第37話
七色の光が渦巻く扉の向こうへと一歩を踏み出そうとした瞬間、光の壁に浮かび上がる紋章。重なり合う花弁と二つのハートマーク、その中央に『6』という数字。その意味も分からぬまま、俺はララ様に手を引かれて光の壁を突き破る。
「っ」
頬を撫でる風。弾ける光と共に広がるその光景に、ため息をつく。
そこは、光溢れる庭園。光り輝く噴水を中心に伸びる真っ白な石造りの通路と、張り巡らされた金の装飾。その奥に佇む黄金の城。立ち並ぶ植木は瑞々しくその葉を光らせ、青々とした緑の絨毯には色とりどりの花が咲き乱れている。その美しさを称える言葉を、俺は知らない。柔らかな風に花びらが舞い踊る中、通路にずらりと並んだ仮面の執事たちが一糸乱れぬ動きで頭を下げた。
「うふふ。ごくろうさま~」
ララ様は執事たちにひらひらと手を振りながら、俺の腕を抱きしめる。仮面の執事たちに見せつけるかのように身を寄せてくる彼女のキスを頬で受け、共に通路を往く。その時、別の通路から小さな人影が足を踏み出した。
「あら。ごきげんよう」
「はぁい、ごきげんよう」
ひと目で愛想笑いだと分かる微笑みを浮かべたその人は、真っ赤なマントを引きずって歩く小さな姫君。ふわふわの金髪に大きな冠を乗せ、その手に料理が乗った皿と金の杯を持つその人は俺を一瞥することもなく通路を横切り、美しい庭園を歩いてゆく。
広々とした庭園を見渡すと、あちらこちらに美しい女性、もとい女神が各々の時間を楽しんでいるのが見える。
淡い七色の光が渦巻く空を見上げれば、羽ばたく大きな翼の影。
花畑に座ってぼんやりとしているのは、キノコの傘を帽子のように被った女性。噴水には透き通る氷のような体を持つ少女がひっくり返した皿を見つめてすすり泣き、触手のような無数の足を持つ人魚の女性がその足に乗せたスープ皿を傾けている。植木の向こうから白銀のローブを着込んだ小さな魔女が顔を出し、よじ登ったかと思うと足を滑らせて地面に叩きつけられた。
「……」
酒を満たした金の杯を手に、すれ違う少女。夕焼けに燃える夜闇を写したような髪がさらりと揺れ、その頭に突き出た立派な漆黒の角と長く太い尻尾がぬらりと光る。面識はない、しかしどこか見覚えのあるようなその背を、無意識に目で追ってしまう。あの色、どこかで――――。
「うんうん。皆、元気そう。今日の会場はお城の中かしら。美味しい料理もお酒もい~っぱいあるのよ。今日はゆっくり楽しみましょうね」
「……」
ララ様はどこか懐かしむように頬に手を添えるが、俺はただぼうっと美しい女神たちの姿を眺めてしまう。上手く言葉に出来ない、ただ美しいその姿から、目が離せない。ララ神が俺の頬をちょんとつついた。
「んもう。何ぼうっとしてるの」
「す、すみません」
むぎゅっと柔らかなそれを押し潰すように身を寄せ、俺の胸にその指を滑らせるララ様。どこか艶やかなその瞳の輝きに、唾を飲む。やがてララ様は、俺の唇をついと撫でた。
「ふふ……」
「……っ」
柔らかな微笑みに溢れる吐息。意識を溶かす甘い芳香。そのふっくらとしたその唇が再び俺の顔に触れようとしたその時、飛来した何かがすぐそばの植木を踏み潰す。その轟音と衝撃に、ララ様は俺から視線をすいと逸らした。
近くにいた女神たちも含めたその視線の先、潰れた植木の枝を蹴飛ばし、仮面の執事がその姿勢を整えて一礼する。さらりとした黒髪と、仮面の奥に光る真紅の片目。ララ様を迎えに来た彼女である。
「お楽しみのところ、申し訳ございません。ララ様」
「なぁに?どうしたの?」
「ユグドラシル様がお呼びです」
その言葉に、ララ様の頬が引きつる。その眼がちらりと俺を一瞥し、仮面の執事へと移る。近くで様子を見ていた女神たちは顔を見合わせ、何も聞かなかったかのようにそれぞれ顔を逸らす。
「……な、なんでぇ?わたし、何もしてない……ケド……」
「すぐに来るように、と」
「……っ」
ちらりと、再び俺を見る。俺の意識はまるで夢心地に漂うかのようにぼんやりとため息を付き、聞き覚えのあるその名前に関する記憶の糸を探し始める。ユグドラシル。その名前。確かに、どこかで聞いたような。だが、思考は散らかるばかりで言葉が見つからない。めまいと共に膝が震え、植木が俺を抱きとめる。ララ様がハッとして俺の肩を抱いた。
「だ、大丈夫?しっかり」
「ララ様」
静かな、しかしどこか力強さを感じる声。ララ神はむっとして顔を上げ、俺の顔を優しく撫でる。
「…………もう。行けば良いんでしょ行けば。ごめんね。ちょっとお呼ばれしちゃったから、ここで待っててね。す、すぐ戻るから。絶対にここを動いちゃだめよ?」
「はい……」
俺の肩を抱いて「ごめんね」と言葉を重ねるララ様の声が、俺の意識に染み渡る。やがてララ様は俺の頬にそっとキスをし、仮面の執事に連れられて黄金の城へと向かってゆく。その場に一人残された俺は、崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。
「…………」
俺は、何をしている。ここは、どこだ。俺は、一体何だ。放り出した自らの足をぼうっと見つめ、ため息をつく。そんな俺の視界に、すらりとした黒い獣がその足を止める。俺の視線は、その美しい毛並みに向いた。
「……どうした。具合でも悪いのか」
しなやかな体に、丸い顔。三角の耳と、細長い尻尾。その口に咥えていたトカゲの黒焼きを俺の太ももに置いたその獣は、猫と呼ばれるそれに似た――いや、そのものである。
「ほら、食え」
黒い毛並みが大きく膨らんで広がり、褐色の指が俺の頬を撫でた。




