第70話
「来た。来たよ!リリアちゃん、入ったよ!多分」
「ほ、本当ですかっ!?……その多分っていうのが気になるんですけど」
「ご、ごめんね。分かりにくいんだよ、これ。見分けるのがすごく難しいの。で、でも大丈夫。今度こそ、ちゃんと入ったはず。ほ、ほら、呼吸の調子が変わってきてる。ギルバート!聞こえる?ギルバート!」
「ギルバートさま」
あぁ、聞こえているさ。聞こえているとも。
随分と久しぶりのように思える、聞き慣れた二つの声。深く息を吸うと同時に、体に魔力が満ちる感覚。幾度となく死の淵をくぐり抜けてきた、我が肉体。鎧のものとは違う、ずっしりとした四肢の感覚に、懐かしさすら覚える。
「……おう」
深く息を吐いて静かに眼を開くと、俺を覗き込んでいたリリアとエレオノールがぱっと表情を綻ばせた。
「ギルバート。よかった」
「ギルバートさまぁっ」
身を起こすと同時に飛び込んでくるリリアを抱き止め、強く抱きしめる。
それほど長く離れていたわけではないが、それでも久しぶりに思える小さな体。幾度となく抱きしめた温もりと、柔らかな香り。華奢な肩を抱き、その長い髪に指を絡めただけで、ため息が出る。リリアの尻尾がぴんと張り詰めた。
「心配をかけて、済まなかった」
俺を見上げるリリアの瞳にじわりと涙が浮かび、その柔らかな頬がぷくりと膨れる。くっと笑ってその膨らんだ頬を撫でてやると、エレオノールがため息をついた。
「ほ、本当によかった。おか、おかえり。ギルバート。魂だけどっか行っちゃったって、聞いた時は焦ったけど、うん。ちゃんと、引き戻せてよかった」
「ありがとう、エレオノール。お前が、手を貸してくれたんだな。おかげで助かった」
エレオノールは頬を染めて目を逸らし、ぎこちない笑顔と共に顔を伏せる。
なるほど確かに、魂の取り扱いに関しては黒魔術師の本分。となれば、エレオノールの右に出る者はいない。肉体を離れた魂を呼び戻し、再びあるべき器へと収める術は、まさしく得意分野であろう。
「……どうやら、無事に帰ってこれたようですね」
リリアを撫でながら一息付くと同時に、部屋の扉が開け放たれる。軽食と飲み物を手にしたヴィヴィアンが肩をすくめた。
「よう、ヴィヴィアン。心配をかけたな」
「あなたのことですから、そのうちどうにかして帰ってくると思っていましたよ。ひとまずはお帰りなさいと言うべきでしょうか」
手渡されたグラスを傾け、輝く魔水を喉に流し込む。
舌に触れるそれはひやりと冷たく、すっきりとした喉越しと後味が心地よい。体に染み渡るこの感覚も、随分と久しぶりのような気がする。ヴィヴィアンがベッドに腰掛けた。
「本当に大変だったんですよ。どこへ行ってしまったのか検討も付かず、リリアちゃんは大騒ぎするしで……宥めて落ち着かせるのがどれだけ大変だったか」
「ヴィヴィアンさま」
「あぁ、本当に済まなかった。俺としても、どうしようもなかったんだ。それより、エレオノールがここに居るのは珍しいな。初めてじゃないか?お前があの墓場から出てくるなんて」
俺がそう言うと、エレオノールを含めた全員がどこか微妙な表情を浮かべる。
やがてリリアとヴィヴィアンの視線がエレオノールに集まり、エレオノールは得も言えぬ表情に顔を歪ませ、絞るようなため息をこぼした。
「……どうした?何かあったのか?」
「えぇ、と、その……ううん。なんでも、ないの。ちょっと、い、家出してきた、だけだから……」
「家出だと?」
エレオノールは自らの領域から出てくることはまずない、随分な引きこもりであったはず。それがこうして他の魔王の領域にまで来ているだけでも珍しいというのに、家出をしてきただと。墓場の住民たる死霊を愛し、死霊に愛されたこの女がか。
にわかには信じがたい。だが、冗談を言っている様子でもない。
「一体、何があったっていうんだ。お前が、家出だと?」
「な、なななんでもないの。ほんとに。気にしないで。この話は、その、うん。私の問題だから。その」
「喧嘩したらしいですよ。それも盛大に」
「ヴィヴィアン!」
あぁ、そういうことかと肩をすくめる。あのメイドたちか、あるいはあのカボチャ頭と喧嘩して、居づらくなってヴィヴィアンの村に駆け込んできたわけか。そこに丁度、黒魔術師におあつらえ向きの仕事が転がっていたと。まあそういうことなのだろう。
こっちもこっちで、一悶着あったようだ。全く、どこにいても退屈しないな。
「そんなわけで、まあしばらくはうちで家を貸すことになったのです。エレオノールさんも、しばらくは帰りたくないと駄々を捏ねているもので」
「だ、駄々なんか」
「捏ねているではありませんか。さっさと仲直りすれば良いものを……つまらない意地を張っているから、取り返しが付かなくなるんですよ」
「う、うぅ」
大きな体をしゅんと縮こまらせ、指を絡めるエレオノール。ヴィヴィアンは流石に叱り慣れているというか、心を殴るのが得意な女だ。そんな魔王たちの様子を尻目に、俺に抱きついたまま頬を寄せるリリアを撫でてやると、開け放たれた部屋の入り口から数人の子供が駆け込んでくる。
「にゃあ~」
「にゃはは~」
互いに追いかけあって笑うその子供たちは、もふもふとした柔らかな体毛に覆われた獣人。もとい、二足歩行する猫。猫の獣人、ネ族の子供だ。
「こら、あなたたち。出発の用意は済んだのですか?」
「やだー、まだここにいたいよー」
「寒いとこに帰りたくにゃいにゃ~」
顔を見合わせ、にゃあにゃあと鳴き声を上げる子猫たち。俺がその様子に目を見開くと同時に、宿そのものが大きく揺れた。
「ごるぁぁネコのガキども!!何処行きやがった!?」
響き渡る大声。子猫たちが飛び跳ねて逃げ出し、窓の外に巨大な蟲の脚が突き刺さった。




