第56話
「……」
俺は深く息を吐き、静かに拳を構える。
やってしまった。思わず、手を出してしまった。肉なき鎧の身で、立ち上がってしまった。だが、そうせざるを得なかった。面倒なことになると分かっていても、動かざるを得なかった。見過ごすことだけは、出来なかった。
俺は、彼女の兄ではない。彼女の家族でも、ましてや友人ですらない。
「(……だが)」
――――俺は、魔王だ。
かよわい同族を守るのは、魔王の仕事だ。
たとえ、住まう土地は違えど。たとえ、互いの名を知らずとも。魔族であるからには、同じ血を引く仲間である。俺たち魔王に与えられた使命は、大きく二つ。勇者を殺すこと。そして、同族を守ること。そしてそれは、魔王も例外ではない。魔王もまた、歴とした魔族であるがゆえに。
「ッ」
壁を蹴り、迫る肉塊。辛うじてヒトの形を留めたその鼻面を手のひらで迎え、掴んだ顔を床に叩き付ける。
「(――俺は、その盾となろう)」
身を翻し、床を踏みしめて蹴り抜く。肉の塊は二つにちぎれて床を跳ねた。
「ぁ、ぁぁァああぁッ!!ぎゃああぁああァッッ!!」
頭部だった場所、眼が覗いたその下にばくりと口が開き、耳障りな声を上げる。
「あァ、痛え。痛えよ。なんでだよ。おかしいだろ。なんで、なんで邪魔するんだよォッ!!くそァッ!くそ、くそくそッ!邪魔するんじゃねェよ、クソがッッ!!誰なんだよ、テメーはよォ――ッぐ」
喧しい頭を蹴飛ばし、踏み潰す。びしゃりと飛び散ったそれはなおも蠢き、肉片同士で繋がって再び口らしきものを開く。
「はぁ、はぁ、やめろ。やめてくれ。邪魔するなよ。邪魔しないでくれよ。欲しい。欲しいんだ。そいつの腕!その力!よこせ!よこせよォ!足りないんだ……まだ、足りない……この、程度じゃ……」
「……」
ただの肉片と成り果ててもなお、力を欲する怪物。ぐちゃぐちゃになった体で、なおも手を伸ばさんとする化け物。どうしようもなく哀れなその様に、俺は拳を握る。
「こんなはずじゃ、無かったんだ。こんな、はずじゃ」
肉の化け物はのたうち回り、やがて身を丸めてぶつぶつと言葉を繋ぐ。
「……俺は、勇者だ。村の誰よりも強い、勇者だったんだ。なのに、なのに俺は、守れなかった。誰も。誰も。俺はただ、強くなりたかったんだ。力が欲しかった。皆を守れるだけの力が、欲しかったんだ。ただ、それだけだったのに」
「……」
勇者。力を求めるあまり、禁忌にでも触れたか。
「(愚かな)」
心の中でため息を付き、血の海を踏む。化け物はもはや腕とも足とも分からぬ突起をべちべちと振り回し、不揃いな歯をぎりぎりと擦り合わせる。
「どうして。どうしてこんなことに。どうして俺が、こんな目に合わなきゃならないんだ!?くそがァッ!!あぁ、あああッ!ちくしょう、ちくしょう……こんな、はずじゃ……」
「(もういい。黙れ……)」
呻く肉片を踏み潰し、膝をついて拳を振り下ろす。響き渡る悲鳴ごと押し潰すかのように、何度も拳を叩き込む。握りしめた拳が肉を潰すたびに血が飛び散り、肉片が跳ね、床すらもひび割れて大きく凹む。やがて、肉片はぴくりとも動かなくなった。
「…………」
拳を染めた鮮血が、血の海に滴る。喧しい声も、耳障りな悲鳴も、もう聞こえない。すり潰された肉は、もう動かない。せめて、安らかに。心の中でそう呟いて、飛び立ってゆく光を尻目に振り返る。床にへたり込んだまま呆然としていたエリザベスが、その濡れた瞳を瞬かせた。
「……」
交わる、視線。しんと静まり返った静寂の中、俺は氷の床に膝をついて静かに手を差し伸べる。エリザベスが俺の手を取った、その瞬間。玉座の間の扉が、勢いよく開かれる。
「エリー!」
扉を開けたのは、先程出ていった優男ガーランド。手にした細剣を翻し、その眼が俺を見てはっと見開かれる。その足元には小人たちがひょこひょこと顔を出した。
「……ガストール、なの……?」
投げかけられたその疑問に、俺はため息を返す。さて、どう返事したものかな。
「違うわ」
エリザベスがぽつりと呟いたその言葉に、ガーランドは戸惑いの表情を浮かべて俺とエリザベスを交互に見やる。まあ、無理もない。俺が同じ立場なら、きっと同じ反応を見せていただろう。仕方あるまい。エリザベスには既に見抜かれている。下手に誤魔化すのは悪手だ。
俺は胸のうちに覚悟を決め、自らの頭を取り外して小脇に抱えてみせる。
「……すまない。まずは、謝らせてほしい」
兜を外した俺の姿は、まさしく首無し騎士。鎧の中身が空っぽであること、つまりは俺がデュラハンであることを、二人に伝える。それぞれのぎょっとした表情はほんの一瞬だけ敵意を含み、そしてすぐに、その表情を驚きと困惑に塗り替えた。
「俺の名はギルバート。遠い南から来た、流浪の魔王だ」




