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魔王のすゝめ  作者: ぷにこ
第五章 魔王と猫の国 後編
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第74話





「上がってこない、な……」


 雪混じりの冷たい風が吹き抜ける渓谷。底が見えぬほど深く、あの巨体が転がり落ちるほどに巨大な大地の裂け目に膝をついて覗き込み、ため息を付く。底知れぬ暗闇は既にしんと静まり返り、バラムスの声は聞こえない。巨体を脱ぎ捨てて這い上がってくる気配もない。俺はすっと立ち上がり、踵を返す。岩陰に座り込む魔女が顔を上げた。


「……し、死んじゃったの?あの、化け物……」


「いや。死んじゃいないさ」


 そう、あいつはそう簡単に死ぬような男ではない。あいつのしぶとさは、俺がよく知っている。谷底へ落ちたくらいで、バラムスが死ぬものか。なにせあいつは、殺しても死なない魔王だぞ。


「(しかし、まあ)」


 この様子では、またしばらく合流は出来そうにないな。俺はごつごつとした岩肌に背を預け、灰色の空を見上げる。


「(……それより)」


 あの子供。あいつは一体何者だ。あれは一体何だ。

 ちらりと見えた限りでは、給仕服のような服を身に纏い、鈍い銀色の髪を短く切り揃えた女の子。こちらを見上げた眼は沼の底のように濁っていて、感情は読み取れなかった。何よりも気になるのが、あの力。あれほど大きく強靭に育ったバラムスの馬鹿力を受け止め、あの巨体を押し返すほどの怪力とは。


 アレクサンダーのそれとは明らかに何かが違う。どこか歪で、不気味な力であった。まさかとは思うが、あれも黒服どもの『作品』じゃあないだろうな。


 あれは、危険だ。あんなものが何匹もウロウロしているとしたら、獣人たちはもちろんだがこの辺りに住む全ての生物が危ない。もちろん、俺たち魔族も例外じゃない。魔族に害する者は、魔王の敵だ。取り返しの付かないことになる前に、駆逐せねばなるまい。


 しかしやつは飛び去ってしまった。あの様子では、足取りを追うのも難しい。それよりも、今は――――


「ねえ。これからどうするの?」


 今にも泣き出しそうな声を上げ、俺を見つめる真紅の魔女。困ったように傾くその眉と、どこか遠慮がちにちりちりと燃えるその髪。見ず知らずの男に振り回された紅蓮の勇者はもはや、弱々しい女の子に成り果てていた。


「さあ。どうしようかね」


「さ、さあって……」


「状況が変わった。君はもう、俺の言いなりになる必要はない。今この場には君と俺の二人しか居ないし、辺りは一面の岩山。ここでなら、君の自慢の魔法も好きなように使えるだろう。何より、今の俺は手ぶらだ。君を拘束するすべはないし、君の魔法に対抗するすべもない。君は俺を置いて立ち去ることも出来るし、俺を殺すことだって出来る。主導権を握っているのは君のほうだ」


 そう言って俺は四肢を投げ出し、ちらりと魔女を一瞥する。魔女は困ったように言葉を詰まらせながら顔を逸らした。


「あ、あたしは正義の味方なの。あたしの魔法は、悪い魔物を退治するためのものよ。無闇にヒトを傷つけるためのものじゃないの。だ、だから、別に何もしないわよ。あ、あんまり、悪い人じゃ、なさそうだし……」


 最後のほうはゴニョゴニョと、しかし確かに、魔女はそう言った。どこぞの小さな勇者と同じようなことを言う。勇者は殺すべき敵だが、たまにこういうのが出てくるから困る。この娘も、アレクサンダーと似たような志を持つ勇者だ。


 悪い魔物を退治するために、その力を使う。それは即ち、悪い魔物でなければ殺しはしない。その力を無闇に振り回したくはないということ。そのような考えを持つ勇者は、殺すべきではない。俺はそう考えている。


 それ以前に俺は、戦う意思のない者とは戦わない。対話する意思があるなら、俺は拳を下ろして言葉を交わす。たとえそれが、勇者であってもだ。


「よっと。隣、いいかい?」


「ぁ、うん…………」


 俺は跳ね起きて首を鳴らし、魔女の隣に腰掛ける。その横顔は、自らの炎に火照ったように赤く染まっている。


「……もう少しすれば、飛んでいった俺の相棒が戻ってくる。これからどうするかは、それから考えよう。幸いにも、この辺りには魔物も居なさそうだ。こうして君の隣にいれば、寒さも気にならない。むしろ暑いくらいだ。野営の準備もしておいたほうが良いかな。どう思う?」


「……そ、そう……ね……あたしも、そう、思うわ」


「そうか。それじゃあ」


 ふと、視界の端に小石が転がる。目を向けると、黒い影がさっと動いた。



「誰だ」



 咄嗟に座り込む魔女を庇うようにして声を上げると、睨みつけた岩陰から痩せぎすの男が両手を上げてすごすごと顔を出す。


「や、やあ。すまない。お二人の邪魔をする気は無かったんだ。いや、本当に」


 裾の擦り切れた黒いローブとコートを羽織り、鎖を巻いた箱のようなものを背負った男である。どこか怯えたような、驚いたようなその表情には、張り付いたような笑顔を浮かべている。見るからに細身で頼りなさげな、優しげな顔をした男だ。


「貴様、何者だ。こんなところで何をしている」


「そ、それはこっちの台詞だよ。きみたち、こんなところで何してるんだい。駆け落ちか?秘密の密会をするにしても、こんなところでしなくてもいいじゃないか。まあ、確かに、ここなら二人の時間を邪魔されることもないだろうけど、さ」


「な、な、何よ!あたしたちはべつに、そういうのじゃ」


 前に出ようとする魔女を背後に押し留め、俺は肩をすくめる。


「……道に迷ったんだ。乗っていた獣に振り落とされてな。あんた、雪国の楽園とやらを知らないか?」


「あぁ、それは災難だったね。楽園か。それはきっと、ヴァレムシアのことだろう。きみたちは運がいいよ。この渓谷は、ちょうどそのヴァレムシアのすぐ近くまで続いてるんだ。この谷に沿ってずっと歩いていけば、間違いないよ」


「そうか。ありがとうよ。それで、あんたは一体こんなところで何をしてるんだ?」


「僕かい?僕は今、珍しい魔物の生態について調べていてね。今しがた、この辺りで大きな鳴き声が聞こえたろう?何か、それらしいものを見なかったかい?」


「いや。確かに大きな声は聞こえたが、それらしいものは居なかったぞ。なあ?」


「う、うん」


 ちらりと目配せをすると、魔女はこくりと頷いて俯く。



「そうかい。おっかしいな。この辺りだったはずなんだけど。まあいいや、それじゃあ。ね。僕は失礼させてもらうよ」


 そう言って、男は鼻歌混じりに山道を下りていった。

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