第69話
「……」
どこまでも続く、仄暗い闇の底。
音もなく、風もなく、ただ静かな暗闇が広がるその場所に、俺は佇んでいた。
「…………」
ここはどこだ。分からない。けれど、何度か来たことがあるような気がする。そんなことより、俺は何をしていたんだっけ。あぁ、そう、獣人の国に居たんだ。やることなすこと空回りしてばかりで、よく分からぬまま散々な目に遭って、それで。俺は何をすればよかった。どうすれば、良かったんだ。
「……わからねーよ……」
そう呟いて。静かな闇に倒れ込むようにして身を横たえる。
ここは静かだ。寒くもなく、暑くもなく、広々としていて、なにもない。ここにいれば何も考えなくて済むのだろうか。誰とも会わずに、何もせずに、ただ、静かに。こうしていると、このまま暗闇に溶けてしまいそうだ。
だが、それも悪くないかも知れないな。心なしか、気も安らかになってきた。
「……?」
そうして眼を閉じようとした俺の視界に、舞い降りたいくつもの光がふわりふわりと俺を見下ろし、やがてそれらは透き通るスフィアとなってそれぞれ異なる紋章を浮かび上がらせる。
「疲れてしまったのかい?壊れてしまってはいないかい?」
俺の耳元でそう囁いたそのスフィアに浮かび上がるそれは、長さの異なる二つの針を持つ円盤の紋様と、その中心に重なる『10』の数字。くるりくるりと回るその針の動きが反転すると同時に、倒れ込むように横たえたはずの俺の体が立ち上がる。否。倒れる前まで、戻される。俺がぎょっとして目を見開くと、いくつもの笑い声が上がった。
「よせよ。ディアボロスのお気に入りだぞ」
「ボクにも触らせておくれよ」
きらめく尾を引くスフィアが、すいと俺の前に降りてくる。
それに浮かび上がる模様は、五つの角を持つ尖った図形と、中心に重なる『17』の数字。そのスフィアから光り輝く腕が伸び、その指先が俺の顔を撫でる。
「キミの名前はギルバート。そうだろう?あぁ、返事はしなくていいよ。キミはボクのこと知らないだろうけど、ボクはキミのこと知ってるんだ。うん。うん。相も変わらず、いい色だね。キミには、とびきりの星をあげようね」
その輝く指先が俺の額に触れると同時に、光が弾ける。眩い光が瞬いたその瞬間、俺を覗き込むいくつもの影が暗闇に一瞬だけその姿を現し、すぐに消えた。
「キミに幸あれ。おまじないだよ」
おまじない。その意味を尋ねようとしたその時、暗闇が揺らぐ。虚空にぱちりと開いた金色の双眸が俺を取り囲むスフィアを睨み、暗闇の中に巨大な漆黒の影がのそりと動いてその口を開く。白い牙がぬらりと光る。牙を剥いて「ギャアオ」と声を上げたそれは、とてつもなく巨大な黒い猫であった。
「わあ、こわい」
「性悪猫のおでましだ。逃げろ逃げろ」
「ははは。無理難題も程々にしてやれよ」
「それじゃあねギルバート。キミのこと、ずっと見ているよ」
それぞれ声を上げながら、輝くスフィアたちは暗闇に消える。あるものは唐突に消え失せ、あるものは砕けて飛び散り、そしてあるものは光の尾を引いて。そうして、しんと静まり返った暗闇には俺と巨大な黒猫だけが残された。
「…………」
静寂。俺を覗き込む瞳がすっと細められ、やがて黒猫はくつくつと笑い始める。それが何者であるかは、何となく分かっている。俺をあの銀世界に導いた張本人。獣人たちの、母なる女神。
「――ヴァレム様」
「あぁ。調子はどうだ?ギルバート」
俺を覗き込む双眸が切れ長にその形を変え、金の装飾品がしゃらりと音を立てる。無数の装飾に彩られた綺羅びやかなその指先が、俺の顎をくっと持ち上げた。
「っ……すみません、俺……何も、何も…………」
「言わずとも良い。全て、見ていたさ」
その腕が、俺を抱きしめる。柔らかくも大きくハリのあるそれが俺の頬を受け止め、その身に纏う黒い毛皮と金の装飾が俺を包み込む。
「あぁ、見ていたとも。お前が我が子らのために走り、不慣れに苦悩し、戦う姿をな。うむ。うむ。中々面白いものを見せてもらった。ララが惚れ込むわけだ。流石は、混沌の子よな。ヒトを動かし、惹きつけ、喧騒に揉まれて足掻くお前の姿は、まさしく魔の者であった。よく頑張ったな」
「ヴァレム様……」
「……我が子らは、しばらく前にくだらぬ喧嘩をしてからというもの、三つに分かれてしまってな。それがようやく、再びひとつになった。お前が彼の地に連れ込んだ者たちも、よい働きをしてくれそうだ」
「あいつら、が?」
「あぁ。あの、冷たくも優しい眼の娘。あれは、すでに大勢の怪我人を救ってくれている。あの国には癒術士がおらぬでな。あの娘が彼の地に留まってくれれば、我が子らの生活も安泰であろう」
その言葉を耳にした俺は、思わず笑みを浮かべる。そうか。エリザベスは大勢の怪我人を救ってくれたか。彼女のおかげで、救われた命があると。それだけでも、俺が彼女を連れてきた甲斐があるというものだ。
「あのひょうきんな線の細い男、あれは種に関わらず多くのヒトに愛される者であるな。悲しみに凍りつく者たちの心を溶かし、我が子らのかけがいのない友となってくれよう。あの男が皆を繋いでくれれば、我が子らが再びくだらぬ争いを始めることもないだろう」
ヴァレム神は俺の顔を抱きながら、言葉を連ねる。
「あの小さな勇者。あれはハーキュリーズの腕を生まれ持つ才児だな。あの力、あの勇気は悪しき者を砕く刃に、そして他者を思いやるあの優しい心は、きっと皆を守る盾となるだろう。我が子らが苦手とする力仕事にも、活躍してくれそうだ」
そう言って、ヴァレム神はくすりと笑う。
「あの者たちを我が子らの国まで導いてくれたのは、他ならぬお前だ。ギルバート。私の口から、改めて賛美の言葉を贈ろうぞ」
「…………ありがとう、ございます。ヴァレム様」
顔を上げた俺の額に、柔らかな唇が触れる。ヴァレム神はその眼を細め、唇をちろりと舐めて微笑んだ。
「フフ。いつまでもこうしては居られないな。聞こえるか?お前を呼ぶ声が」
「……?」
ハッとして、頭上を見やる。
見上げた暗闇が音もなくひび割れ、よく聞き慣れた声が聞こえてくる。
『ギルバートさま』
俺を呼ぶその声は、紛れもなく、リリアのものであった。
「お前の帰りを待つ者がいるようだね。さ、お行き」
「あ、ありがとうございます。ヴァレム様」
「いいとも。だが、最後に一つ。無事に帰れたら、もう一度我が子らの国へ来ておくれ。褒美を取らせよう」
にこりと笑い、指を鳴らすヴァレム神。その瞬間、俺の意識は頭上の光に吸い込まれた。




