第39話
「……っ」
ほの暗い闇の底。ぼんやりとした青白い光の中、俺は静かに目を覚ます。コポと音を立てて渦巻く泡と、寄り添う小魚。先程とは打って変わって冷たく冷え切った体。ここが水の中であると言うことは分かるが、何かがおかしい。体の様子が、妙だ。
「……?」
水の中に居ると言うことは、分かる。それは恐らく間違いない。
四肢の感覚はあるし、意識もはっきりとしている。だが、全身を包み込む水の感触を感じない。ただ、少し肌寒い。そういえば水の中だというのに息が詰まる様子もなく、視界を横切る小魚の姿もくっきりと見える。ふと自らの身体に目をやると、俺は自らの体そのものが暗い水の中で青白い光を放っていることに気がついた。
「っ」
覗き込んだその手の向こう側が、うっすらと透けて見える。
淡い光を放つ、半透明のぼやけた体。この姿には、覚えがある。これはまさか、死霊。あぁ、そうかと肩を落とす。
体はリリアの背に置いてきたままだ。
意識だけ、魂だけ抜き取られたか。ララ神め。やってくれるじゃあないか。
「!」
俺の意識とは関係なく、俺の体が何かの力に引っ張られて浮き上がる。咄嗟に身構えようとするも、まるで身動きが取れない。ハッとして顔を上げると、頭上に光が差し込む水面が近づいてくる。
「っ」
やがて俺は、そのまま勢い良く水面を突き破っ……たかに思えたが、それらしき手応えはない。暗闇から一転、眩い光が降り注ぐ虚空へと放り出された俺は、そのままゆっくりと輝く水面に着地する。
立ち並ぶ木々と、古びた石柱。森の中の神聖な泉といったところか。そうして周囲を見渡した俺の足元が大きく揺れて膨らむ。光り輝く水そのものが長い髪となって揺れ動き、巨大な半透明の少女――アクィラ神がおずおずと顔を出した。
「…………」
水面にその目元だけを浮かべ、きらきらとした光を含んだ透明な髪を揺らす泉の女神。泉から出ているのは目元から上だけであるにも関わらず、俺の身の丈よりも遥かに大きなその姿に、息を呑む。俺はその大きさに圧倒されながらも後退り、ここまで送り届けてくれた透き通る恩神に跪いた。
「あ、ありがとうございます。アクィラ様」
「ん…………」
アクィラ神は右へ左へと視線を泳がせ、やがて俺をじっと見下ろす。
この御方は、アクィラ神は、透き通る清流を司る女神。古の時代、土と岩だけであったこの大地に豊かな水をもたらした水神三姉妹の三女。その中でも彼女は水の湧き出す泉を作り出し、その水を大地に流していくつもの川を作ったことで有名な女神である。
彼女が作り出した泉や川は、地中に眠る魔力を水に溶かして大地に行き渡らせる役目を担っており、その水は大地と生物の喉を潤し、木々を育て、彼女の眷属たる魚たちは多くの生物の糧となってその命を支えてくれている。
この地に光と闇をもたらしたソラール神とルナール神と同じく、種族に関わらず敬愛すべき御方だ。
「…………」
アクィラ神は目を伏せてその顔を沈め、こぽこぽと泡を浮き上がらせたかと思うと、その水面から透明な指がぬるりと顔を出し、俺の顔の方へそっと伸ばされる。瞬くような光を含んだその指先が俺の頭を撫でたその瞬間、俺の脳裏に見覚えのない情景が浮かんできた。
「っ」
そこは、見慣れない森の中。木々の合間に伸びる川に沿って情景は進んでゆき、やがて森の中の岩場を削って作られた集落が見えてくる。骨と木で飾られたその門をくぐると、中には高い鼻と鋭く大きな耳を持ち、見るからに大柄で、ふさふさとした尻尾を持つ獣人たちの姿が見える。あれは、犬の獣人か。俺が見た猫の獣人とはまた別の者たちであろう。
『――っ!』
『――!――ッ!!』
犬の獣人たちはその手に武器を持って集落の広場に集まっており、大きく二つの集団に別れて何か言い争いをしている。何を話しているのかは分からないが、今にも殴り合いが始まりそうな険悪な雰囲気が伝わってくる。そのままその横を抜けて大きな建物の中へと進むと、そこには何人もの犬の獣人が身を横たえているのが見えた。
恐らくは、病に伏せる者たちであろう。そのぐったりとした表情が見えたのを最後に、情景は途切れる。ハッとして顔を上げると、アクィラ神がその眼を細めた。
「い、今のは……」
「…………」
アクィラ神はこぽぽと泡を浮かばせ、俺の頭に触れたその指をそっと俺の背後に向ける。その指先を追って振り返ると、泉から森の奥へと流れる川と、その脇に沿って伸びる獣道が見えた。
なるほど。あの道を辿っていけ、と。つまりはそういうことであろう。だが、俺にはひとつ確認しておかねばならないことがある。俺は亡霊と似た自らの手を覗き込み、アクィラ神を見上げる。
「アクィラ様」
「…………?」
「俺の、いえ……私の肉体は、無事でしょうか」
俺がそう尋ねると、アクィラ神は大きな泡を浮かべてその頭を微かに傾け、俺の後方を指し示したその指先で再び俺の頭を撫でる。すると、今度は見覚えのある情景が脳裏に流れ込んでくる。
「……」
そこは、ヴィヴィアンの村の中心にある井戸。
ソラール神の光に照らされた村の家々の合間をくぐり、情景は村の中で最も大きなヴィヴィアンの宿の中へと移り変わる。扉をすり抜け、通路を進んだ先、俺が休んでいた部屋に入る。そこにはベッドに横たわる俺自身と、寄り添って俺の右手を握るリリアの姿。プレートに料理を載せたヴィヴィアンが扉を開け、肩をすくめたところで情景は途切れた。
どうやら、俺の肉体に関しては心配なさそうだ。だが、リリアを悲しませてしまったな。
「……ありがとうございます。アクィラ様。では、これで」
「…………」
その手を小さく振って目を細めるアクィラ神に一礼し、踵を返す。
落ち込んでいる暇はない。リリアの無事が確認できただけでも、十分だ。さっさと片付けるとしよう。
「……すぐ、帰るからな」
俺は空っぽの右手を見つめ、ぎゅっと握りしめた。




