第376話
豪炎。巨竜の口から放たれた灼熱の吐息が瓦礫を巻き込んで渦巻き、反対側の壁までブチ抜いて吹き抜ける。視界が紅蓮に塗りつぶされ、燃え盛る瓦礫の中にきらりと光る純白。光り輝く剣を突き立て、飛ばされまいと耐える白騎士。しかしついに床板ごと炎に巻き上げられ、ハーキュリーズは無様にも床を転げた。
「ぐ、うう……!」
ハーキュリーズは輝く剣を杖代わりに身を起こし、大きく息を吐く。
「どういう、つもりだ……。クロノス……!!」
「どうもこうもあるか。愚か者め」
巨竜のアギトは炎に包まれ、龍鱗のドレスを身に纏う女性となって玉座の間に舞い降りる。今まで何度も俺の前に舞い降りては、いくつもの窮地を救ってくれた真紅の龍神。その立ち姿、その声、その気配に、俺はただ息を飲む。
来てくれたのだ。クロノス神が。来てくださったのだ。勝利の化身が。
「……ハーキュリーズよ。お前は誇り高き正義の象徴。弱きを助け、皆を導く光の騎士だったはずだ。……少し見ないうちに、随分と落ちぶれたな。かつてのお前は、もっと美しかったぞ」
「黙れ、黙れ黙れッ!!クロノス……貴様、私に味方してくれたはずじゃあ、なかったのか……!?」
「誰がそんなことを言った。私が、いつお前に味方した?あぁ、バラフムとディアボロスを切ってやったことか。あれを、私がお前のためにやったと思っているのだな。……だとすればそれは大きな勘違いだ。私は、私がしでかしたことの後始末をしに来ただけだ」
「……っ」
「何を焦っている。一体何がお前をそこまで――」
そう言いかけて、クロノス神はハッとする。何かに気づいたかのようにその目を見開いて、そして、ふっと笑った。
「そうか。お前……信者の数が底を付きかけているのか。さては、神としての力を失いつつあるな?そうか、もはや、なりふり構ってはいられないというわけだな」
「だ、まれ……黙れ!黙れ!う、ぐうう……」
「そんなお前に、一つだけ、確かなことを教えてやろう。――私は、お前の味方ではない」
一歩、二歩。その手が虚空を指差すと同時に揺らめく炎が巻き上がり、無数の刃が舞い踊る。それぞれ大きさも形も違う無数の刃がふわりと浮き上がったかと思うとぴたりと止まり、そして、一斉にその刃先をハーキュリーズに向けた。
「ぅ、ぁ……あ、あああッ!!ああああァッ!!」
刃が、刃と交差する。
目にも留まらぬ速さで繰り出される光の斬撃は降り注ぐ魔剣の雨を跳ね返し、受け流し、数本の刃を打ち砕く。だがしかし、その全てが戦場を支配する神器。それぞれが異なる力を持つ斬撃の嵐に、純白の騎士は飲み込まれる。
「ぁ、ッ」
振り回される光の刃をすり抜けた一本の剣が、その肩に突き刺さる。嗚咽と共にハーキュリーズが一瞬動きを止めたその瞬間、降り注ぐ刃がその腹や、脚を切り裂いて床に突き刺さる。純白の鎧がひび割れ、瓦礫に血の花が咲く。膝をついたその体を、背後から迫る大剣が床に縫い付けた。
「ふん」
クロノス神は浮遊する剣の一振りを掴み、なんの躊躇いもなく振り抜く。ハーキュリーズの右手が、宙を舞う。
「――……」
キン、と、音を立てて、輝く剣が俺のすぐそばに突き刺さる。半ば呆然としていた俺は、その音にハッと我に帰った。
「……ギルバート。そこに居たか」
「クロノス様……」
「その剣を破壊しろ。その刃が、ハーキュリーズの核だ。……ギルバート。私は、お前に味方しよう。お前に『勝利』をくれてやる。その刃を砕け。こいつの光を、その力を、砕いてしまえ」
その言葉に、俺はふらりと立ち上がる。俺の名を小さく呟いて身を寄せ合うリリアやエミリー、ハリエットを横目に、俺は、恐る恐る「それ」に手を伸ばす。ぱちりと火花を散らすその剣の柄を握って、ゆっくりと引き抜く。ビスコッティが、それをまじまじと覗き込んだ。
「……」
光り輝く刃。俺の手の中で輝くその刃は既にひび割れ、微かに震えている。俺はそれを頭上高く振り上げ、近くの瓦礫に狙いを済ます。叩きつければ、全てが終わる。なんとなく、それは理解出来ていた。
――――だが、俺は。
「…………」
俺は、振り上げたその手をゆっくりと下ろす。出来ない。俺には。この刃を砕くことなんて、出来ない。出来るはずがない。いや、そんなことは、しちゃあダメなんだ。俺はその剣をしっかりと胸に抱き、ハーキュリーズの元へと、歩み寄る。
「何をしているんだ?ギルバート。砕けと言ったのが聞こえなかったか?」
「……すみません。クロノス様。ですが、私は……こんなことをしに来たわけじゃ、ないんです」
そうだ。俺には、やるべきことがある。皆と共に成し遂げたい夢があるんだ。俺は驚きに目を見開いて立ち尽くすクロノス神の隣を抜け、倒れ伏す白騎士の前に膝をつく。輝く剣を、その手元へと、差し出す。
「ハーキュリーズ様」
「……」
「人間と魔族は、共に生きることが出来ます。皆、戦など望んではいません。……もう、終わりにしましょう。これ以上の戦は、無意味です。骸の山の、その先に……未来はありません。手を取り合って、力を合わせれば、きっと――――」
そう言いかけた、その瞬間。俺は息を飲む。剣を握ったその手が、振り抜かれる。世界は静止し、音もなく俺の首筋に迫る刃の軌跡だけが、凍りつく意識の中にきらりと光る。
再び世界が動き出したその時、気がつくと俺は、強く引っ張られていた。
「――っ」
首筋に駆け抜ける痛み。温かいものが首から胸へと流れ落ちる感覚を味わいながら、俺は尻もちをつく。
「ギルバートさまっ!!」
俺の体を引っ張ったのは、リリアだった。エミリーとハリエットがわっと身を寄せてくる中、俺は、気づく。光り輝く剣を突き立て、立ち上がる人影。大魔王たちと、クロノス神の視線は、俺ではなく、『それ』に向いていた。
『……黙レ……だ、マレ……ダマレ、ェ……!!』
飛び散る鮮血。砕け散る純白。みしりと音を立てて膨らみながら、それは、ヒトでは無くなってゆく。ひび割れゆく鎧の内側から新たな鎧が形成され、めちゃくちゃに鋼が重なり合い、瓦礫をも巻き込んで変形を繰り返しながらそれはどんどん膨れ上がってゆく。
「逃げろお前たち!この城ごと飲み込まれるぞ」
クロノス神が声を張り上げる。大魔王たちは顔を見合わせ、揺らぐ古城から外へ飛び出してゆく。クロノス神はそのまま俺達に目を向けると、呆然と身を寄せ合う俺達をまとめて尻尾で巻き取り、翼を広げて外へ飛び出した。
「っ」
「あ、あわわ……」
脱出すると同時に巨竜へと姿を変えたクロノス神の背の上から、俺達はそれを見下ろす。地鳴りのような咆哮を上げ、腕らしきものを振り上げる鋼の巨人。異様なほどに巨大な片腕と、胸部と、頭だけの、錆びついた鋼と瓦礫の塊。古城だったものを身に纏い、吼える怪物。
変わり果てたその姿に先程までの面影はなく、しかしそれは確かに、鎧を纏う騎士のようにも見えた。
「どうするのよ……あれ……」
『……やつの魔神態は、黄金と白銀に輝く鎧を纏う美しい騎士だ。かつては民を導き、不安を打ち払う希望の光そのものだった。……とうとう、己の姿すら見失ったか。ハーキュリーズ……哀れな女よ……』
脳裏に流れ込むクロノス神の声。しかしその声は、どこか寂しげに意識をすり抜けてゆく。真紅の巨竜はもはや美しさの欠片もない怪物を見下ろしながら、空を泳ぐ。怪物はそんな俺達を見上げ、口らしきものを開く。その瞬間、巨大な魔法陣がその口の奥に光り輝く。クロノス神が唸りを上げた。
『お前たち!飛ぶすべは持っているな。すぐに私から離れろ。……あの愚か者、瓦礫と一緒にベスティアの欠片を飲み込んだらしい。消し去る気だ。全てを。――行けッ!!』
すぐさまリリアが巨大な魔獣となって翼を広げ、俺達はその背に飛び乗る。そうしてリリアがクロノス神の背から飛び立つと同時に、クロノス神は虚空に立ち上がるように身を起こし、そのアギトに豪炎を蓄えてゆく。はっとして怪物に目を向けると、魔法陣はみるみる広がり、重なり合い、無数の光が渦を巻く。
「――――伏せろッ!!」
閃光。二つの巨影が、同時に解き放つ。弾ける光と共に放たれた二つの熱線が、真正面からぶつかり合う。凄まじい魔力の奔流に俺達はただ翻弄され、巻き込まれそうになる。リリアは力強く羽ばたいて全力でその場を離れ、どうにかその身を虚空に縫い止める。
「クロノス様……!」
重なり合う熱線が光を撒き散らし、空が、大地が、悲鳴を上げる。その二つの熱線の境目が、少しずつ、しかし確かに、クロノス神の方へと押し込まれてゆく。
「力負け、してる……?そんな」
「無理もない。向こうは死ぬ気だ。文字通り、全てを吐き出すつもりなんだ。いくら、クロノス様でも……」
俺達が最悪の事態を想像し、ごくりと唾を飲んだ、その瞬間。熱線は、突如として途切れた。
「!」
爆発のような、衝撃音。そんな音を響かせたのは、ハーキュリーズの方である。俺達がハッとして目を向けると、ハーキュリーズの首が、あらぬ方向へと捻じ曲げられているのが見える。一体、何が。それを理解する前に、また衝撃音が響き渡る。その頭部が大きく凹んで瓦礫が飛び散り、地鳴りのような悲鳴が響く。
「なんだ……?」
リリアの背から身を乗り出し、目を凝らす。俺は、すぐに気づいた。その肩に立つ、緑色の小さな人影。そしてその頭部に食らいつくようにして糸を引く赤い塊。血のようだが、違う。あれは――
「……ミゥ!エンバーラスト!」
「嘘ぉ!?」
身を乗り出す俺達の眼の前を、七色の光が横切る。ハッとして目で追うと、きらきらと極彩色の光を振りまく妖精が、俺を見てにこりと笑って、飛んでゆく。
「あれは、クリスタリア……ってことは、まさか!」
地上に目を凝らす。よく見てみれば、地上にはいくつかの人影が、ハーキュリーズを囲むようにして集まっているのが見える。その中に、大蛇のような尻尾を持つ者が二人。その手から放たれた二つの光が、ハーキュリーズの豪腕に絡みついて地面に縫い付ける。
「来て、くれたのか……」
はらりと、頬に涙が伝う。吼えるハーキュリーズの巨体が闇に包まれ、たちまち漆黒の鎖がその全身を縛り上げる。神をも縛る、黒魔術。あんな術が使えるのは、一人しかいない。
「エレオノール……」
俺が顔を拭うのと同時に、大地が悲鳴を上げる。ひび割れた大地の奥底から、黒いものが溢れ出す。それは、幾万もの蟲の大群。黒い津波がハーキュリーズの巨体に渦巻き、その全身を噛み砕いてゆくのがわかる。やがて大地の裂け目はさらに広がり、地の底に、きらめく銀色が光を放つ。大型の蟲たちと共に、蟲の王が身を起こす。
『――ギャアアァァアァオオォォォッッ!!』
全てを揺るがす咆哮。もはや懐かしくすらあるその声に、俺は思わず笑みをこぼす。
「バラムス」
山よりも巨大な蟲のアギトが、巨神の兜に食らいつく。瓦礫と鋼の塊は、絶叫と共に砕けてゆく。
やがて、もはや吼えることしか出来なくなった巨神の腕を駆け上がってゆく人影。その影が頭部の一部を蹴飛ばすの同時に、柔らかな白金色が、きらりと光る。リリアとよく似た、しかしより大きな魔獣が翼を広げて舞い上がり、その眼から熱線を放つ。黒い影がその身に飛びついて、何度も拳を振り下ろす。そのたびに、瓦礫が乱れ飛ぶ。砕けゆく巨神を背に、ヴァルハザードが俺達を見上げた。
「降りよう。もう、大丈夫だ」
炎の吐息を散らしながら地面に降り立つクロノス神に続いて、リリアも地上へ降り立つ。俺がその背から降りると、いくつもの見慣れた顔がそこにあった。
「「ギルバート」」
皆が、俺の名を呼ぶ。エレオノールやミゥが駆け寄ってきて、俺を抱きしめる。ハーキュリーズは、もはや動く気配もない。そこにはただ、物言わぬ瓦礫の山だけが散らばっていた。
「終わった、のか……?」
「いいや、まだじゃ。ギルバート。最後の仕事が残っておるぞ」
皆が、魔王たちが道を開ける。その先、恐らくは頭部の残骸であろう瓦礫の中に、光り輝く剣がひとつ。その刃はもはや、剣としては使い物にならぬほどにボロボロであった。
「――許さないぞ。ギルベルト。裏切り者め。貴様のせいだ。貴様のせいで……私は……」
剣から、か弱い声が聞こえてくる。その地面が赤く染まって灼熱の沼のようになり、何か大きな力が溢れ出す。それは紛れもなく、魔神の気配。だがそれは、今まで出会ったことのない気配。だが俺は、それが何者かすぐに分かった。
罪と罰を司る魔神バベル。全ての罪に、等しく罰を与える者だ。
『悪ィ子は、いねえか?悪ィ子は、いねえか?――見つけたぞ。見つけたぞ』
いくつもの目がついた黒い手が沼から這い出し、ハーキュリーズの剣を掴む。その刃は、ズブズブと燃え盛る沼に沈んでゆく。黒い手に開いた眼が、笑うように細められる。
『悪ィ子は、埋めちまおうなあ。……悪ィ子は、いねえか?悪ィ子は、いねえか?悪ィ子は――……』
同じ言葉を繰り返しながら、バベル神は沼の底へ消えてゆく。ハーキュリーズと共に。俺は静かに息を吐いて、沼のふちに膝をつく。沼に沈みゆく剣に、声を掛ける。
「ハーキュリーズ様。私は、人間と魔族が……いいえ。全ての種族が、共に暮らせる場所を作ります。どうか、見守っていてください」
『……笑わ、せるな。……そんなことが、出来るはずがない……』
「作ってみせます。――必ず」
『…………ふん。勝手にしろ。出来るものなら、な……』
その言葉を最後に、ハーキュリーズは、沼の底に消えた。長い、長い戦いの、終わり。その輝きが消えるその瞬間は、とても、とても、静かなものだった。
◆
燦々と輝く青空の元。
見上げるほど大きくなった世界樹の根本に、賑やかな声が響いている。
「おおい、こっち、全然作業が進まねえぞ。ミゥ!こっちにもオーク貸してくれよ」
「何じゃと!?蟲のクセに甘ったれたことをいうでない!いくらでも手はあるじゃろ。こっちはこっちで、手一杯じゃ!これ、お前たち!もっと手を動かさんか!」
「うるさいばあちゃんが一人増えちまったな……」
「どうしてこんなことに……」
「もう、あたしたち働かなくてよくない?」
「休んでる暇はないよ!これからもっと増えるんだ。気合入れて働きな」
「ちくしょう。うるさいばあちゃんは一人で十分だぜ」
「しばらく休めそうにないな」
「もう、むり……」
「おいババアども!うちの連中をコキ使ってんじゃねえ!」
「だったらアンタが人一倍働くこったね」
「誰がババアじゃ!捻り潰すぞ」
「ねえ、これどこに置けばいいの?」
「ギール!ギールはどこだ!」
「……呼ばれてますよ。ギルバートさん」
「あ、あぁ。すぐいく。……それにしてもこの、書類仕事ってのはどうにも慣れないな」
「そうでしょうね。ですが、これから国を作ろうというのです。まだまだ、書くものはたくさんありますよ。バラフム様も、もうじき到着なさるようです。母上様も、共にお越しになると」
「そうか」
「そうそう、マリーナ様からもお返事が来ています。海の民も、地上に興味津々のようですね。それと、ヴァレムシアからもお手紙が。ええと、エリザベスさんから。……これから向かう、とのことです。お友達と一緒に。まだまだ休めそうにないですね」
「あぁ、そうか。良かった。あいつらが来てくれるなら、心強い」
「それにしても、無茶なことを。まさか本当に、全ての種族をこの地に集めるつもりですか?」
「そのつもりだ。作ると、約束したからな」
ふうと息を吐いて、俺の机に紙束を重ねるヴィヴィアン。俺は紙にいたずら書きを――ではなく、手伝いをしてくれているマオたちを軽く撫でてやり、席を立つ。と同時に、リリアが部屋に飛び込んでくる。
「大変です!ギルバートさま!エレオノールさまが薬をこぼしちゃって」
「またか。気をつけろと何度言えば……」
「ギルバートぉっ!」
続いて飛び込んできたのは、エミリーだ。
「どうした」
「大変、大変。大変なの。マホローティが、買ってきた食材を食べちゃってるの。皆のお昼ご飯が!」
「分かった分かった。すぐに行く」
やれやれと肩をすくめて、ため息をつく。もうしばらく、頭痛は続くだろう。だが、青空から俺達を見下ろして微笑むソラール神の笑顔を見ると、まだまだ頑張れるような気分になる。そうして俺は、今はまだ作りかけの俺の国『ディアベル』に足を踏み出す。
ありとあらゆる種族が、共に暮らす理想郷。その完成は、ほんの少しだけ、未来の話だ。




