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魔王のすゝめ  作者: ぷにこ
第三章 魔王と死神の丘
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第36話




 柔らかな浮遊感。気がつけば俺は、光が差し込む暗闇に浮いていた。

 

「……」


 何もない、暗闇。差し込む光の帯が、すぐそばにある。

 ここは何処なのか。何故俺はここに居るのか。そんなことは、どうでもいい。甘い匂いがする。あの光の方から、とてもとても甘い匂い。全身がとろけてしまいそうなほどの幸福感と温もりを感じながら、暗闇を漂う俺の体は吸い寄せられるようにして光の方へと向かってゆく。


 ちかちかと明滅する光と甘い匂いに導かれるまま進んでゆくと、やがて絡み合うように交差する鉄格子が俺の行く手を阻む。俺は無意識にそれを掴み、中を覗き込んだ。


「……ぁ」


 思わず、息が溢れる。見えたそれは、光り輝く花びらを纏う大輪の花。

 柔らかなピンク色の、眩しいほどに美しい花。渦を巻くように重なり合う花弁の中心がぱくりと裂けて歯を覗かせ、その口の中から溢れる白い煙と共に少女のような形をした何かがむくりと身を起こす。それを芯に花開くようにして無数の腕が伸びて広がるその様に、ぞわりと全身が凍った。


「っ」


 いけない。あれに近づいてはいけない。どこかぼんやりとした意識の中、何かがそう訴える。しかし俺の体は言うことを聞かない。甘い匂い。甘い匂いがするのだ。


『――――』


 渦巻いて開く無数の腕が、光と揺らめくその影が、俺を呼ぶ。こっちへおいでと、手を招く。行きたい。彼女の元へ。入りたい。この中へ。その場を離れろと訴える俺の中の何かが、甘い匂いに掻き消される。何も考えたくない。そう、何も考えなくていい。ただ、彼女の元へ。


 帰らせてくれ。俺を。この中へ。


「!」


 そう願った瞬間。鉄格子が太く膨れ上がる。

 やがてそれは掴めなくなり、絡み合うその隙間もまた大きく大きく広がってゆく。


 俺が通れるほどに大きく広がったその隙間から、甘い匂いが漂ってくる。入れる。中に入れる。あぁ、良かった。これで彼女の元へ帰れる。心の底から安堵の息が溢れ、無意識に頬が緩む。俺はまるで巨木のような格子を這い上がり、その中へと飛び込んだ。



「――――はぁい、つかまえた」



 いたずらっぽく笑う、甘い声。溢れて渦巻くピンク色。暖かい光の波が俺を優しく包み込み、俺の視界を塗り潰す。俺の意識は上下左右に転がり、押し流され、目が回る。それが、心地よい。俺は、ただ静かに身を任せる。力を抜いて、身を委ねる。やがて、柔らかな手が俺の頬を撫でた。


「……」


 気がつけば俺は、もちりとした柔らかな枕に頭を乗せ、身を横たえていた。



「よしよし、いい子ね」


 優しい声と共に、俺の顔を撫でるしなやかな手。

 俺の視線を遮る豊かな山の向こうから、俺の顔を覗き込む柔和な笑顔。もふりと揺れる、淡いピンク色の長い髪。美しい花弁を合わせたような、ふんわりと柔らかなドレス。少しその背を丸めればこぼれてしまいそうなほど豊かなそれに、俺の視線は否応なく向いてしまう。


 美しく豊満な美女――ララ様は、そんな俺を優しく見下ろしてくすりと笑った。


「どこか……痛いところとか、ない?」


 その言葉に、俺は首を振る。痛いところなど、あるはずがない。俺は体を強打したような覚えはないし、どこも怪我はしていない。今はただ、心地よくて。暖かくて。再び眠りに落ちてしまいそうだ。柔らかな、この膝の上で。


「ふふ。まだ眠いの?でもダ~メ。もう集会が始まっちゃう。おめかししなくっちゃ」


「……もう、少し……」


「んもう、甘えん坊さんなんだから」


 その手が優しく俺の頭を撫でる。俺は全身の力を抜いてため息を付き、その心地よい温もりに身を委ねる。いつまででも、こうしていたい。俺はもう、疲れたんだ。このままずっと、この人の傍で……。


「はい、あ~ん」


 瑞々しい葡萄の一粒が、その指にきらりと光る。促されるままに口を開き、舌に転がしたそれを噛むと、ハリのあるその皮がぷちりと弾けて甘みの豊かな果汁が口いっぱいに跳ね回る。柔らかな果肉を噛んでごくりと飲み込めば、自然と笑顔が溢れる。俺の顔を覗き込む美しい顔もまた、にこりと笑った。


「おいし?」


「……とても」


「そう。よかった」


 優しく俺を撫でるその人――ララ様は濡れた指に伝う雫をそっと舐め取り、唇を舐めて微笑む。そのどこかあどけなくも艶やかな笑顔に、どきりとしてしまう。その手が俺の頬に触れると同時に、顔が熱くなる。すると、ララ様はふっと顔を上げた。



「――お時間でございます。ララ・フェ・ルディラ様」



 凛とした女性の声。名残惜しさを噛み締めながら身を起こすと、そこには見るからに上質な作りの豪奢な扉と、その傍らに燕尾服を身に纏う仮面の執事が立っていた。


「もう時間なのお?もうちょっとのんびりしたかったのに」


 ララ様がそう言って立ち上がると、豊かなそれが大きく揺れる。さっと目を逸らすと、執事は仮面の奥に赤い片目を光らせ、その黒髪を揺らして一礼し、静々と扉を開く。渦巻く七色の光と白い煙が吹き出し、ララ様は俺の片腕をそっと抱いてにこりと笑った。



「さ、行きましょうか。愛しい人」

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