた。




