第75話
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。俺はギルバートだ」
「あ、あたしはエミリー。エミリー・フレアロード。人呼んで『猛火の魔女』よ!あたしってば、これでもベスティエラではそれなりに名の知れたエリート出身なの。……あの化け物相手には、ほんのちょっぴり調子が出なかっただけで。いつもなら、あんなやつに手こずったりしないのよ!」
「そうか。それはすごいな」
「ほ、本当だってばぁっ!」
燃える髪を揺らして歩く魔女、エミリーと他愛のない話をしながら、崖沿いを歩く。気がつけば、乾いた岩肌が広がっていた周囲の景色には降り積もった雪の白が混ざり、吹き抜ける風は雪混じりで冷たい。が、隣にエミリーがいるおかげか、寒さというものはあまり感じない。
例えるなら、そう。まるで焚き火が歩いているかのような暖かさだ。
それでいて、触れても決して熱くはない。
恐らくあの髪は本当に燃えているわけではなく、彼女の持つ魔力そのものが火霊の力と反応して、炎のそれと似た熱と光を放ち続けている。バラムスに叩きのめされた直後の、焦げ付いたような灰色混じりの黒髪こそが、彼女の本当の髪色なのかもしれない。
「…………さっきの男」
ふと、エミリーが切り出す。その声に一瞥すると、エミリーは燃えるようなその瞳を悩ましげに細めた。
「どうかしたか?」
「あたし、ベスティエラから来たんだけど……あの男の顔、なんとなくだけど、見覚えがあるの。どこかで、そう、どこかであの顔を見たような気がするのよ」
「あの男の顔を、か?どこにでも居そうな顔だった気がするが……他人の空似じゃないのか」
「ううん。確かに見たわ。あの、なんというかこう、ふにゃっとした感じの、へらぁっとした感じの、あの雰囲気は間違いないわ。直接話した覚えはないから、知り合いとかじゃないはずだけど……ええと、どこだったかしら。ちょ、ちょっと待って!もうここまで出てるの!」
身振り手振りで言葉を連ね、うんうんと唸るエミリー。
コロコロと変わる表情は見ていて飽きないが、そんなことをぼんやりと考えている場合ではない。
ベスティエラは、叡智と文学の神にして魔術の生みの親であるベスティア神の信者が集まる街。名だたる魔女や魔術師が日々研究を重ね、その無限の叡智を追い求める魔法使いの聖地である。
そんなところからやってきたエミリーがあの男の顔を見たということは、あの男もベスティエラに居たということ。つまりは、何らかの魔術に精通した人物である可能性が高いということ。そう考えると、如何にも怪しい。まさかとは思うが、あの黒服どもの関係者ではなかろうな。
いずれにせよ、これはまた詳しく調べる必要がありそうだ。
「……ダメだわ。思い出せない。街のどこかで見たことだけは間違いないんだけど」
「そうか。まぁ、いいさ。それより、もうじきリリアが戻ってくるはずだ。何か合図を――――」
と、見上げた灰色の空。視界の端を横切った影が大きく弧を描き、翼を広げて迫りくる。岩と同じ色の皮膚。きらりと光る鋭い嘴。愛嬌の欠片もない捕食者の眼。それがリリアでないことは、ひと目で分かった。
「きゃあっ」
咄嗟にエミリーの肩を抱き寄せ、身を捻る。エミリーは驚いて小さな火を吹くも、すぐさま岩肌に突き刺さる頭上からの襲撃者に二度驚いて目を見開く。轟音と共に土くれを撒き散らした襲撃者はその翼爪を岩に食い込ませ、その鋭い嘴を引き抜いた。
翼を開けば俺の身の丈の倍はあろうかというほどの、大きな鳥だ。やせ細った様子のそいつは、大きなその嘴を開いて耳障りな声を上げる。
「な、なな、何、鳥!?でかっ」
「どうやら腹を空かせているらしい。下がってろ」
俺はいつもリリアにしているように、エミリーを背後に押しやるも、エミリーは途端にむっとしてずずいと前に出てくる。
「下がっているのはあなたの方よ。ギルバート。こんなやつ、あたしがすぐに追い払ってあげるわ!」
エミリーはそう言うが、女の後ろに隠れているなど冗談ではない。俺はエミリーの前に出る。
「必要ない。俺一人で十分だ。いいから下がってろ」
「んもう!あたしは勇者なのよ!あなたみたいな、普通のひとを守るのがあたしの仕事なの!」
「女の後ろに隠れる趣味はない。そもそも俺は守られるほど弱くはないぞ」
そうこうしているうちに、空腹な鳥は大きく翼を広げて嘴を鳴らす。その喧しい声に、俺とエミリーは肩を並べて拳と杖を構える。そうして鳥が激しく羽ばたいた、その瞬間。虚空に尾を引く眼光と共に舞い降りた巨大な影が鳥を踏み潰した。
「ひゃあっ!?こ、今度は何よぉ!」
「にゃあ~」
「にゃあ~」
巨大な翼を折りたたむ影の背から飛び出してエミリーに引っ付く子猫たち。悲鳴と共に尻もちをつく様を横目に、俺は駆け寄ってくるリリアを抱きしめる。
「ギルバートさま、お怪我は」
「大丈夫。かすり傷さ」
俺の胸に頬を寄せて微笑むリリアを抱き上げ、子猫たちに揉まれるエミリーを覗き込む。困ったような、怒ったような、しかしどこかまんざらでもなさそうな顔をしていたエミリーがハッとして我に返り、やがて跳ね起きた。
「んもぉっ!何なのよ!」
「お姉ちゃんやっぱりあったかいにゃあ」
「お空怖かったにゃあ」
エミリーに擦り付き、にゃあにゃあと声を上げる子猫たち。俺はリリアと顔を見合わせ、肩をすくめた。




